豊岡地区・現存
天龍院
てんりゅういん
天龍院(てんりゅういん)は、磐田市上野部(旧磐田郡豊岡村域)にある曹洞宗の寺院です。山号は神谷山。『静岡県磐田郡誌』によれば二俣城主松井氏の菩提のため享禄元年(1528年)に創立され、桶狭間の戦いで戦死した松井宗信の首が葬られたと伝わります。境内の松井氏首塚と供養塔は磐田市指定史跡で、戦国の記憶を今に伝える上野部の菩提寺です。
別称・関連名称神谷山天龍院
- 寺院名
- 天龍院
- 地区
- 豊岡
- 住所
- 静岡県磐田市上野部353番地
- 宗派
- 曹洞宗
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 天龍院
- 読み方
- てんりゅういん
- 地区
- 豊岡
- 宗派
- 曹洞宗
- ご本尊(資料上)
- 調査中・加筆待ち
- ご本尊の現在の確認状況
- 未確認
- 住所
- 静岡県磐田市上野部353番地
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 松井氏首塚と供養塔
- 最終確認日
- 2026.07.19
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 天龍院
- 宗派
- 曹洞宗
- 本尊
- 未確認
- 創建
- 享禄元年(1528年)8月
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市上野部353番地
- 地区
- 豊岡
Database 02
沿革
二俣城主松井氏と享禄元年の創建
『静岡県磐田郡誌』には「天龍院(野部村)」として「野部村上野部字神田に在り。神谷山と号す」とあり、永正11年(1514年)に松井左衛門尉信薫が城東郡平川村から二俣城に移った経緯に続けて、享禄元年(1528年)8月に一寺が創立され、城東郡各和村(現在の掛川市各和)の永源寺第3世・一貞和尚が開山に請じられたと記されています。一貞が招かれたのは、松井宗信の参禅の師であったためと郡誌は伝えます。享禄2年(1529年)2月26日に信薫が没して当寺に葬られ、寺は松井氏歴代の菩提所となりました。弘治2年(1556年)に開山一貞が示寂した後は、弟子の貞超が第2世として住持しています。二俣城主として天竜川中流域を押さえた松井氏が、居城から天竜川を下った野部郷の地に菩提寺を営んだことは、戦国期の城主と川沿いの村々との結び付きを示すものといえます。
桶狭間の戦いと松井宗信の首塚
松井宗信は今川氏に従い、永禄3年(1560年)5月19日、尾張の桶狭間で今川義元とともに戦死しました。『静岡県磐田郡誌』は、その首が当寺に葬られたと記しています。境内には松井宗信の首を葬ったと伝わる首塚と供養塔(室町時代)が現存し、戦国時代を語る史跡として平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定史跡「松井氏首塚と供養塔」に指定されました。郡誌が引く『遠江国風土記伝』にも「開基松井氏宗信之墓所。碑石存」とあり、江戸時代の地誌の段階で宗信の墓所と碑石の存在が記録されていたことが分かります。
二俣城の攻防と寺の困弊
菩提寺天龍院の運命は、松井氏の居城二俣城の帰趨と深く結び付いていました。『日本の城がわかる事典』などによれば、二俣城は天竜川と二俣川に挟まれた城山に築かれた山城で、桶狭間で戦死した松井宗信のあとは子の宗恒が城主を継ぎました。永禄12年(1569年)に今川氏が滅びると松井氏は武田氏に従属しますが、徳川家康の攻撃を受けて開城し、二俣城は徳川方の城となります。元亀3年(1572年)には上洛を目指す武田信玄が遠江へ侵攻し、水の手を断たれた二俣城は落城しました。天正3年(1575年)の長篠の戦いの後、同年12月に徳川方が城を奪還しています。『静岡県磐田郡誌』は、この動乱の中で武田軍の攻撃により二俣城が落ち、庇護者を失った天龍院も困弊したと記しています(郡誌は落城を「元亀元年」と記しますが、一般的な攻防戦の年代である元亀3年との整合には検討の余地があります)。衰えた寺運は江戸時代に入って回復へ向かい、慶長8年(1603年)9月15日、徳川家康から朱印高9石を与えられたと郡誌は伝えています。
