御厨地区・現存
林宝院
りんぽういん
林宝院(りんぽういん)は、磐田市西貝塚にある曹洞宗の寺院で、山号は西浦山です。『静岡県磐田郡誌』によれば永正16年(1519年)の開創で、同じ西貝塚の福王寺の末寺、本尊は地蔵菩薩とされます。慶長9年(1604年)の伊奈忠次手形が伝わり、明治には西貝尋常小学校の教室にもなった寺です。
別称・関連名称西浦山/隣浦庵(旧称)
- 寺院名
- 林宝院
- 地区
- 御厨
- 住所
- 静岡県磐田市西貝塚1423番地
- 宗派
- 曹洞宗
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 林宝院
- 読み方
- りんぽういん
- 地区
- 御厨
- 宗派
- 曹洞宗
- ご本尊(資料上)
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
- ご本尊の現在の確認状況
- 公開資料で確認済み
- 住所
- 静岡県磐田市西貝塚1423番地
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 地蔵菩薩/林宝院文書(慶長9年伊奈忠次手形・松平親茂添状)
- 最終確認日
- 2026.07.15
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 林宝院
- 宗派
- 曹洞宗
- 本尊
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
- 創建
- 永正16年(1519年)開創(『静岡県磐田郡誌』)
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市西貝塚1423番地
- 地区
- 御厨
Database 02
沿革
永正16年開創—福王寺末の西浦山林宝院
大正10年(1921年)刊『静岡県磐田郡誌』の寺院由緒には「林寳院(西貝村)【由緒】西貝村西貝塚字小野に在り。西浦山と號す。當村福王寺の末寺にして、本尊は地藏菩薩なり。永正十六年、嶺宗の開創に係る」と記されています。永正16年は1519年に当たり、同じ西貝塚の永福寺(永正元年〈1504年〉開創)とほぼ同時期に、福王寺の末寺として開かれたことになります。本寺の福王寺は、霊場公式サイトの縁起によれば1000年余り前に真言宗高野山の末寺として建立され、文安元年(1444年)に天翁義一禅師を迎えて曹洞宗に改宗した古刹です。15世紀半ばに福王寺が曹洞宗の寺となったのち、永正年間にかけてその末寺が相次いで西貝塚の集落に生まれており、林宝院もその一つでした。
「隣浦庵」から林宝院へ
磐田市埋蔵文化財センター『野口・マカダ近世墳墓群遺跡発掘調査報告書』(1998年)は、江戸時代の初めの西貝塚に福王寺、隣浦庵(のち林宝院)、永福寺、長泉庵などがあったと記し、清水秀明編著『東海道見付宿の助郷』(1990年)も西貝塚村の項でこの寺を「隣浦庵(のち林宝院)」と記しています。当初は本堂一宇の庵として営まれ、のちに院号を称して林宝院となったとみられますが、改称の時期は現時点では確認できていません。「隣浦」「西浦」という庵号・山号は、いずれも「浦」の字を含む名で、「今の浦」の地名にちなむ山号「今浦山」を持つ隣の永福寺とともに、この一帯の地名の伝統を寺の名に映しています。庵から院への歩みは、村の中で寺の役割が次第に重みを増していったことを示すものといえます。
慶長9年の伊奈忠次手形—林宝院文書
『日本歴史地名大系』(平凡社)の西貝塚村の項は、慶長9年(1604年)の林宝院宛伊奈忠次手形(林宝院文書)に村名が「貝塚村」と記されていることを紹介しています。伊奈忠次(1550年〜1610年)は徳川家康に仕えた代官頭で、「備前検地」と呼ばれた検地の実施、利根川・荒川の改修、用水路の開削や新田開発に手腕を発揮し、その仕法が「伊奈流」と呼ばれて後の幕府農政の基礎となった人物です。初代関東郡代として知られるこの忠次の手形が西貝塚の小さな寺に交付されていたことは、江戸幕府成立直後の寺社政策がこの地域まで及んでいたことを示しています。この文書は『静岡県史料 第5輯』(静岡県編、昭和16年)に「林寳院文書」として松平親茂添状とともに収録されており、寺に文書が伝来していたことが分かります。
