御厨地区・現存
全海寺
ぜんかいじ
全海寺(ぜんかいじ)は、磐田市西島にある曹洞宗の寺院で、山号は広福山です。『静岡県磐田郡誌』によれば天文11年(1542年)の草創で、上野部の天龍院の末寺、本尊は地蔵菩薩とされます。江戸時代には朱印寺領3石余を有し、東海道沿いの西島村の檀那寺として村の暮らしを支えてきました。
別称・関連名称広福山
- 寺院名
- 全海寺
- 地区
- 御厨
- 住所
- 静岡県磐田市西島452番地の1
- 宗派
- 曹洞宗
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 全海寺
- 読み方
- ぜんかいじ
- 地区
- 御厨
- 宗派
- 曹洞宗
- ご本尊(資料上)
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
- ご本尊の現在の確認状況
- 公開資料で確認済み
- 住所
- 静岡県磐田市西島452番地の1
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 下馬地蔵堂/本堂・寺号石柱・由緒説明板
- 最終確認日
- 2026.07.16
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 全海寺
- 宗派
- 曹洞宗
- 本尊
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
- 創建
- 天文11年(1542年)草創(『静岡県磐田郡誌』)
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市西島452番地の1
- 地区
- 御厨
Database 02
沿革
天文11年草創—天龍院末の広福山全海寺
大正10年(1921年)刊『静岡県磐田郡誌』の寺院由緒は、田原村西島字鍛冶海道に在って広福山と号し、野部村上野部(現磐田市上野部)の天龍院の末寺で本尊は地蔵菩薩、天文11年(1542年)の草創で天龍院2世真超和尚を請じて開山とし、明暦2年(1656年)に同院9世連鯨和尚が起立して伝法始祖となり、以来法地に列したと記します(同書ではこの由緒が「金海寺」の寺名で掲載されていますが、所在地・山号・本末関係が他の史料に見える全海寺と一致しており、寺名表記の異同は確認事項としています)。江戸後期の地誌『遠淡海地誌』も西島の全海寺を広福山・天竜院末と記し、内山真竜の『遠江国風土記伝』は「全海寺在西島(曹洞宗)大年派、朱符田高三石貳斗」と記録しています。戦国時代の草創から、庵に近い形の寺が江戸前期に伝法の道場(法地)として整えられていく歩みが、これらの記述から読み取れます。本寺の天龍院は磐田市上野部(旧豊岡村域)にある曹洞宗の寺院で、山号は神谷山です。『静岡県磐田郡誌』によれば、二俣城主松井氏ゆかりの寺として享禄元年(1528年)8月に創立され、慶長8年(1603年)には徳川家康から朱印高9石を与えられました。桶狭間の戦いで戦死した松井宗信の首が葬られたと伝わる古刹で、全海寺の草創は本寺創立からわずか14年後のことになります。天竜川中流域の天龍院から平野部の西島へと法脈が延びてきた形です。
朱印寺領3石余—公的な帳簿に残る近世の全海寺
『日本歴史地名大系』(平凡社)の西島村の項によれば、西島村は山名郡に属し、太田川に架かる東海道三ヶ野橋の東、東海道沿いにあった村で、正保郷帳(正保年間、1644〜1648年)には村高563石余のうち「全海(ぜんかい)寺(現曹洞宗)領三石余・牛頭天王領四石余」が記されています。『東海道宿村大概帳』は、幕府の道中奉行が東海道の宿場と沿道の村々の状況を書き上げた公式の調査記録で、寺社の朱印地もそこに記載されました。静岡県教育委員会『静岡県歴史の道調査報告書 東海道』(1980年)はこの『大概帳』により全海寺の朱印高を3石5斗と記し、磐田史談会編『磐田ものがたり』(1988年)の「全海寺の下馬地蔵」の項にも『大概帳』の「禅宗全海寺西島村往還より小々引込朱印(地)」という記述が引かれています。東海道の往還から少し引き込んだところに朱印地の寺がある、という幕府の道中記録の描写は、現在の境内の位置関係とも重なります。
