御厨地区・現存
永福寺
えいふくじ
永福寺(えいふくじ)は、磐田市西貝塚にある曹洞宗の寺院で、山号は今浦山です。永正元年(1504年)に金室竜公和尚が開創したと伝わり、本堂には開創以来の阿弥陀如来三尊を安置します。遠州三十三観音霊場第20番札所として、十一面観世音菩薩を祀る観音堂とともに信仰を集めてきました。
別称・関連名称今浦山
- 寺院名
- 永福寺
- 地区
- 御厨
- 住所
- 静岡県磐田市西貝塚1519番地の1
- 宗派
- 曹洞宗
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 永福寺
- 読み方
- えいふくじ
- 地区
- 御厨
- 宗派
- 曹洞宗
- ご本尊(資料上)
- 阿弥陀如来(阿弥陀三尊)。札所本尊は十一面観世音菩薩
- ご本尊の現在の確認状況
- 公開資料で確認済み
- 住所
- 静岡県磐田市西貝塚1519番地の1
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 阿弥陀如来三尊/十王像
- 最終確認日
- 2026.07.15
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 永福寺
- 宗派
- 曹洞宗
- 本尊
- 阿弥陀如来(阿弥陀三尊)。札所本尊は十一面観世音菩薩
- 創建
- 永正元年(1504年)開創
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市西貝塚1519番地の1
- 地区
- 御厨
Database 02
沿革
永正元年の開創—金室竜公和尚と阿弥陀三尊
遠州三十三観音霊場公式サイトの縁起によれば、永福寺は今から500年余り前の永正元年(1504年)2月1日、金室竜公和尚によって開創されました。福王寺2世命泉義竜大和尚を勧請開山として請じ、開創のときに金室和尚の守り本尊であった阿弥陀如来三尊を本堂に安置し、今日に至っています。大正10年(1921年)刊『静岡県磐田郡誌』の寺院由緒も「西貝村西貝塚字中小路に在り。今浦山と號す。當村福王寺の末にして、本尊は阿彌陀如來なり。永正元年、福王寺の命泉和尙之れを建設すといふ」と記しており、霊場の縁起と一致します。開山を仰いだ福王寺は同じ西貝塚地区の城之崎にある曹洞宗寺院で、永福寺はその末寺として法灯を受け継ぎました。
本寺・福王寺—風祭山の古刹とのつながり
本寺の福王寺について、霊場公式サイトの縁起は、今から1000年余り前に真言宗高野山の末寺として建立され、文安元年(1444年)に天翁義一禅師を迎えて曹洞宗に改宗した古刹と伝えています。山号「風祭山」は、古文書によれば永観2年(984年)に遠州一帯を暴風が襲った際、京都から諸国行脚の途中で当地に来ていた陰陽師安倍晴明(縁起の表記では安倍清明)の祈祷により暴風が鎮められたことにちなむとされ、福王寺では毎年3月8日に風祭りの行事が行われています。永福寺の開創は、この福王寺が曹洞宗に改宗してから60年後のことに当たります。西貝塚の地に曹洞宗の教えが根づいていく流れの中で、福王寺2世を勧請開山に仰いで生まれたのが永福寺でした。
寺号「永福」と山号「今浦山」の由来
「永福」の寺号は、開創当時の年号である永正の「永」と、万民の幸せを願う「福」とを合わせたものと言われています。山号の「今浦山」は、寺の所在地一帯の「今の浦」の地名にちなむもので、御詠歌にも「いまうらやまの」と詠み込まれています。年号と地名、そして人々の幸せへの願いを寺の名に刻んだ由来は、霊場公式サイトの縁起に今も伝えられています。
近世の永福寺—除地1石5斗と慶安2年の文書