除地3石の近世—帳簿に見える林宝院
『東海道見付宿の助郷』は西貝塚村の項で隣浦庵(のち林宝院)に除地3石があったと記しています。除地とは年貢を免除された土地のことで、寺社の維持のために認められたものです。同書の書名が示すとおり、西貝塚村は東海道見付宿の助郷を務めた村でした。助郷とは、宿場の常備の人馬だけでは足りないときに周辺の村々が人馬を出して継ぎ立てを支えた課役で、西貝塚の家々は街道の負担を担いながら、村の寺を支え続けたことになります。幕末から明治初年の状況をまとめた『旧高旧領取調帳』中部編にも西貝塚村に「林宝院領3石」が見えており、江戸時代を通じて3石の除地が維持されたことが確認できます。同じ西貝塚村では本寺の福王寺に慶長8年(1603年)の徳川家康寺領寄付朱印状写が伝わり、永福寺にも除地1石5斗がありました。福王寺を核とする寺々が、それぞれ小さな寺領に支えられながら村の信仰を分担していた様子がうかがえます。
西貝尋常小学校の教室—近代教育の出発点
『静岡県磐田郡誌』の教育の章によれば、明治22年(1889年)4月15日、西貝村西貝塚の林宝院を教室として西貝尋常小学校が創立され、それまで鎌田校に通学していた西貝塚・西之島、大原学校に通学していた上南田の児童を収容しました。明治の学制のもと、校舎が整うまでの間、寺院の本堂が子どもたちの学び舎となる例は各地にありましたが、西貝塚ではその役割を林宝院が担いました。同じ御厨地区では、鎌田の医王寺境内に明治8年(1875年)開校の坊中学校があり、住職が私財を投じて建てた白壁の西洋風校舎は見付学校・西之島学校とともに「遠州三大学校」と称されました(医王寺境内の説明板による)。寺院を舞台とする近代教育の風景は、この地区に共通する記憶であり、林宝院の本堂で机を並べた西貝塚の子どもたちの姿も、その一場面でした。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
- 宗教的意味
- 林宝院の本尊は地蔵菩薩です(『静岡県磐田郡誌』による)。「隣浦庵」という庵として始まり、明治には村の子どもたちの教室にもなったこの寺の歩みは、子どもを守る仏として親しまれてきた地蔵菩薩の性格と重なり合います。御厨地区では西島の全海寺も地蔵菩薩を本尊としており、平野部の集落に根づいた地蔵信仰の広がりの中にこの寺も位置しています。宗派は本寺の福王寺から受け継いだ曹洞宗で、500年にわたり同じ集落の中で法灯を守ってきました。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
地蔵菩薩
『静岡県磐田郡誌』の由緒に「本尊は地藏菩薩なり」と記される本尊です。西貝塚では隣の集落・西島の全海寺も地蔵菩薩を本尊としており、街道沿いの平野部の集落に広がった地蔵信仰の系譜の中にあります。像の制作年代や像容の詳細は、現時点では確認できていません。
林宝院文書(慶長9年伊奈忠次手形・松平親茂添状)
慶長9年(1604年)に徳川家康の代官頭・伊奈忠次から林宝院へ交付された手形と、松平親茂の添状です。『静岡県史料 第5輯』(静岡県編、昭和16年)に「林寳院文書」として収録されており、『日本歴史地名大系』は手形に村名が「貝塚村」と記されることを紹介しています。江戸幕府成立直後の寺と権力の関係を伝える、西貝塚の歴史の基準点となる文書です。文書の現在の所在は確認事項としています。
西貝塚遺跡と林宝院境内
『磐田市誌 上巻』(1954年)は、縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡である西貝塚遺跡の範囲が、磐田東小学校の北に当たる林宝院・須賀神社境内一帯にも達すると記しています。地名「西貝塚」の由来ともなった貝塚群の上に境内が重なっており、数千年に及ぶ人の営みの積み重なりの上でお墓参りができる、類のない立地です。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