西島村の檀那寺—宗門改帳と全久寺との争論
『静岡県磐田郡誌』所収の西島村宗門改帳には「代々曹洞宗當村全海寺檀那」と繰り返し見え、江戸時代の西島村では村民が代々全海寺の檀家であったことが確認できます。キリシタン禁制のもとで宗門改帳は住民一人ひとりの所属寺を登録する台帳であり、江戸幕府の寺請制度のもとでは、すべての住民がいずれかの寺の檀家として登録されることが求められました。全海寺は文字どおり村の戸籍を預かる寺として機能し、今日まで続く檀家と菩提寺の関係の原型が、この時代に形づくられたことになります。一方、可睡斎史料集 第2巻(僧録司文書1、1991年)には「天和・元禄年中遠州山名郡西嶋村全海寺と全久寺と、村内廃寺照明院・堂光庵につき争論一件」と題する一連の文書が収録されており、江戸時代前期には村内の廃寺の権利をめぐって近隣寺院との争論があったことも知られます。争論の記録は、寺の権益が村の中で確かな重みを持っていたことの裏返しでもあります。
旗本菅谷家と全海寺
『日本歴史地名大系』によれば、西島村は元禄郷帳の頃には村高669石余の旗本菅谷氏の知行地となっており、村内の須賀神社に隣接して菅谷氏の陣屋がありました。神谷昌志『秘められた遠州の史話と伝承 下』(1988年)には「菅谷鱗之助と全海寺」の項があり、旗本菅谷家と全海寺の関わりを伝えています。領主の陣屋と檀那寺が同じ集落の中に並び立つ構図は、近世の西島村の統治と信仰の近さを物語ります。なお慶長6年(1601年)8月の伊奈忠次手形には「西嶋天王禰宜」と見え、天王(現在の須賀神社)へ社領4石余が寄進されたことも同書に記されています。
下馬地蔵と近代の全海寺
境内には地蔵堂があり、磐田史談会編『磐田ものがたり』(1988年)に「全海寺の下馬地蔵」と題する項が立てられていることから、この地蔵が「下馬地蔵」の名で親しまれてきたことがうかがえます(伝承の具体的な内容は同書の閲覧による確認事項としています)。本尊の地蔵菩薩とあわせて、全海寺は街道筋の地蔵信仰の寺という性格を色濃く持っています。また『静岡県磐田郡誌』によれば、明治12年(1879年)6月には川井小学校の出張所が全海寺に設けられ、寺院が近代教育の出発点の一つとなりました。2026年(令和8年)7月の現地確認では、本堂、寺号石柱、下馬地蔵堂、由緒説明板、手水、扁額などが確認されています。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
- 宗教的意味
- 全海寺の本尊は地蔵菩薩です(『静岡県磐田郡誌』による)。境内には「下馬地蔵」の名で知られる地蔵堂もあり、本尊と堂の両方で地蔵信仰を伝える寺となっています。東海道沿いの村の檀那寺として、道行く人と村人の双方を見守ってきた歴史は、六道をめぐって苦しむ者に寄り添うという地蔵菩薩の性格とよく響き合っています。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
下馬地蔵堂
境内にある地蔵堂で、2026年(令和8年)7月の現地確認で堂と説明板が確認されています。『磐田ものがたり』(1988年)に「全海寺の下馬地蔵」の項があり、東海道の往還から少し引き込んだ朱印地の寺という『東海道宿村大概帳』の記述とあわせて、街道を行き交う人々と結びついた地蔵信仰を伝えています。「下馬」は本来、貴人や社寺への敬意から馬を降りることを指す言葉で、街道筋の地蔵の呼び名として残ること自体が、この寺と東海道の近さを物語っています。名の由来の伝承の詳細は、郷土資料での確認事項です。
本堂・寺号石柱・由緒説明板
現在の境内には本堂、寺号石柱、由緒説明板、手水、扁額などが整えられています(2026年〈令和8年〉7月の現地確認による)。指定文化財は確認されていませんが、宗門改帳の時代から変わらず西島の檀家の法要とお墓参りの場であり続けています。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