江戸時代の寺格と末寺
郡誌が引く『遠江国風土記伝』には「上野部 天龍院 朱符之寺田高九石。末寺四宇。曹洞宗佐野郡各和村永源寺末。太年派」とあり、江戸時代の天龍院は朱印高9石・末寺4宇を有する永源寺末の寺院でした。太田亮『遠江』(磯部甲陽堂、1927年)にも「天龍院(上野部村)曹洞宗、九石、松井左衛門亮の開基」と記されています。末寺としては、上野部字本村の保安寺(天龍山。永禄12年〔1569年〕2月、天龍院第2世貞超が村民の希望により創建)、田原村西島の金海寺(広福山。天文11年〔1542年〕の草創で天龍院第2世を開山に請じたと伝える)が郡誌に天龍院末と記されており、上野部を核として周辺の村々へ法系が広がっていたことがうかがえます。
磐田郡三十三観音霊場の札所として
天龍院は、磐田郡内の観音霊場をめぐる磐田郡三十三観音霊場の第15番札所「神谷山天龍院」とされてきました。霊場一覧では隣の第16番が敷地の龍寿山永安寺(臨済宗妙心寺派)とされており、天竜川左岸から敷地川流域にかけての旧豊岡村域の寺々が札所として連なっていたことが分かります。こうした霊場の巡拝は、宗派を越えて地域の観音信仰を結び付けてきた歴史の証しであり、上野部の天龍院もその一角を担ってきました。当ページではこの札所情報を歴史的な位置付けとして記録するもので、現在の巡拝受け入れ状況は確認できていません。
上野部村から磐田市へ
『日本歴史地名大系』の上野部村の項によれば、上野部は江戸時代のはじめは幕府領で、宝永年間からは幕府と旗本気賀近藤氏の相給、宝暦13年(1763年)からは幕府と掛川藩の相給とされました。慶長16年(1611年)の検地では高282石余、正保郷帳では田畑合わせて約279石、元禄郷帳では高359石余、天保郷帳では高384石余と、村高が少しずつ増えており、天竜川沿いの村の開発が進んだ様子がうかがえます。明治22年(1889年)に野部村の大字となり、昭和30年(1955年)に広瀬村・野部村・敷地村の合併で発足した磐田郡豊岡村に属し、平成17年(2005年)の合併で磐田市の住所表示となりました。現在の天龍院は曹洞宗公式の曹洞禅ナビに登録されており、同ページには梅花講(法要儀式で用いる詠讃歌の講)のアイコンが表示されていて、講を通じた檀信徒の営みが続いているとみられます。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 未確認
- 宗教的意味
- 天龍院は曹洞宗に属し、掛川市各和の永源寺から開山一貞和尚を迎えた法系(『遠江国風土記伝』のいう太年派)に連なります。二俣城主松井宗信が参禅の師である一貞を開山に請じたという由緒は、戦国武将と禅僧の結び付きをよく示すものです。第2世貞超が村民の希望に応えて末寺保安寺を開いたと伝わるように、武家の菩提寺として始まった禅は、やがて上野部の村人の暮らしへ根を下ろしていきました。曹洞禅ナビには梅花講のアイコンが表示され、詠讃歌を通じた檀信徒の営みが今もうかがえます。なお本尊の尊格は『静岡県磐田郡誌』の由緒に記載がなく、現時点では確認できていません。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
松井氏首塚と供養塔
桶狭間の戦いで戦死した二俣城主・松井宗信の首を葬ったと伝わる塚と供養塔で、時代区分は室町時代、所有者は天龍院です。平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定史跡となりました。江戸時代の地誌『遠江国風土記伝』にも「開基松井氏宗信之墓所。碑石存」と記録されており、戦国武将の供養の記憶が近世を通じて守り伝えられてきたことを物語ります。桶狭間から遠く離れた天竜川左岸の菩提寺に首が運ばれて葬られたという伝承そのものが、松井氏と上野部の深い結び付きを示す史料といえます。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