林宝院のある西貝塚は、磐田市中心部の東側に広がる地区で、江戸時代には山名郡西貝塚村に属し、東海道見付宿の助郷を務めた村でした。村内には本寺の福王寺(城之崎)を核として、永福寺・林宝院などの末寺が連なり、東貝塚の東昌寺もその末寺でした。福王寺は永観2年(984年)の暴風を陰陽師安倍晴明の祈祷で鎮めたという縁起から山号を風祭山と称する古刹で、毎年3月8日に風祭りが行われています。林宝院は、この福王寺の寺院ネットワークの中で、集落の日々の信仰を支える庵から出発した寺でした。同じ末寺でも、永福寺が遠州三十三観音霊場第20番札所として巡拝者を迎える寺であるのに対し、林宝院は帳簿と文書にその歩みを刻んできた、檀家の暮らしに寄り添う寺という性格を保っています。
西貝塚を含む御厨地区の名は、平安時代に伊勢神宮の御厨(神領)「鎌田御厨」が置かれたことに由来し、総鎮守とされる鎌田神明宮の社伝は、寛平2年(890年)に伊勢神宮へ寄進され19の村々から貢納が行われたと伝えています。林宝院の境内一帯には縄文時代の西貝塚遺跡が広がり、明治には小学校の教室として使われ、現在は磐田東小学校にほど近い市街地の寺として檀家の法要とお墓参りの場であり続けています。縄文の貝塚、中世の伊勢信仰、近世の寺院ネットワーク、近代の学校と、時代ごとの地域の記憶がこの小さな境内に折り重なっています。西貝塚の集落史を読む入口です。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9124
- 郷土資料静岡県磐田郡誌(磐田郡教育会編、大正10年)寺院由緒「林寳院(西貝村)」
コマ453。西貝尋常小学校の記事はコマ285
- 郷土資料日本歴史地名大系「西貝塚村」(平凡社、コトバンク)
慶長9年林宝院宛伊奈忠次手形の記載
- 学術資料野口・マカダ近世墳墓群遺跡発掘調査報告書(磐田市埋蔵文化財センター、1998年)
「隣浦庵(のち林宝院)」の記載
- 郷土資料東海道見付宿の助郷(清水秀明編著、1990年)西貝塚村の項
隣浦庵(のち林宝院)除地3石
- 郷土資料静岡県史料 第5輯(静岡県編、昭和16年)
林寳院文書(慶長9年伊奈忠次手形・松平親茂添状)収録
- 郷土資料旧高旧領取調帳 中部編(木村礎校訂)
西貝塚村 林宝院領3.000石
- 郷土資料磐田市誌 上巻(磐田市誌編纂執筆委員会編、1954年)
西貝塚遺跡が林宝院・須賀神社境内一帯に達するとの記述
- 宗派公式資料林宝院 - 曹洞禅ナビ寺院検索
名称・フリガナ(リンポウイン)・住所(磐田市西貝塚1423)のみ掲載。由緒・本尊・年中行事欄は未記入。
最終更新日 2026.07.19
Uploaded Photos
保存済み写真
01
この寺院について
林宝院は磐田市西貝塚1423番地、御厨地区に所在する曹洞宗の寺院です。山号は西浦山で、『静岡県磐田郡誌』(大正10年)は本尊を地蔵菩薩と記しています。永正16年(1519年)に嶺宗によって開創されたと伝わり、同じ西貝塚地区の城之崎にある福王寺を本寺として、500年余りの歴史を重ねてきました。旧称の「隣浦庵」、山号の「西浦山」は、隣の永福寺の山号「今浦山」(「今の浦」の地名にちなむ)と同じく「浦」の字を持ち、この一帯の地名の伝統を映した名とみられます。
江戸時代の初めには「隣浦庵」と呼ばれた小さな庵で、のちに院号を称して林宝院となりました。慶長9年(1604年)には徳川家康の代官頭・伊奈忠次から手形(文書)を交付されており、江戸幕府成立直後の時点で確かな存在が確認できる寺です。江戸時代を通じて除地3石の寺領を有し、明治22年(1889年)には境内が西貝尋常小学校の教室となって、地域の近代教育の出発点にもなりました。