西貝塚の江戸時代の寺院構成について、磐田市埋蔵文化財センター『野口・マカダ近世墳墓群遺跡発掘調査報告書』(1998年)は、江戸時代の初めの西貝塚に福王寺、隣浦庵(のち林宝院)、永福寺、長泉庵などがあったと記しています。本寺の福王寺には慶長8年(1603年)の徳川家康寺領寄付朱印状写が伝わっており(『日本歴史地名大系』西貝塚村の項)、永福寺も清水秀明編著『東海道見付宿の助郷』(1990年)の西貝塚村の項に福王寺の末寺として除地1石5斗があったと記されています。幕末から明治初年の『旧高旧領取調帳』中部編にも西貝塚村に「永福寺除地1石5斗」が見えます。また『静岡県史料 第5輯』(静岡県編、昭和16年)には「永福寺文書」として慶安2年(1649年)2月17日付の文書が収録されており、江戸時代前期の寺の存在を示す文書が伝来していたことが分かります。
安政の大風災と明治・平成の再建
霊場公式サイトの縁起によれば、本堂は安政6年(1859年)8月、安政の暴風災害を被って壊滅しました。安政年間は災害の相次いだ時代で、同じ御厨地区でも鎌田の全久院が安政地震により諸堂の倒壊を被ったことが『日本歴史地名大系』に記されており、幕末の磐田の寺々が地震や暴風と向き合いながら維持されてきたことがうかがえます。永福寺の本堂はその後、明治15年(1882年)8月に檀信徒の浄財によって再建され、さらに平成9年(1997年)10月には現在の本堂が建立されました。江戸末期の災害からの再建も、平成の本堂建立も、いずれも檀信徒の力によって支えられてきた歩みであり、寺と檀家のつながりの深さを物語っています。
遠州三十三観音霊場第20番札所として
永福寺は、昭和59年(1984年)5月に開創された遠州三十三観音霊場の第20番札所です(霊場公式サイトによる)。札所本尊は十一面観世音菩薩で、観音堂には十一面観世音菩薩と三十三観音が祀られ、堂の脇には今から670年ほど前、鎌倉時代後期の作と言われる十王像が安置されています。近隣の札所は第19番の正醫寺(下万能)と第21番の観音寺(福田)で、本寺に当たる福王寺(城之崎)も第18番札所として同じ霊場に名を連ねています。また磐田郡三十三観音霊場では第24番札所とされ、地域の観音信仰の巡拝路の中に位置づけられてきました。遠州三十三観音霊場会の事務局は袋井市久能の可睡斎に置かれており、霊場公式サイトは「花と観音霊場」を掲げて各札所の縁起や御詠歌を紹介しています。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 阿弥陀如来(阿弥陀三尊)。札所本尊は十一面観世音菩薩
- 宗教的意味
- 永福寺の本尊は阿弥陀如来(阿弥陀三尊)です。禅宗の寺院では釈迦牟尼仏を本尊とすることが多いなか、当寺では開創した金室竜公和尚の守り本尊であった阿弥陀如来三尊が開創以来の本尊として受け継がれてきたと霊場公式サイトの縁起は伝えています。あわせて観音堂には札所本尊の十一面観世音菩薩が祀られ、阿弥陀様と観音様への信仰が一つの境内で重なり合っているところに、この寺の特色があります。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
阿弥陀如来三尊
開創のとき、金室竜公和尚の守り本尊であった阿弥陀如来三尊を本堂に安置し、今日に至っていると霊場公式サイトの縁起は伝えています。阿弥陀三尊は、中尊の阿弥陀如来の脇に観音菩薩と勢至菩薩を配する形式で、開山個人の念持仏がそのまま一寺の本尊として500年余り守り継がれてきたところに、この寺の成り立ちがよく表れています。
十王像
観音堂の脇に安置されている十王の像です。霊場公式サイトの縁起は、今から670年ほど前の鎌倉時代後期の作と言われると紹介しています。十王は、閻魔王をはじめ、亡くなった人が冥界で行き会うとされる10人の裁きの王で、初七日から年忌に至る追善供養の信仰とともに中世以来広まりました。地域の葬送・供養の信仰と結びついた像といえます。制作年代や指定の有無については、磐田市の文化財資料での確認事項としています。
観音堂
遠州三十三観音霊場第20番の札所本尊である十一面観世音菩薩と、三十三観音を祀るお堂です。三十三観音は、観音菩薩が33の姿に身を変えて人々を救うという『法華経』の教えにちなむもので、札所巡拝の祈りの中心となっています。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