天龍院のある上野部は、天竜川が山あいを抜けて遠州平野に開ける扇頂部の左岸に位置し、対岸は旧浜北市域(現在の浜松市)です。中世には野部郷と呼ばれた地域の遺称地で、天龍院の由緒に登場する二俣城(浜松市天竜区)へも天竜川沿いに近く、川を挟んで遠江の要衝とつながる立地でした。松井氏の菩提寺がこの地に営まれたのも、二俣城と遠州平野を結ぶ交通の結節点だったことと無縁ではないと考えられます。江戸時代の上野部村は幕府領から相給支配へと移り変わりながら、天竜川沿いの田畑を少しずつ広げていった村で、天龍院はその村の菩提寺として人々の暮らしを見守ってきました。
旧豊岡村域にあたる豊岡地区は、天竜川下流域左岸に広がる面積約39.78平方キロメートルの土地で、『日本歴史地名大系』によれば村域には50ほどの遺跡が登録され、その多くは天竜川左岸の段丘に立地する古墳群が主体で、縄文・弥生時代の遺跡や銅鐸の発見も知られる歴史の古い地域です。昭和30年(1955年)に広瀬村・野部村・敷地村が合併して豊岡村となり、平成17年(2005年)に磐田市の一部となりました。天竜浜名湖鉄道の上野部駅は天竜川の堤防近くにある無人駅で、駅名は旧野部の上流に位置することに由来し、夏には天竜川の鮎釣りの人々が降り立つと紹介されています。駅周辺には仏教美術を収蔵する浜名梱包輸送シルクロード・ミュージアムが所在し、令和3年(2021年)12月からはネーミングライツにより副駅名が「シルクロード上野部」となっています。
上野部の集落には、天龍院(曹洞宗)と妙満寺(日蓮宗)の2か寺が並び立ち、それぞれ掛川・浜松方面の本寺と結ばれた法系を伝えてきました。天龍院の末寺として村民の希望で創建された保安寺の伝えが示すように、この寺は戦国武将の菩提寺であると同時に、上野部の村人の暮らしと祈りを支える寺として歩んできました。豊岡地区では、天浜線豊岡駅の北東の丘陵地帯に県西部で最大規模とされる約4,000本の豊岡梅園が広がるなど、山あいの地形を生かした農業の営みが続いています。首塚の伝承についても、令和6年(2024年)に磐田市の豊岡東交流センターで松井宗信生誕510年の講演会が開かれるなど、今も地域の記憶として受け継がれています。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9384
- 宗派公式資料天龍院 - 曹洞禅ナビ(曹洞宗公式寺院ポータルサイト)
寺院名(テンリュウイン)・住所(磐田市上野部353)・曹洞宗所属を確認。歴史等の詳細記述はページ上になし。
- 行政・公的資料旧豊岡村の住所表示|磐田市公式ウェブサイト
上野部が旧豊岡村の大字であり、合併により磐田市の住所表示となったことを確認。
- 民間二次情報上野部 - Wikipedia
上野部地区の寺院として天龍院(曹洞宗)・妙満寺(日蓮宗)が記載されていることを本文で確認。
- 民間二次情報天龍院(曹洞宗)|播磨屋の寺葬儀
所在地と、天竜浜名湖鉄道上野部駅から約810mというアクセス情報を確認。寺史の記載はなし。
- 郷土資料『静岡県磐田郡誌』静岡県磐田郡教育会編(大正10年・1921年)第13章 神社及宗教 曹洞宗寺院の項(185 天龍院・186 保安寺)
国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開)。465コマ目の本文画像で由緒全文・風土記伝引用を確認。金海寺(末寺)の記述は448コマ目。
- 郷土資料太田亮『遠江』磯部甲陽堂(昭和2年・1927年)
NDLラボ次世代デジタルライブラリーの全文検索スニペットで「天龍院(上野部村)曹洞宗、九石、松井左衛門亮の開基」の記述を確認。
- 民間二次情報ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第15番=神谷山天龍院(曹洞宗・上野部353)を確認。寺名・宗派・住所がDBと一致。
- 行政・公的資料市指定文化財|磐田市公式ウェブサイト
分類・時代・所在地・所有者を一覧表で確認
- 行政・公的資料磐田市文化財一覧オープンデータ(LinkData・CC BY)
磐田市公開の文化財一覧オープンデータ。名称・よみ・所在地により寺院と文化財の対応を照合
最終更新日 2026.07.19