全海寺のある西島は、太田川に架かる東海道三ヶ野橋の東に位置し、江戸時代には東海道に沿った山名郡西島村として歩んできました。見付宿と袋井宿の間に当たるこの区間で、全海寺は『東海道宿村大概帳』に「往還より小々引込」と記される位置に朱印地を構え、街道の人馬の往来を間近に見てきました。村の鎮守である須賀神社には牛頭天王領4石余が寄進され、元禄期以降は神社に隣接して旗本菅谷氏の陣屋が置かれるなど、寺・神社・陣屋が寄り添う集落の核が形づくられていました。西島の西隣の三ヶ野には、鎌倉の古道、江戸の道(東海道)、明治の道、大正の道、昭和の道(国道1号線)、平成の道(磐田バイパス)、質屋通いの間道の7つの道が一か所に集まる「三ヶ野七つ道」があり(磐田市観光協会による)、この一帯が時代ごとに道筋を変えながらも常に東西交通の要であり続けたことを物語っています。全海寺は、その道の歴史のかたわらで檀家の暮らしを見守ってきた寺です。
須賀神社の境内には、高さ15メートル、根回り12.1メートル、推定樹齢500年と伝わる磐田市指定天然記念物「須賀神社クス」がそびえ、平野部では珍しい大木として集落の歴史を見守っています(磐田市公式ウェブサイトによる)。全海寺の草創(天文11年)とほぼ同じ時代を生きてきた木ということになります。宗門改帳の「代々曹洞宗當村全海寺檀那」の記載が示すとおり、西島の家々と全海寺の縁は代々受け継がれてきたものであり、明治12年(1879年)に小学校の出張所が置かれたことも含めて、寺は集落の記憶の預かり手であり続けています。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9114
- 郷土資料静岡県磐田郡誌(磐田郡教育会編、大正10年)寺院由緒(「金海寺(田原村)」として掲載)
コマ448。原本画像で由緒全文を確認
- 郷土資料日本歴史地名大系「西島村」(平凡社、コトバンク)
正保郷帳の全海寺領3石余・菅谷氏陣屋の記載
- 郷土資料遠江国風土記伝(内山真竜、郁文舎、明治33年刊本)
「全海寺在西島(曹洞宗)大年派、朱符田高三石貳斗」
- 郷土資料遠淡海地誌(山中豊平編著、1991年復刻)
広福山・天竜院末の記載(NDL全文検索スニペット)
- 学術資料静岡県文化財調査報告書第20集 静岡県歴史の道調査報告書 東海道(静岡県教育委員会、1980年)
『大概帳』朱印高3石5斗
- 郷土資料可睡斎史料集 第2巻 僧録司文書1(思文閣出版、1991年)
天和・元禄年中の全海寺・全久寺争論一件
- 民間二次情報秘められた遠州の史話と伝承 下(神谷昌志、明文出版社、1988年)
「菅谷鱗之助と全海寺」の項
- 民間二次情報ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第21番=広福山全海寺(曹洞宗・西島452)を確認。寺名・宗派・住所がDBと一致。
- 宗派公式資料曹洞禅ナビ 磐田市寺院一覧
磐田市の公式一覧(全61寺)に「全海寺」として掲載を確認(一覧掲載のみ確認)。詳細ページはサーバー障害で未取得
最終更新日 2026.07.19
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この寺院について
全海寺は磐田市西島452番地の1、御厨地区に所在する曹洞宗の寺院です。山号は広福山で、『静岡県磐田郡誌』(大正10年)は本尊を地蔵菩薩と記しています。天文11年(1542年)の草創と伝わり、天竜川と太田川に挟まれた遠州平野の南部、東海道沿いの集落である西島の地で、480年余りの歴史を重ねてきました。
江戸時代には幕府から朱印状で安堵された寺領(朱印高3石余)を持ち、正保郷帳や『東海道宿村大概帳』といった公的な帳簿に寺の名が記録されています。西島村の宗門改帳には「代々曹洞宗當村全海寺檀那」の記載が繰り返し見え、村民の檀那寺として葬送と供養を担い続けたことが分かります。境内には「下馬地蔵」の名で知られる地蔵堂があり、磐田郡三十三観音霊場の第21番札所ともされています。