永福寺のある西貝塚は、磐田市中心部の東側に広がる地区で、江戸時代には山名郡西貝塚村に属しました。西貝塚村には慶長8年(1603年)の徳川家康寺領寄付朱印状写(福王寺宛)に村名が見えるほか、東海道見付宿の助郷を務めた村としての記録も残ります。助郷とは、宿場の常備の人馬だけでは足りないときに周辺の村々が人馬を出して継ぎ立てを支えた課役のことで、西貝塚村もその負担を担いながら、街道のにぎわいと隣り合って暮らしてきました。江戸時代初めの西貝塚には福王寺、隣浦庵(のち林宝院)、永福寺、長泉庵などの寺々があり、城之崎の福王寺を本寺として、永福寺・林宝院・東昌寺(東貝塚)がその末寺に連なるという、福王寺を核とした寺院のつながりがこの一帯に築かれていました。本寺の福王寺は遠州三十三観音霊場第18番札所であるほか、遠州七福神・遠江四十九薬師の霊場にも名を連ねており、西貝塚周辺は札所の寺々が歩いて巡れる距離に集まる、信仰の厚い土地柄です。
山号「今浦山」の由来となった「今の浦」の名は、現在も今之浦の地名や今之浦川に受け継がれています。西貝塚を含む一帯が属する御厨地区の名は、平安時代に伊勢神宮の御厨(神領)「鎌田御厨」が置かれたことに由来し、総鎮守とされる鎌田神明宮の社伝は、寛平2年(890年)に伊勢神宮へ寄進され19の村々から貢納が行われたと伝えています。永福寺は、伊勢信仰の記憶を地名にとどめるこの地区の西部で、阿弥陀様と観音様の寺として村の暮らしに寄り添い、災害からの再建のたびに檀信徒とともに立ち上がってきました。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9122
- 民間二次情報遠州三十三観音霊場 - Wikipedia
第20番札所・今浦山永福寺・曹洞宗・十一面観世音菩薩・磐田市西貝塚1519-1を確認。
- 民間二次情報西貝塚 (磐田市) - Wikipedia
西貝塚地区の宗教施設として永福寺の名称掲載を確認(詳細記述なし)。地区は縄文後期〜晩期の西貝塚遺跡で知られる。
- 民間二次情報永福寺 (磐田市西貝塚・20番札所) | 遠州三十三観音霊場めぐり
ページタイトルで第20番札所であることを確認。本文はSSL証明書エラーのため未確認。
- 民間二次情報全都道府県の寺院・仏閣検索(磐田市119カ寺一覧)
曹洞宗・磐田市西貝塚1519番地の1として掲載を確認。
- 公式遠州三十三観音霊場公式サイト「永福寺(磐田市西貝塚・20番札所)」
縁起全文をcurlで取得・確認
- 郷土資料静岡県磐田郡誌(磐田郡教育会編、大正10年)寺院由緒「永福寺(西貝村)」
コマ453
- 学術資料野口・マカダ近世墳墓群遺跡発掘調査報告書(磐田市埋蔵文化財センター、1998年)
江戸時代初めの西貝塚の寺院として永福寺を列挙
- 郷土資料東海道見付宿の助郷(清水秀明編著、1990年)西貝塚村の項
永福寺除地1石5斗
- 郷土資料旧高旧領取調帳 中部編(木村礎校訂)
西貝塚村 永福寺除地1.500石
- 郷土資料静岡県史料 第5輯(静岡県編、昭和16年)
永福寺文書(慶安2年2月17日)収録
- 寺院公式情報遠州三十三観音霊場めぐり 札所一覧(霊場会公式サイト)
第20番=今浦山永福寺(西貝塚1519-1)を確認(既存注記どおり)。
- 民間二次情報ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第24番=今浦山永福寺(西貝塚1519)を確認。
- 宗派公式資料永福寺 - 曹洞禅ナビ寺院検索
名称・フリガナ(エイフクジ)・住所(磐田市西貝塚1519-1)のみ掲載。由緒・本尊・年中行事欄は未記入。
最終更新日 2026.07.19
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この寺院について
永福寺は磐田市西貝塚1519番地の1、御厨地区に所在する曹洞宗の寺院です。山号は今浦山で、寺の所在地一帯の「今の浦」の地名にちなみます。本尊は阿弥陀如来(阿弥陀三尊)で、遠州三十三観音霊場の札所本尊として十一面観世音菩薩を祀ります。同じ西貝塚地区の城之崎にある福王寺の末寺として開かれ、500年余りの歴史を重ねてきました。