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01
この寺院について
天龍院は磐田市上野部353番地に所在する曹洞宗の寺院です。曹洞宗の公式ポータル「曹洞禅ナビ」に磐田市上野部の寺院として掲載され、読み仮名は「テンリュウイン」と表記されています。静岡県知事所轄宗教法人名簿にも磐田市内の宗教法人として掲載されており、宗門・行政の両方の名簿でその存在が確認できます。
大正10年(1921年)刊の『静岡県磐田郡誌』によれば、山号は神谷山、掛川市各和の永源寺の末寺で、戦国時代の二俣城主・松井氏とのゆかりが深く、享禄元年(1528年)8月に創立されました。桶狭間の戦いで戦死した松井宗信の首が当寺に葬られたと伝えられ、境内の松井氏首塚と供養塔は平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定史跡となっています。慶長8年(1603年)には徳川家康から朱印高9石を与えられ、江戸時代を通じて4か寺の末寺を有しました。
所在地の上野部は、天竜川が山岳地帯を離れて遠州平野に流れ出る扇頂部の左岸に位置する集落で、中世野部郷の遺称地です。平成17年(2005年)の合併までは磐田郡豊岡村の大字でした。最寄りの天竜浜名湖鉄道上野部駅から約810メートルと案内されており、磐田郡三十三観音霊場の第15番札所「神谷山天龍院」とされてきた歴史も持つ、旧豊岡村域を代表する古刹の1つです。
02
歴史と背景
二俣城主松井氏と享禄元年の創建
『静岡県磐田郡誌』には「天龍院(野部村)」として「野部村上野部字神田に在り。神谷山と号す」とあり、永正11年(1514年)に松井左衛門尉信薫が城東郡平川村から二俣城に移った経緯に続けて、享禄元年(1528年)8月に一寺が創立され、城東郡各和村(現在の掛川市各和)の永源寺第3世・一貞和尚が開山に請じられたと記されています。一貞が招かれたのは、松井宗信の参禅の師であったためと郡誌は伝えます。享禄2年(1529年)2月26日に信薫が没して当寺に葬られ、寺は松井氏歴代の菩提所となりました。弘治2年(1556年)に開山一貞が示寂した後は、弟子の貞超が第2世として住持しています。二俣城主として天竜川中流域を押さえた松井氏が、居城から天竜川を下った野部郷の地に菩提寺を営んだことは、戦国期の城主と川沿いの村々との結び付きを示すものといえます。
桶狭間の戦いと松井宗信の首塚
松井宗信は今川氏に従い、永禄3年(1560年)5月19日、尾張の桶狭間で今川義元とともに戦死しました。『静岡県磐田郡誌』は、その首が当寺に葬られたと記しています。境内には松井宗信の首を葬ったと伝わる首塚と供養塔(室町時代)が現存し、戦国時代を語る史跡として平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定史跡「松井氏首塚と供養塔」に指定されました。郡誌が引く『遠江国風土記伝』にも「開基松井氏宗信之墓所。碑石存」とあり、江戸時代の地誌の段階で宗信の墓所と碑石の存在が記録されていたことが分かります。
二俣城の攻防と寺の困弊
菩提寺天龍院の運命は、松井氏の居城二俣城の帰趨と深く結び付いていました。『日本の城がわかる事典』などによれば、二俣城は天竜川と二俣川に挟まれた城山に築かれた山城で、桶狭間で戦死した松井宗信のあとは子の宗恒が城主を継ぎました。永禄12年(1569年)に今川氏が滅びると松井氏は武田氏に従属しますが、徳川家康の攻撃を受けて開城し、二俣城は徳川方の城となります。元亀3年(1572年)には上洛を目指す武田信玄が遠江へ侵攻し、水の手を断たれた二俣城は落城しました。天正3年(1575年)の長篠の戦いの後、同年12月に徳川方が城を奪還しています。『静岡県磐田郡誌』は、この動乱の中で武田軍の攻撃により二俣城が落ち、庇護者を失った天龍院も困弊したと記しています(郡誌は落城を「元亀元年」と記しますが、一般的な攻防戦の年代である元亀3年との整合には検討の余地があります)。衰えた寺運は江戸時代に入って回復へ向かい、慶長8年(1603年)9月15日、徳川家康から朱印高9石を与えられたと郡誌は伝えています。
江戸時代の寺格と末寺