境内地の一帯は、縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡として知られる西貝塚遺跡の範囲に含まれると『磐田市誌 上巻』(1954年)は記しており、先史時代以来の人々の暮らしの跡の上に立つ寺でもあります。
02
歴史と背景
永正16年開創—福王寺末の西浦山林宝院
大正10年(1921年)刊『静岡県磐田郡誌』の寺院由緒には「林寳院(西貝村)【由緒】西貝村西貝塚字小野に在り。西浦山と號す。當村福王寺の末寺にして、本尊は地藏菩薩なり。永正十六年、嶺宗の開創に係る」と記されています。永正16年は1519年に当たり、同じ西貝塚の永福寺(永正元年〈1504年〉開創)とほぼ同時期に、福王寺の末寺として開かれたことになります。本寺の福王寺は、霊場公式サイトの縁起によれば1000年余り前に真言宗高野山の末寺として建立され、文安元年(1444年)に天翁義一禅師を迎えて曹洞宗に改宗した古刹です。15世紀半ばに福王寺が曹洞宗の寺となったのち、永正年間にかけてその末寺が相次いで西貝塚の集落に生まれており、林宝院もその一つでした。
「隣浦庵」から林宝院へ
磐田市埋蔵文化財センター『野口・マカダ近世墳墓群遺跡発掘調査報告書』(1998年)は、江戸時代の初めの西貝塚に福王寺、隣浦庵(のち林宝院)、永福寺、長泉庵などがあったと記し、清水秀明編著『東海道見付宿の助郷』(1990年)も西貝塚村の項でこの寺を「隣浦庵(のち林宝院)」と記しています。当初は本堂一宇の庵として営まれ、のちに院号を称して林宝院となったとみられますが、改称の時期は現時点では確認できていません。「隣浦」「西浦」という庵号・山号は、いずれも「浦」の字を含む名で、「今の浦」の地名にちなむ山号「今浦山」を持つ隣の永福寺とともに、この一帯の地名の伝統を寺の名に映しています。庵から院への歩みは、村の中で寺の役割が次第に重みを増していったことを示すものといえます。
慶長9年の伊奈忠次手形—林宝院文書
『日本歴史地名大系』(平凡社)の西貝塚村の項は、慶長9年(1604年)の林宝院宛伊奈忠次手形(林宝院文書)に村名が「貝塚村」と記されていることを紹介しています。伊奈忠次(1550年〜1610年)は徳川家康に仕えた代官頭で、「備前検地」と呼ばれた検地の実施、利根川・荒川の改修、用水路の開削や新田開発に手腕を発揮し、その仕法が「伊奈流」と呼ばれて後の幕府農政の基礎となった人物です。初代関東郡代として知られるこの忠次の手形が西貝塚の小さな寺に交付されていたことは、江戸幕府成立直後の寺社政策がこの地域まで及んでいたことを示しています。この文書は『静岡県史料 第5輯』(静岡県編、昭和16年)に「林寳院文書」として松平親茂添状とともに収録されており、寺に文書が伝来していたことが分かります。
除地3石の近世—帳簿に見える林宝院
『東海道見付宿の助郷』は西貝塚村の項で隣浦庵(のち林宝院)に除地3石があったと記しています。除地とは年貢を免除された土地のことで、寺社の維持のために認められたものです。同書の書名が示すとおり、西貝塚村は東海道見付宿の助郷を務めた村でした。助郷とは、宿場の常備の人馬だけでは足りないときに周辺の村々が人馬を出して継ぎ立てを支えた課役で、西貝塚の家々は街道の負担を担いながら、村の寺を支え続けたことになります。幕末から明治初年の状況をまとめた『旧高旧領取調帳』中部編にも西貝塚村に「林宝院領3石」が見えており、江戸時代を通じて3石の除地が維持されたことが確認できます。同じ西貝塚村では本寺の福王寺に慶長8年(1603年)の徳川家康寺領寄付朱印状写が伝わり、永福寺にも除地1石5斗がありました。福王寺を核とする寺々が、それぞれ小さな寺領に支えられながら村の信仰を分担していた様子がうかがえます。
西貝尋常小学校の教室—近代教育の出発点