明治時代には小学校の出張所が置かれるなど、地域の暮らしの節目に関わってきた寺です。2026年(令和8年)7月の現地確認では、本堂、寺号石柱、下馬地蔵堂、由緒説明板などが確認されています。指定文化財こそありませんが、宗門改帳から道中記録まで、公的な記録に名を刻み続けてきた「記録の中の寺」として、西島の家々の歴史と分かちがたく結びついています。
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歴史と背景
天文11年草創—天龍院末の広福山全海寺
大正10年(1921年)刊『静岡県磐田郡誌』の寺院由緒は、田原村西島字鍛冶海道に在って広福山と号し、野部村上野部(現磐田市上野部)の天龍院の末寺で本尊は地蔵菩薩、天文11年(1542年)の草創で天龍院2世真超和尚を請じて開山とし、明暦2年(1656年)に同院9世連鯨和尚が起立して伝法始祖となり、以来法地に列したと記します(同書ではこの由緒が「金海寺」の寺名で掲載されていますが、所在地・山号・本末関係が他の史料に見える全海寺と一致しており、寺名表記の異同は確認事項としています)。江戸後期の地誌『遠淡海地誌』も西島の全海寺を広福山・天竜院末と記し、内山真竜の『遠江国風土記伝』は「全海寺在西島(曹洞宗)大年派、朱符田高三石貳斗」と記録しています。戦国時代の草創から、庵に近い形の寺が江戸前期に伝法の道場(法地)として整えられていく歩みが、これらの記述から読み取れます。本寺の天龍院は磐田市上野部(旧豊岡村域)にある曹洞宗の寺院で、山号は神谷山です。『静岡県磐田郡誌』によれば、二俣城主松井氏ゆかりの寺として享禄元年(1528年)8月に創立され、慶長8年(1603年)には徳川家康から朱印高9石を与えられました。桶狭間の戦いで戦死した松井宗信の首が葬られたと伝わる古刹で、全海寺の草創は本寺創立からわずか14年後のことになります。天竜川中流域の天龍院から平野部の西島へと法脈が延びてきた形です。
朱印寺領3石余—公的な帳簿に残る近世の全海寺
『日本歴史地名大系』(平凡社)の西島村の項によれば、西島村は山名郡に属し、太田川に架かる東海道三ヶ野橋の東、東海道沿いにあった村で、正保郷帳(正保年間、1644〜1648年)には村高563石余のうち「全海(ぜんかい)寺(現曹洞宗)領三石余・牛頭天王領四石余」が記されています。『東海道宿村大概帳』は、幕府の道中奉行が東海道の宿場と沿道の村々の状況を書き上げた公式の調査記録で、寺社の朱印地もそこに記載されました。静岡県教育委員会『静岡県歴史の道調査報告書 東海道』(1980年)はこの『大概帳』により全海寺の朱印高を3石5斗と記し、磐田史談会編『磐田ものがたり』(1988年)の「全海寺の下馬地蔵」の項にも『大概帳』の「禅宗全海寺西島村往還より小々引込朱印(地)」という記述が引かれています。東海道の往還から少し引き込んだところに朱印地の寺がある、という幕府の道中記録の描写は、現在の境内の位置関係とも重なります。
西島村の檀那寺—宗門改帳と全久寺との争論
『静岡県磐田郡誌』所収の西島村宗門改帳には「代々曹洞宗當村全海寺檀那」と繰り返し見え、江戸時代の西島村では村民が代々全海寺の檀家であったことが確認できます。キリシタン禁制のもとで宗門改帳は住民一人ひとりの所属寺を登録する台帳であり、江戸幕府の寺請制度のもとでは、すべての住民がいずれかの寺の檀家として登録されることが求められました。全海寺は文字どおり村の戸籍を預かる寺として機能し、今日まで続く檀家と菩提寺の関係の原型が、この時代に形づくられたことになります。一方、可睡斎史料集 第2巻(僧録司文書1、1991年)には「天和・元禄年中遠州山名郡西嶋村全海寺と全久寺と、村内廃寺照明院・堂光庵につき争論一件」と題する一連の文書が収録されており、江戸時代前期には村内の廃寺の権利をめぐって近隣寺院との争論があったことも知られます。争論の記録は、寺の権益が村の中で確かな重みを持っていたことの裏返しでもあります。