郡誌が引く『遠江国風土記伝』には「上野部 天龍院 朱符之寺田高九石。末寺四宇。曹洞宗佐野郡各和村永源寺末。太年派」とあり、江戸時代の天龍院は朱印高9石・末寺4宇を有する永源寺末の寺院でした。太田亮『遠江』(磯部甲陽堂、1927年)にも「天龍院(上野部村)曹洞宗、九石、松井左衛門亮の開基」と記されています。末寺としては、上野部字本村の保安寺(天龍山。永禄12年〔1569年〕2月、天龍院第2世貞超が村民の希望により創建)、田原村西島の金海寺(広福山。天文11年〔1542年〕の草創で天龍院第2世を開山に請じたと伝える)が郡誌に天龍院末と記されており、上野部を核として周辺の村々へ法系が広がっていたことがうかがえます。
磐田郡三十三観音霊場の札所として
天龍院は、磐田郡内の観音霊場をめぐる磐田郡三十三観音霊場の第15番札所「神谷山天龍院」とされてきました。霊場一覧では隣の第16番が敷地の龍寿山永安寺(臨済宗妙心寺派)とされており、天竜川左岸から敷地川流域にかけての旧豊岡村域の寺々が札所として連なっていたことが分かります。こうした霊場の巡拝は、宗派を越えて地域の観音信仰を結び付けてきた歴史の証しであり、上野部の天龍院もその一角を担ってきました。当ページではこの札所情報を歴史的な位置付けとして記録するもので、現在の巡拝受け入れ状況は確認できていません。
上野部村から磐田市へ
『日本歴史地名大系』の上野部村の項によれば、上野部は江戸時代のはじめは幕府領で、宝永年間からは幕府と旗本気賀近藤氏の相給、宝暦13年(1763年)からは幕府と掛川藩の相給とされました。慶長16年(1611年)の検地では高282石余、正保郷帳では田畑合わせて約279石、元禄郷帳では高359石余、天保郷帳では高384石余と、村高が少しずつ増えており、天竜川沿いの村の開発が進んだ様子がうかがえます。明治22年(1889年)に野部村の大字となり、昭和30年(1955年)に広瀬村・野部村・敷地村の合併で発足した磐田郡豊岡村に属し、平成17年(2005年)の合併で磐田市の住所表示となりました。現在の天龍院は曹洞宗公式の曹洞禅ナビに登録されており、同ページには梅花講(法要儀式で用いる詠讃歌の講)のアイコンが表示されていて、講を通じた檀信徒の営みが続いているとみられます。
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文化財・見どころ
松井氏首塚と供養塔
桶狭間の戦いで戦死した二俣城主・松井宗信の首を葬ったと伝わる塚と供養塔で、時代区分は室町時代、所有者は天龍院です。平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定史跡となりました。江戸時代の地誌『遠江国風土記伝』にも「開基松井氏宗信之墓所。碑石存」と記録されており、戦国武将の供養の記憶が近世を通じて守り伝えられてきたことを物語ります。桶狭間から遠く離れた天竜川左岸の菩提寺に首が運ばれて葬られたという伝承そのものが、松井氏と上野部の深い結び付きを示す史料といえます。
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宗派と本尊を知る
天龍院は曹洞宗に属し、掛川市各和の永源寺から開山一貞和尚を迎えた法系(『遠江国風土記伝』のいう太年派)に連なります。二俣城主松井宗信が参禅の師である一貞を開山に請じたという由緒は、戦国武将と禅僧の結び付きをよく示すものです。第2世貞超が村民の希望に応えて末寺保安寺を開いたと伝わるように、武家の菩提寺として始まった禅は、やがて上野部の村人の暮らしへ根を下ろしていきました。曹洞禅ナビには梅花講のアイコンが表示され、詠讃歌を通じた檀信徒の営みが今もうかがえます。なお本尊の尊格は『静岡県磐田郡誌』の由緒に記載がなく、現時点では確認できていません。
曹洞宗とは
曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師(1200年〜1253年)が宋(中国)から正伝の仏法を伝え、瑩山禅師が全国へ広めた禅宗の一派です。両禅師を「両祖」と仰ぎ、ご本尊は釈迦牟尼仏です。道元禅師は寛元2年(1244年)に越前(現在の福井県)に永平寺を開き、瑩山禅師の系統からは總持寺(現在は横浜市鶴見区)が興りました。この2か寺を両大本山とし、全国におよそ1万4千か寺を数える大教団です。