遠州三十三観音霊場では第20番札所に当たり、御詠歌は「ただたのめ いまうらやまの くさもきも とうのちかいの あらんかぎりは」と定められています。観音堂には十一面観世音菩薩と三十三観音が祀られ、堂の脇には鎌倉時代後期の作と伝えられる十王像が安置されています。また磐田郡三十三観音霊場では第24番札所とされています。
本堂は安政6年(1859年)の暴風災害で壊滅した後、明治15年(1882年)に檀信徒の浄財で再建され、平成9年(1997年)10月に現在の本堂が建立されました。江戸時代には除地1石5斗を有した記録が残る、西貝塚の歴史とともに歩んできた寺院です。
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歴史と背景
永正元年の開創—金室竜公和尚と阿弥陀三尊
遠州三十三観音霊場公式サイトの縁起によれば、永福寺は今から500年余り前の永正元年(1504年)2月1日、金室竜公和尚によって開創されました。福王寺2世命泉義竜大和尚を勧請開山として請じ、開創のときに金室和尚の守り本尊であった阿弥陀如来三尊を本堂に安置し、今日に至っています。大正10年(1921年)刊『静岡県磐田郡誌』の寺院由緒も「西貝村西貝塚字中小路に在り。今浦山と號す。當村福王寺の末にして、本尊は阿彌陀如來なり。永正元年、福王寺の命泉和尙之れを建設すといふ」と記しており、霊場の縁起と一致します。開山を仰いだ福王寺は同じ西貝塚地区の城之崎にある曹洞宗寺院で、永福寺はその末寺として法灯を受け継ぎました。
本寺・福王寺—風祭山の古刹とのつながり
本寺の福王寺について、霊場公式サイトの縁起は、今から1000年余り前に真言宗高野山の末寺として建立され、文安元年(1444年)に天翁義一禅師を迎えて曹洞宗に改宗した古刹と伝えています。山号「風祭山」は、古文書によれば永観2年(984年)に遠州一帯を暴風が襲った際、京都から諸国行脚の途中で当地に来ていた陰陽師安倍晴明(縁起の表記では安倍清明)の祈祷により暴風が鎮められたことにちなむとされ、福王寺では毎年3月8日に風祭りの行事が行われています。永福寺の開創は、この福王寺が曹洞宗に改宗してから60年後のことに当たります。西貝塚の地に曹洞宗の教えが根づいていく流れの中で、福王寺2世を勧請開山に仰いで生まれたのが永福寺でした。
寺号「永福」と山号「今浦山」の由来
「永福」の寺号は、開創当時の年号である永正の「永」と、万民の幸せを願う「福」とを合わせたものと言われています。山号の「今浦山」は、寺の所在地一帯の「今の浦」の地名にちなむもので、御詠歌にも「いまうらやまの」と詠み込まれています。年号と地名、そして人々の幸せへの願いを寺の名に刻んだ由来は、霊場公式サイトの縁起に今も伝えられています。
近世の永福寺—除地1石5斗と慶安2年の文書
西貝塚の江戸時代の寺院構成について、磐田市埋蔵文化財センター『野口・マカダ近世墳墓群遺跡発掘調査報告書』(1998年)は、江戸時代の初めの西貝塚に福王寺、隣浦庵(のち林宝院)、永福寺、長泉庵などがあったと記しています。本寺の福王寺には慶長8年(1603年)の徳川家康寺領寄付朱印状写が伝わっており(『日本歴史地名大系』西貝塚村の項)、永福寺も清水秀明編著『東海道見付宿の助郷』(1990年)の西貝塚村の項に福王寺の末寺として除地1石5斗があったと記されています。幕末から明治初年の『旧高旧領取調帳』中部編にも西貝塚村に「永福寺除地1石5斗」が見えます。また『静岡県史料 第5輯』(静岡県編、昭和16年)には「永福寺文書」として慶安2年(1649年)2月17日付の文書が収録されており、江戸時代前期の寺の存在を示す文書が伝来していたことが分かります。
安政の大風災と明治・平成の再建