旗本菅谷家と全海寺
『日本歴史地名大系』によれば、西島村は元禄郷帳の頃には村高669石余の旗本菅谷氏の知行地となっており、村内の須賀神社に隣接して菅谷氏の陣屋がありました。神谷昌志『秘められた遠州の史話と伝承 下』(1988年)には「菅谷鱗之助と全海寺」の項があり、旗本菅谷家と全海寺の関わりを伝えています。領主の陣屋と檀那寺が同じ集落の中に並び立つ構図は、近世の西島村の統治と信仰の近さを物語ります。なお慶長6年(1601年)8月の伊奈忠次手形には「西嶋天王禰宜」と見え、天王(現在の須賀神社)へ社領4石余が寄進されたことも同書に記されています。
下馬地蔵と近代の全海寺
境内には地蔵堂があり、磐田史談会編『磐田ものがたり』(1988年)に「全海寺の下馬地蔵」と題する項が立てられていることから、この地蔵が「下馬地蔵」の名で親しまれてきたことがうかがえます(伝承の具体的な内容は同書の閲覧による確認事項としています)。本尊の地蔵菩薩とあわせて、全海寺は街道筋の地蔵信仰の寺という性格を色濃く持っています。また『静岡県磐田郡誌』によれば、明治12年(1879年)6月には川井小学校の出張所が全海寺に設けられ、寺院が近代教育の出発点の一つとなりました。2026年(令和8年)7月の現地確認では、本堂、寺号石柱、下馬地蔵堂、由緒説明板、手水、扁額などが確認されています。
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文化財・見どころ
下馬地蔵堂
境内にある地蔵堂で、2026年(令和8年)7月の現地確認で堂と説明板が確認されています。『磐田ものがたり』(1988年)に「全海寺の下馬地蔵」の項があり、東海道の往還から少し引き込んだ朱印地の寺という『東海道宿村大概帳』の記述とあわせて、街道を行き交う人々と結びついた地蔵信仰を伝えています。「下馬」は本来、貴人や社寺への敬意から馬を降りることを指す言葉で、街道筋の地蔵の呼び名として残ること自体が、この寺と東海道の近さを物語っています。名の由来の伝承の詳細は、郷土資料での確認事項です。
本堂・寺号石柱・由緒説明板
現在の境内には本堂、寺号石柱、由緒説明板、手水、扁額などが整えられています(2026年〈令和8年〉7月の現地確認による)。指定文化財は確認されていませんが、宗門改帳の時代から変わらず西島の檀家の法要とお墓参りの場であり続けています。
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宗派と本尊を知る
全海寺の本尊は地蔵菩薩です(『静岡県磐田郡誌』による)。境内には「下馬地蔵」の名で知られる地蔵堂もあり、本尊と堂の両方で地蔵信仰を伝える寺となっています。東海道沿いの村の檀那寺として、道行く人と村人の双方を見守ってきた歴史は、六道をめぐって苦しむ者に寄り添うという地蔵菩薩の性格とよく響き合っています。
曹洞宗とは
曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師(1200年〜1253年)が宋(中国)から正伝の仏法を伝え、瑩山禅師が全国へ広めた禅宗の一派です。両禅師を「両祖」と仰ぎ、ご本尊は釈迦牟尼仏です。道元禅師は寛元2年(1244年)に越前(現在の福井県)に永平寺を開き、瑩山禅師の系統からは總持寺(現在は横浜市鶴見区)が興りました。この2か寺を両大本山とし、全国におよそ1万4千か寺を数える大教団です。
教えの中心は「只管打坐」、ただひたすらに坐ることです。坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐る姿そのものが仏のすがたであると説き、掃除や食事といった日々の行いのすべてを修行と捉えます。道元禅師の主著「正法眼蔵」には、その思想が深く説かれています。
檀家の法要では「修証義」や「般若心経」の読誦が親しまれ、葬儀は故人に戒を授けて仏弟子として送る作法に特色があり、戒名にも仏弟子としての意味が込められています。菩提寺で坐禅会や写経会が開かれることも多く、暮らしの中で教えに触れやすい宗派です。