教えの中心は「只管打坐」、ただひたすらに坐ることです。坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐る姿そのものが仏のすがたであると説き、掃除や食事といった日々の行いのすべてを修行と捉えます。道元禅師の主著「正法眼蔵」には、その思想が深く説かれています。
檀家の法要では「修証義」や「般若心経」の読誦が親しまれ、葬儀は故人に戒を授けて仏弟子として送る作法に特色があり、戒名にも仏弟子としての意味が込められています。菩提寺で坐禅会や写経会が開かれることも多く、暮らしの中で教えに触れやすい宗派です。
05
地域とのつながり
天龍院のある上野部は、天竜川が山あいを抜けて遠州平野に開ける扇頂部の左岸に位置し、対岸は旧浜北市域(現在の浜松市)です。中世には野部郷と呼ばれた地域の遺称地で、天龍院の由緒に登場する二俣城(浜松市天竜区)へも天竜川沿いに近く、川を挟んで遠江の要衝とつながる立地でした。松井氏の菩提寺がこの地に営まれたのも、二俣城と遠州平野を結ぶ交通の結節点だったことと無縁ではないと考えられます。江戸時代の上野部村は幕府領から相給支配へと移り変わりながら、天竜川沿いの田畑を少しずつ広げていった村で、天龍院はその村の菩提寺として人々の暮らしを見守ってきました。
旧豊岡村域にあたる豊岡地区は、天竜川下流域左岸に広がる面積約39.78平方キロメートルの土地で、『日本歴史地名大系』によれば村域には50ほどの遺跡が登録され、その多くは天竜川左岸の段丘に立地する古墳群が主体で、縄文・弥生時代の遺跡や銅鐸の発見も知られる歴史の古い地域です。昭和30年(1955年)に広瀬村・野部村・敷地村が合併して豊岡村となり、平成17年(2005年)に磐田市の一部となりました。天竜浜名湖鉄道の上野部駅は天竜川の堤防近くにある無人駅で、駅名は旧野部の上流に位置することに由来し、夏には天竜川の鮎釣りの人々が降り立つと紹介されています。駅周辺には仏教美術を収蔵する浜名梱包輸送シルクロード・ミュージアムが所在し、令和3年(2021年)12月からはネーミングライツにより副駅名が「シルクロード上野部」となっています。
上野部の集落には、天龍院(曹洞宗)と妙満寺(日蓮宗)の2か寺が並び立ち、それぞれ掛川・浜松方面の本寺と結ばれた法系を伝えてきました。天龍院の末寺として村民の希望で創建された保安寺の伝えが示すように、この寺は戦国武将の菩提寺であると同時に、上野部の村人の暮らしと祈りを支える寺として歩んできました。豊岡地区では、天浜線豊岡駅の北東の丘陵地帯に県西部で最大規模とされる約4,000本の豊岡梅園が広がるなど、山あいの地形を生かした農業の営みが続いています。首塚の伝承についても、令和6年(2024年)に磐田市の豊岡東交流センターで松井宗信生誕510年の講演会が開かれるなど、今も地域の記憶として受け継がれています。
06
年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
法要・供養の相談は、曹洞宗公式ポータル「曹洞禅ナビ」掲載の連絡先を通じて寺院へ直接確認してください。
松井氏首塚と供養塔は市指定史跡です。法事やお墓参りで訪れる際は文化財を傷めないよう配慮してください。
最寄りの天竜浜名湖鉄道上野部駅からは約810メートルと案内されています。駐車場の有無は確認できていないため、車で参列する場合は事前に寺院へ確認すると安心です。
- 年中行事(施餓鬼会・彼岸法要・開山忌など)の有無・日程は未確認
- 墓地・永代供養の取扱いは未確認
- 本尊の尊格・現在の伽藍の様子は未確認(郡誌の由緒に本尊の記載がありません)
- 梅花講以外の檀家組織(護持会・世話人会等)の有無は未確認
- 駐車場の有無・台数は未確認
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
07
よくある質問
- 天龍院の読み方は?