霊場公式サイトの縁起によれば、本堂は安政6年(1859年)8月、安政の暴風災害を被って壊滅しました。安政年間は災害の相次いだ時代で、同じ御厨地区でも鎌田の全久院が安政地震により諸堂の倒壊を被ったことが『日本歴史地名大系』に記されており、幕末の磐田の寺々が地震や暴風と向き合いながら維持されてきたことがうかがえます。永福寺の本堂はその後、明治15年(1882年)8月に檀信徒の浄財によって再建され、さらに平成9年(1997年)10月には現在の本堂が建立されました。江戸末期の災害からの再建も、平成の本堂建立も、いずれも檀信徒の力によって支えられてきた歩みであり、寺と檀家のつながりの深さを物語っています。
遠州三十三観音霊場第20番札所として
永福寺は、昭和59年(1984年)5月に開創された遠州三十三観音霊場の第20番札所です(霊場公式サイトによる)。札所本尊は十一面観世音菩薩で、観音堂には十一面観世音菩薩と三十三観音が祀られ、堂の脇には今から670年ほど前、鎌倉時代後期の作と言われる十王像が安置されています。近隣の札所は第19番の正醫寺(下万能)と第21番の観音寺(福田)で、本寺に当たる福王寺(城之崎)も第18番札所として同じ霊場に名を連ねています。また磐田郡三十三観音霊場では第24番札所とされ、地域の観音信仰の巡拝路の中に位置づけられてきました。遠州三十三観音霊場会の事務局は袋井市久能の可睡斎に置かれており、霊場公式サイトは「花と観音霊場」を掲げて各札所の縁起や御詠歌を紹介しています。
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文化財・見どころ
阿弥陀如来三尊
開創のとき、金室竜公和尚の守り本尊であった阿弥陀如来三尊を本堂に安置し、今日に至っていると霊場公式サイトの縁起は伝えています。阿弥陀三尊は、中尊の阿弥陀如来の脇に観音菩薩と勢至菩薩を配する形式で、開山個人の念持仏がそのまま一寺の本尊として500年余り守り継がれてきたところに、この寺の成り立ちがよく表れています。
十王像
観音堂の脇に安置されている十王の像です。霊場公式サイトの縁起は、今から670年ほど前の鎌倉時代後期の作と言われると紹介しています。十王は、閻魔王をはじめ、亡くなった人が冥界で行き会うとされる10人の裁きの王で、初七日から年忌に至る追善供養の信仰とともに中世以来広まりました。地域の葬送・供養の信仰と結びついた像といえます。制作年代や指定の有無については、磐田市の文化財資料での確認事項としています。
観音堂
遠州三十三観音霊場第20番の札所本尊である十一面観世音菩薩と、三十三観音を祀るお堂です。三十三観音は、観音菩薩が33の姿に身を変えて人々を救うという『法華経』の教えにちなむもので、札所巡拝の祈りの中心となっています。
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宗派と本尊を知る
永福寺の本尊は阿弥陀如来(阿弥陀三尊)です。禅宗の寺院では釈迦牟尼仏を本尊とすることが多いなか、当寺では開創した金室竜公和尚の守り本尊であった阿弥陀如来三尊が開創以来の本尊として受け継がれてきたと霊場公式サイトの縁起は伝えています。あわせて観音堂には札所本尊の十一面観世音菩薩が祀られ、阿弥陀様と観音様への信仰が一つの境内で重なり合っているところに、この寺の特色があります。
曹洞宗とは
曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師(1200年〜1253年)が宋(中国)から正伝の仏法を伝え、瑩山禅師が全国へ広めた禅宗の一派です。両禅師を「両祖」と仰ぎ、ご本尊は釈迦牟尼仏です。道元禅師は寛元2年(1244年)に越前(現在の福井県)に永平寺を開き、瑩山禅師の系統からは總持寺(現在は横浜市鶴見区)が興りました。この2か寺を両大本山とし、全国におよそ1万4千か寺を数える大教団です。
教えの中心は「只管打坐」、ただひたすらに坐ることです。坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐る姿そのものが仏のすがたであると説き、掃除や食事といった日々の行いのすべてを修行と捉えます。道元禅師の主著「正法眼蔵」には、その思想が深く説かれています。