地蔵菩薩という仏さま
地蔵菩薩は、お釈迦さまが入滅してから弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間、仏のいない世にあって人びとを救い続けると信じられてきた菩薩です。経典ではその間は56億7000万年に及ぶとも説かれ、地獄をはじめとする六道のすべてをめぐって、苦しむ者に寄り添うと伝えられます。
菩薩でありながら僧侶のような親しみやすい姿で表されるのが特徴で、特に子どもを守る仏として信仰が厚く、京都では江戸時代の初めから、町内ごとにお地蔵さまを囲んで子どもの成長を願う地蔵盆が営まれてきました。この地蔵盆は今も子どもが主役の夏の行事として受け継がれ、2014(平成26)年には「京都をつなぐ無形文化遺産」にも選定されています。
道端や寺の境内にたたずむ石のお地蔵さまに、花や前掛けが供えられている光景は、日本で最も身近な信仰のかたちのひとつでしょう。子育てや子どもの健康、亡き子の供養など、家族の切実な願いを受け止めてくださる仏さまです。
参考: 京都に伝わる地蔵信仰(浄土宗総本山知恩院 公式サイト)/弥勒菩薩の56億7千万年後の救済の出典(レファレンス協同データベース・国立国会図書館)
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地域とのつながり
全海寺のある西島は、太田川に架かる東海道三ヶ野橋の東に位置し、江戸時代には東海道に沿った山名郡西島村として歩んできました。見付宿と袋井宿の間に当たるこの区間で、全海寺は『東海道宿村大概帳』に「往還より小々引込」と記される位置に朱印地を構え、街道の人馬の往来を間近に見てきました。村の鎮守である須賀神社には牛頭天王領4石余が寄進され、元禄期以降は神社に隣接して旗本菅谷氏の陣屋が置かれるなど、寺・神社・陣屋が寄り添う集落の核が形づくられていました。西島の西隣の三ヶ野には、鎌倉の古道、江戸の道(東海道)、明治の道、大正の道、昭和の道(国道1号線)、平成の道(磐田バイパス)、質屋通いの間道の7つの道が一か所に集まる「三ヶ野七つ道」があり(磐田市観光協会による)、この一帯が時代ごとに道筋を変えながらも常に東西交通の要であり続けたことを物語っています。全海寺は、その道の歴史のかたわらで檀家の暮らしを見守ってきた寺です。
須賀神社の境内には、高さ15メートル、根回り12.1メートル、推定樹齢500年と伝わる磐田市指定天然記念物「須賀神社クス」がそびえ、平野部では珍しい大木として集落の歴史を見守っています(磐田市公式ウェブサイトによる)。全海寺の草創(天文11年)とほぼ同じ時代を生きてきた木ということになります。宗門改帳の「代々曹洞宗當村全海寺檀那」の記載が示すとおり、西島の家々と全海寺の縁は代々受け継がれてきたものであり、明治12年(1879年)に小学校の出張所が置かれたことも含めて、寺は集落の記憶の預かり手であり続けています。
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年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
磐田郡三十三観音霊場第21番札所とされており、観音霊場の巡拝で訪れる参拝者もあります。巡拝の方と檀家の法要が重なる際は、譲り合ってお参りください。
境内の下馬地蔵堂は、お墓参りの際にあわせて手を合わせたいお堂です。境内には由緒説明板も設けられています。
年中行事・法要の日程や受付については、現時点で公開された案内が確認できていません。寺院へ直接お問い合わせください。
- 施餓鬼会・彼岸会など年中行事の日程
- 墓地・永代供養の取り扱いの有無
- 護持会など檀家組織の有無・活動内容
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
07
よくある質問
- 全海寺の読み方と山号は?