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「てんりゅういん」と読みます。曹洞宗公式ポータル「曹洞禅ナビ」では「テンリュウイン」とフリガナが付されています。山号は神谷山(『静岡県磐田郡誌』による)で、磐田郡三十三観音霊場の一覧では「神谷山天龍院」と表記されてきました。
本文「この寺院について」を読む - 宗派と本尊は?
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曹洞宗の寺院で、『遠江国風土記伝』には掛川市各和の永源寺の末寺(太年派)と記されています。本尊の尊格は『静岡県磐田郡誌』の由緒に記載がなく、現時点では確認できていません。確認でき次第、当ページに反映します。
本文「宗派と本尊」を読む - いつ誰が開いたお寺ですか?
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『静岡県磐田郡誌』によれば、享禄元年(1528年)8月に二俣城主松井氏のもとで創立され、城東郡各和村(現在の掛川市各和)の永源寺第3世・一貞和尚が開山に請じられました。一貞は松井宗信の参禅の師であったためと伝えます。翌享禄2年(1529年)には松井信薫が没して当寺に葬られました。
本文「歴史と背景」を読む - 松井宗信とはどんな人物ですか?
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戦国時代の二俣城主で、今川氏に従い永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いで今川義元とともに戦死しました。その首が天龍院に葬られたと伝わり、境内の首塚と供養塔が磐田市指定史跡になっています。令和6年(2024年)には生誕510年の講演会が豊岡東交流センターで開かれました。
本文「歴史と背景」を読む - 松井氏首塚と供養塔は文化財ですか?
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平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定史跡となりました。時代区分は室町時代、所有者は天龍院です。江戸時代の地誌『遠江国風土記伝』にも「開基松井氏宗信之墓所。碑石存」と記録されています。
本文「文化財・見どころ」を読む - 朱印高9石とは何ですか?
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慶長8年(1603年)9月15日に徳川家康から与えられたと伝わる寺領です。武田軍の二俣城攻めで困弊した寺運が、江戸時代に入り徳川家の保護で回復したことを示すもので、『遠江国風土記伝』にも「朱符之寺田高九石」とみえ、郡誌の記載と一致します。
本文「歴史と背景」を読む - 天龍院に末寺はありましたか?
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『遠江国風土記伝』は末寺4宇と記します。郡誌には上野部字本村の保安寺(永禄12年〔1569年〕に第2世貞超が村民の希望で創建)と、田原村西島の金海寺(天文11年〔1542年〕草創と伝える)が天龍院末として記されています。
本文「歴史と背景」を読む - 檀家の活動はありますか?