檀家の法要では「修証義」や「般若心経」の読誦が親しまれ、葬儀は故人に戒を授けて仏弟子として送る作法に特色があり、戒名にも仏弟子としての意味が込められています。菩提寺で坐禅会や写経会が開かれることも多く、暮らしの中で教えに触れやすい宗派です。
阿弥陀如来という仏さま
阿弥陀如来の「阿弥陀」は「量りしれない」という意味で、限りない光(無量光)と限りない命(無量寿)を備えた仏さまであることを表します。西方の極楽浄土の教主で、はるか昔、法蔵菩薩として修行していた時に48の願を立て、なかでも第18願では、念仏する者を必ず浄土に迎え取ると誓われたと経典に説かれています。
この誓いを頼りとして「南無阿弥陀仏」と称えるのがお念仏です。浄土宗や浄土真宗など念仏の教えに立つ宗派では阿弥陀如来を本尊と仰ぎ、仏壇の中央に絵像や木像でお迎えして、朝夕のお勤めで手を合わせます。本尊のお姿は、目に見えない救いのはたらきを、私たちに受け取りやすいよう姿かたちで表したものと受け止められています。
葬儀や年忌法要、お彼岸やお盆など、亡き人を偲ぶ場面で最も身近な仏さまでもあります。亡き人を浄土に迎え取り、残された私たちをも光の中で照らし続けてくださる。そのはたらきへの感謝とともに称えるのがお念仏だと受け止められています。
参考: よくあるご質問(浄土宗 公式サイト)/ご本尊をお迎えする(真宗大谷派・東本願寺 公式サイト)/阿弥陀如来の四十八願について(浄土宗 善想寺)
05
地域とのつながり
永福寺のある西貝塚は、磐田市中心部の東側に広がる地区で、江戸時代には山名郡西貝塚村に属しました。西貝塚村には慶長8年(1603年)の徳川家康寺領寄付朱印状写(福王寺宛)に村名が見えるほか、東海道見付宿の助郷を務めた村としての記録も残ります。助郷とは、宿場の常備の人馬だけでは足りないときに周辺の村々が人馬を出して継ぎ立てを支えた課役のことで、西貝塚村もその負担を担いながら、街道のにぎわいと隣り合って暮らしてきました。江戸時代初めの西貝塚には福王寺、隣浦庵(のち林宝院)、永福寺、長泉庵などの寺々があり、城之崎の福王寺を本寺として、永福寺・林宝院・東昌寺(東貝塚)がその末寺に連なるという、福王寺を核とした寺院のつながりがこの一帯に築かれていました。本寺の福王寺は遠州三十三観音霊場第18番札所であるほか、遠州七福神・遠江四十九薬師の霊場にも名を連ねており、西貝塚周辺は札所の寺々が歩いて巡れる距離に集まる、信仰の厚い土地柄です。
山号「今浦山」の由来となった「今の浦」の名は、現在も今之浦の地名や今之浦川に受け継がれています。西貝塚を含む一帯が属する御厨地区の名は、平安時代に伊勢神宮の御厨(神領)「鎌田御厨」が置かれたことに由来し、総鎮守とされる鎌田神明宮の社伝は、寛平2年(890年)に伊勢神宮へ寄進され19の村々から貢納が行われたと伝えています。永福寺は、伊勢信仰の記憶を地名にとどめるこの地区の西部で、阿弥陀様と観音様の寺として村の暮らしに寄り添い、災害からの再建のたびに檀信徒とともに立ち上がってきました。
06
年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
遠州三十三観音霊場第20番札所のため、御詠歌を唱えて巡拝する参拝者を迎える寺でもあります。法要やお墓参りで訪れる際は、観音堂への巡拝者と譲り合ってお参りください。
霊場公式サイトによれば、交通は東名高速磐田インターチェンジから車で約15分、JR磐田駅からタクシーで約5分と案内されています。
行事・法要の日程や受付については、現時点で公開された案内が確認できていません。寺院へ直接お問い合わせください。
- 施餓鬼会・彼岸会など年中行事の日程
- 墓地・永代供養の取り扱いの有無
- 護持会など檀家組織の有無・活動内容
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
07
よくある質問
- 永福寺の読み方と山号は?