-
「ぜんかいじ」と読みます。山号は広福山(こうふくさん)で、所在地は磐田市西島452番地の1です。太田川に架かる東海道三ヶ野橋の東、旧東海道沿いの西島集落にあり、行政区分では御厨地区に属します。
本文「この寺院について」を読む - 宗派と本尊は?
-
曹洞宗で、本尊は地蔵菩薩です(『静岡県磐田郡誌』による)。上野部の天龍院を本寺とする末寺として草創されたと伝わります。
本文「宗派と本尊」を読む - いつできたお寺ですか?
-
『静岡県磐田郡誌』によれば天文11年(1542年)の草創で、天龍院2世真超和尚を開山に請じたと伝えられます。明暦2年(1656年)には同院9世連鯨和尚が伝法始祖となり、以来、正式に僧侶を育て法を伝える資格を持つ寺格(法地)に列しました。
本文「歴史と背景」を読む - 江戸時代はどんな寺でしたか?
-
幕府から朱印状で安堵された寺領3石余を持ち、正保郷帳や『東海道宿村大概帳』に記録されています。西島村の宗門改帳には「代々曹洞宗當村全海寺檀那」と見え、村民の檀那寺として機能していました。
本文「歴史と背景」を読む - 下馬地蔵とは何ですか?
-
境内の地蔵堂に祀られる地蔵で、『磐田ものがたり』(1988年)に「全海寺の下馬地蔵」の項があることから、この名で親しまれてきたことがうかがえます。名の由来など伝承の詳細は確認中です。
本文「文化財・見どころ」を読む - 札所になっていますか?
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磐田郡三十三観音霊場の第21番札所とされています(民間の霊場紹介サイトで寺名・宗派・住所を確認)。
本文「年中行事・参拝の手引き」を読む - 本寺の天龍院とはどんなお寺ですか?
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磐田市上野部にある曹洞宗の寺院で、山号は神谷山です。二俣城主松井氏ゆかりの寺として享禄元年(1528年)に創立され、徳川家康から朱印高9石を与えられた古刹です。全海寺はその末寺として天文11年(1542年)に草創されました。
本文「歴史と背景」を読む - 須賀神社のクスノキと関係がありますか?
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須賀神社は西島の鎮守で、全海寺と同じ集落にあります。境内の「須賀神社クス」は高さ15メートル、推定樹齢500年の磐田市指定天然記念物で、全海寺の草創とほぼ同じ時代からこの集落を見守ってきた大木です。江戸時代には神社に隣接して旗本菅谷氏の陣屋がありました。
本文「地域とのつながり」を読む - 菅谷家とはどんな関わりがありますか?
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西島村は元禄期以降、旗本菅谷氏の知行地で、須賀神社に隣接して菅谷氏の陣屋がありました。『秘められた遠州の史話と伝承 下』には「菅谷鱗之助と全海寺」の項があり、領主菅谷家と寺の関わりが伝えられています。
本文「地域とのつながり」を読む - 学校と関係があったと聞きましたが?