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曹洞禅ナビの天龍院ページに梅花講(法要儀式で用いる詠讃歌の講)のアイコンが表示されており、講を通じた檀信徒の営みがあるとみられます。年中行事・墓地・永代供養などの詳細は未確認のため、寺院へ直接ご確認ください。
本文「年中行事・参拝の手引き」を読む
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写真で見る境内
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出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9384。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 宗派公式資料 天龍院 - 曹洞禅ナビ(曹洞宗公式寺院ポータルサイト)
寺院名(テンリュウイン)・住所(磐田市上野部353)・曹洞宗所属・梅花講アイコンを確認。歴史等の詳細記述はページ上になし
- 行政・公的資料 旧豊岡村の住所表示|磐田市公式ウェブサイト
上野部が旧豊岡村の大字であり、合併により磐田市の住所表示となったことを確認
- 民間二次情報 上野部 - Wikipedia
上野部地区の寺院として天龍院(曹洞宗)・妙満寺(日蓮宗)が記載されていることを本文で確認(発見用の手掛かりとして参照)
- 民間二次情報 天龍院(曹洞宗)|播磨屋の寺葬儀
所在地と、天竜浜名湖鉄道上野部駅から約810mというアクセス情報を確認。寺史の記載はなし
- 郷土資料 『静岡県磐田郡誌』静岡県磐田郡教育会編(大正10年・1921年)第13章 神社及宗教 曹洞宗寺院の項(185 天龍院・186 保安寺)
国立国会図書館デジタルコレクション。465コマ目の本文画像で由緒全文・風土記伝引用を確認。金海寺(末寺)の記述は448コマ目
- 郷土資料 太田亮『遠江』磯部甲陽堂(昭和2年・1927年)
NDLラボ次世代デジタルライブラリーの全文検索スニペットで「天龍院(上野部村)曹洞宗、九石、松井左衛門亮の開基」の記述を確認
- 民間二次情報 ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第15番=神谷山天龍院(曹洞宗・上野部353)を確認。寺名・宗派・住所がDBと一致
- 行政・公的資料 市指定文化財|磐田市公式ウェブサイト
松井氏首塚と供養塔の分類(史跡)・時代(室町時代)・所在地・所有者(天龍院)を一覧表で確認
- 行政・公的資料 磐田市文化財一覧オープンデータ(LinkData・CC BY)
磐田市公開の文化財一覧オープンデータ。名称・よみ・所在地により寺院と文化財の対応を照合
- 郷土資料 コトバンク「上野部村」(日本歴史地名大系)
上野部村が天竜川扇頂部左岸に位置する中世野部郷の遺称地であること、江戸時代の支配(幕府領→気賀近藤氏相給→掛川藩相給)と慶長16年検地高282石余を確認(2026年7月19日参照)
- 民間二次情報 豊岡|天浜線(天竜浜名湖鉄道株式会社)駅紹介
豊岡駅北東の丘陵地帯に県西部で最大規模の豊岡梅園(約4,000本)があることを確認(2026年7月19日参照)
- 民間二次情報 コトバンク「二俣城」(日本の城がわかる事典ほか)
二俣城が天竜川と二俣川に挟まれた城山の山城であること、松井宗信・宗恒の城主継承、永禄12年の今川氏滅亡後の帰属変化、元亀3年(1572年)の武田信玄による落城(水の手を断たれた経緯)、天正3年(1575年)12月の徳川方奪還を確認(2026年7月19日参照)
- 郷土資料 コトバンク「豊岡村」(日本歴史地名大系)
旧磐田郡豊岡村が天竜川下流域左岸に位置し面積39.78平方キロメートルであること、村域に約50の遺跡が登録され天竜川左岸段丘の古墳群が主体であること、銅鐸の発見を確認(2026年7月19日参照)
- 民間二次情報 上野部|天浜線(天竜浜名湖鉄道株式会社)駅紹介
上野部駅が天竜川の堤防近くの無人駅であること、駅名が旧野部の上流に位置することに由来すること、夏に鮎釣りの利用者が多いことを確認(2026年7月19日参照)
For Families
このお寺が菩提寺のご家族へ
菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
- お墓の場所
- 墓地の区画
- 次回の法要
- 仏壇の場所
- 位牌の有無
- お寺からの連絡を受ける人
- お寺の連絡先
- 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
- 実家の名義
- 実家を今後誰が管理するか
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