-
「えいふくじ」と読みます。山号は今浦山(いまうらやま)で、寺の所在地一帯の「今の浦」の地名にちなみます。所在地は磐田市西貝塚1519番地の1で、御厨地区に属する西貝塚の集落にあり、地区内には本寺の福王寺など曹洞宗の寺々が集まっています。
本文「この寺院について」を読む - 宗派と本尊は?
-
曹洞宗で、本尊は阿弥陀如来(阿弥陀三尊)です。開創した金室竜公和尚の守り本尊を開創以来安置してきたと伝えられます。札所本尊としては観音堂に十一面観世音菩薩を祀ります。
本文「宗派と本尊」を読む - いつ誰が開いたお寺ですか?
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永正元年(1504年)2月1日、金室竜公和尚によって開創され、福王寺2世命泉義竜大和尚を勧請開山として迎えたと伝えられます。『静岡県磐田郡誌』の由緒も永正元年の開創と記しています。
本文「歴史と背景」を読む - 寺号「永福」の由来は?
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開創当時の年号である永正の「永」と、万民の幸せを願う「福」とを合わせたものと言われています(霊場公式サイトの縁起による)。
本文「歴史と背景」を読む - 札所になっていますか?
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昭和59年(1984年)開創の遠州三十三観音霊場の第20番札所で、御詠歌は「ただたのめ いまうらやまの くさもきも とうのちかいの あらんかぎりは」です。磐田郡三十三観音霊場では第24番札所とされています。
本文「年中行事・参拝の手引き」を読む - 観音堂には何が祀られていますか?
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札所本尊の十一面観世音菩薩と三十三観音が祀られ、堂の脇には鎌倉時代後期の作と伝えられる十王像が安置されています。三十三観音は、観音菩薩が33の姿に身を変えて人々を救うという『法華経』の教えにちなむものです。
本文「文化財・見どころ」を読む - 御詠歌はどんな歌ですか?
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「ただたのめ いまうらやまの くさもきも とうのちかいの あらんかぎりは」です。御詠歌は巡拝者が札所で唱える和歌形式の歌で、永福寺の御詠歌には山号の今浦山が詠み込まれています。
本文「年中行事・参拝の手引き」を読む - 十王像とは何ですか?
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閻魔王をはじめ、亡くなった人が冥界で行き会うとされる10人の裁きの王の像です。永福寺の十王像は鎌倉時代後期の作と伝えられ、観音堂の脇に安置されています。追善供養の信仰と結びついた寺宝です。
本文「文化財・見どころ」を読む - 本堂はいつ建てられたものですか?
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安政6年(1859年)8月の暴風災害で壊滅した後、明治15年(1882年)8月に檀信徒の浄財で再建され、平成9年(1997年)10月に現在の本堂が建立されました。
本文「歴史と背景」を読む - 福王寺とはどんな関係ですか?