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『静岡県磐田郡誌』によれば、明治12年(1879年)6月に川井小学校の出張所が全海寺に設けられました。寺院が地域の近代教育の出発点の一つとなった例です。
本文「地域とのつながり」を読む
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写真で見る境内
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出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9114。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 郷土資料 静岡県磐田郡誌(磐田郡教育会編、大正10年)寺院由緒(「金海寺(田原村)」として掲載)
コマ448。広福山・天龍院末・本尊地蔵菩薩・天文11年草創・明暦2年法地列格の由緒全文を原本画像で確認。西島村宗門改帳の「代々曹洞宗當村全海寺檀那」、明治12年6月の川井小学校出張所設置も同書で確認
- 郷土資料 日本歴史地名大系「西島村」(平凡社、コトバンク)
山名郡・東海道三ヶ野橋東の東海道沿いの村、正保郷帳の村高563石余・全海寺領3石余・牛頭天王領4石余、慶長6年8月伊奈忠次手形の天王社領4石余寄進、元禄郷帳の村高669石余・旗本菅谷領、須賀神社に隣接する菅谷氏陣屋を確認
- 郷土資料 遠江国風土記伝(内山真竜、郁文舎、明治33年刊本)
「全海寺在西島(曹洞宗)大年派、朱符田高三石貳斗」
- 郷土資料 遠淡海地誌(山中豊平編著、1991年復刻)
広福山・天竜院末の記載(NDL全文検索スニペット)
- 学術資料 静岡県文化財調査報告書第20集 静岡県歴史の道調査報告書 東海道(静岡県教育委員会、1980年)
『東海道宿村大概帳』による朱印高3石5斗
- 郷土資料 可睡斎史料集 第2巻 僧録司文書1(思文閣出版、1991年)
天和・元禄年中の全海寺・全久寺争論一件(村内廃寺照明院・堂光庵をめぐる争論文書)
- 郷土資料 磐田ものがたり(磐田史談会編、1988年)「全海寺の下馬地蔵」
項目名と『東海道宿村大概帳』の「禅宗全海寺西島村往還より小々引込朱印(地)」の引用をNDL全文検索スニペットで確認(本文全文は送信サービス限定のため未読)
- 民間二次情報 秘められた遠州の史話と伝承 下(神谷昌志、明文出版社、1988年)
「菅谷鱗之助と全海寺」の項
- 行政・公的資料 市指定文化財|磐田市公式ウェブサイト
磐田市指定天然記念物「須賀神社クス」(西島・高さ15m・根回り12.1m・目通り10.6m・推定樹齢500年)の掲載を確認(西島集落の歴史文脈として使用)
- 行政・公的資料 三ヶ野七つ道|磐田市観光協会
西島西隣の三ヶ野に鎌倉の古道から平成の磐田バイパスまで7つの道が集まることを確認(東海道沿いの立地文脈として使用)
- 郷土資料 静岡県磐田郡誌(同上)曹洞宗寺院の項「天龍院」
本寺天龍院(上野部・神谷山)の享禄元年8月創立、二俣城主松井氏ゆかり、松井宗信の首葬伝承、慶長8年の家康朱印高9石を確認(本寺の背景として使用)
- 民間二次情報 ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第21番=広福山全海寺(曹洞宗・西島452)を確認。寺名・宗派・住所がDBと一致
- 宗派公式資料 曹洞禅ナビ 磐田市寺院一覧
磐田市の公式一覧(全61寺)に「全海寺」として掲載を確認(一覧掲載のみ確認)。詳細ページはサーバー障害で未取得
- 現地確認 現地確認(2026年7月、ATAWI TEMPLE編集部)
本堂、寺号石柱、下馬地蔵堂、由緒説明板、手水、扁額等を現地写真で確認
For Families
このお寺が菩提寺のご家族へ
菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
- お墓の場所
- 墓地の区画
- 次回の法要
- 仏壇の場所
- 位牌の有無
- お寺からの連絡を受ける人
- お寺の連絡先
- 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
- 実家の名義
- 実家を今後誰が管理するか
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