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同じ西貝塚地区の城之崎にある福王寺が本寺で、永福寺はその末寺として開かれました。開山も福王寺2世の命泉義竜大和尚を勧請しています。福王寺は1000年余り前に高野山の末寺として建立され、文安元年(1444年)に曹洞宗へ改宗したと伝わる古刹で、遠州三十三観音霊場第18番札所でもあります。江戸時代の西貝塚周辺では、福王寺を本寺として永福寺・林宝院・東昌寺が末寺に連なっていました。
本文「地域とのつながり」を読む
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写真で見る境内
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出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9122。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 寺院公式情報 遠州三十三観音霊場公式サイト「永福寺(磐田市西貝塚・20番札所)」
縁起全文(永正元年2月1日開創・金室竜公和尚・命泉義竜勧請開山・阿弥陀三尊・寺号と山号の由来・安政6年8月壊滅・明治15年8月再建・平成9年10月本堂建立)、御詠歌、観音堂の十一面観音・三十三観音・十王像、交通案内を確認(SSL証明書の警告を回避して本文を取得)
- 郷土資料 静岡県磐田郡誌(磐田郡教育会編、大正10年)寺院由緒「永福寺(西貝村)」
コマ453。今浦山・福王寺末・本尊阿弥陀如来・永正元年建設の由緒を確認
- 寺院公式情報 遠州三十三観音霊場めぐり 札所一覧(霊場会公式サイト)
第20番=今浦山永福寺(西貝塚1519-1)、第18番福王寺・第19番正醫寺・第21番観音寺の近隣札所を確認
- 寺院公式情報 遠州三十三観音霊場公式サイト「福王寺(磐田市城之崎・18番札所)」
本寺・福王寺の縁起(1000年余り前の高野山末寺としての建立、文安元年〈1444年〉の天翁義一禅師による曹洞宗改宗、永観2年〈984年〉の安倍清明祈祷と山号風祭山の由来、毎年3月8日の風祭り、遠州七福神・遠江四十九薬師の札所)を確認。霊場会事務局が可睡斎(袋井市久能2915)であることも確認
- 郷土資料 日本歴史地名大系「西貝塚村」(平凡社、コトバンク)
西貝塚村が山名郡に属したこと、慶長8年(1603年)の福王寺宛徳川家康寺領寄付朱印状写に「西貝塚」と見えることを確認
- 学術資料 野口・マカダ近世墳墓群遺跡発掘調査報告書(磐田市埋蔵文化財センター、1998年)
江戸時代初めの西貝塚の寺院として福王寺・隣浦庵(のち林宝院)・永福寺・長泉庵を列挙
- 郷土資料 東海道見付宿の助郷(清水秀明編著、1990年)西貝塚村の項
福王寺の末寺としての永福寺除地1石5斗を確認
- 郷土資料 旧高旧領取調帳 中部編(木村礎校訂)
西貝塚村 永福寺除地1.500石
- 郷土資料 静岡県史料 第5輯(静岡県編、昭和16年)
永福寺文書(慶安2年2月17日)収録
- 神社公式情報 鎌田神明宮 公式サイト「御由緒」
鎌田御厨が寛平2年(890年)に伊勢神宮の領地として寄進されたとする社伝、19の村々からの貢納、鎌田神明宮が御厨の総鎮守であることを確認(御厨地区の歴史文脈として使用)
- 郷土資料 日本歴史地名大系「全久院」(平凡社、コトバンク)
同じ御厨地区の全久院(鎌田)が安政地震で諸堂倒壊を被ったことを確認(幕末の災害文脈として使用)
- 民間二次情報 ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第24番=今浦山永福寺(西貝塚1519)を確認
- 民間二次情報 遠州三十三観音霊場 - Wikipedia
第20番札所・今浦山永福寺・曹洞宗・十一面観世音菩薩・磐田市西貝塚1519-1の照合(発見用の参考。事実の根拠には霊場公式サイトを使用)
- 民間二次情報 西貝塚 (磐田市) - Wikipedia
西貝塚地区の宗教施設として永福寺の名称掲載を確認(発見用の参考)
- 民間二次情報 全都道府県の寺院・仏閣検索(磐田市119カ寺一覧)
曹洞宗・磐田市西貝塚1519番地の1として掲載を確認
- 宗派公式資料 永福寺 - 曹洞禅ナビ寺院検索
名称・フリガナ(エイフクジ)・住所(磐田市西貝塚1519-1)のみ掲載。由緒・本尊・年中行事欄は未記入
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菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
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