『静岡県磐田郡誌』の教育の章によれば、明治22年(1889年)4月15日、西貝村西貝塚の林宝院を教室として西貝尋常小学校が創立され、それまで鎌田校に通学していた西貝塚・西之島、大原学校に通学していた上南田の児童を収容しました。明治の学制のもと、校舎が整うまでの間、寺院の本堂が子どもたちの学び舎となる例は各地にありましたが、西貝塚ではその役割を林宝院が担いました。同じ御厨地区では、鎌田の医王寺境内に明治8年(1875年)開校の坊中学校があり、住職が私財を投じて建てた白壁の西洋風校舎は見付学校・西之島学校とともに「遠州三大学校」と称されました(医王寺境内の説明板による)。寺院を舞台とする近代教育の風景は、この地区に共通する記憶であり、林宝院の本堂で机を並べた西貝塚の子どもたちの姿も、その一場面でした。
03
文化財・見どころ
地蔵菩薩
『静岡県磐田郡誌』の由緒に「本尊は地藏菩薩なり」と記される本尊です。西貝塚では隣の集落・西島の全海寺も地蔵菩薩を本尊としており、街道沿いの平野部の集落に広がった地蔵信仰の系譜の中にあります。像の制作年代や像容の詳細は、現時点では確認できていません。
林宝院文書(慶長9年伊奈忠次手形・松平親茂添状)
慶長9年(1604年)に徳川家康の代官頭・伊奈忠次から林宝院へ交付された手形と、松平親茂の添状です。『静岡県史料 第5輯』(静岡県編、昭和16年)に「林寳院文書」として収録されており、『日本歴史地名大系』は手形に村名が「貝塚村」と記されることを紹介しています。江戸幕府成立直後の寺と権力の関係を伝える、西貝塚の歴史の基準点となる文書です。文書の現在の所在は確認事項としています。
西貝塚遺跡と林宝院境内
『磐田市誌 上巻』(1954年)は、縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡である西貝塚遺跡の範囲が、磐田東小学校の北に当たる林宝院・須賀神社境内一帯にも達すると記しています。地名「西貝塚」の由来ともなった貝塚群の上に境内が重なっており、数千年に及ぶ人の営みの積み重なりの上でお墓参りができる、類のない立地です。
04
宗派と本尊を知る
林宝院の本尊は地蔵菩薩です(『静岡県磐田郡誌』による)。「隣浦庵」という庵として始まり、明治には村の子どもたちの教室にもなったこの寺の歩みは、子どもを守る仏として親しまれてきた地蔵菩薩の性格と重なり合います。御厨地区では西島の全海寺も地蔵菩薩を本尊としており、平野部の集落に根づいた地蔵信仰の広がりの中にこの寺も位置しています。宗派は本寺の福王寺から受け継いだ曹洞宗で、500年にわたり同じ集落の中で法灯を守ってきました。
曹洞宗とは
曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師(1200年〜1253年)が宋(中国)から正伝の仏法を伝え、瑩山禅師が全国へ広めた禅宗の一派です。両禅師を「両祖」と仰ぎ、ご本尊は釈迦牟尼仏です。道元禅師は寛元2年(1244年)に越前(現在の福井県)に永平寺を開き、瑩山禅師の系統からは總持寺(現在は横浜市鶴見区)が興りました。この2か寺を両大本山とし、全国におよそ1万4千か寺を数える大教団です。
教えの中心は「只管打坐」、ただひたすらに坐ることです。坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐る姿そのものが仏のすがたであると説き、掃除や食事といった日々の行いのすべてを修行と捉えます。道元禅師の主著「正法眼蔵」には、その思想が深く説かれています。
檀家の法要では「修証義」や「般若心経」の読誦が親しまれ、葬儀は故人に戒を授けて仏弟子として送る作法に特色があり、戒名にも仏弟子としての意味が込められています。菩提寺で坐禅会や写経会が開かれることも多く、暮らしの中で教えに触れやすい宗派です。
地蔵菩薩という仏さま
地蔵菩薩は、お釈迦さまが入滅してから弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間、仏のいない世にあって人びとを救い続けると信じられてきた菩薩です。経典ではその間は56億7000万年に及ぶとも説かれ、地獄をはじめとする六道のすべてをめぐって、苦しむ者に寄り添うと伝えられます。
菩薩でありながら僧侶のような親しみやすい姿で表されるのが特徴で、特に子どもを守る仏として信仰が厚く、京都では江戸時代の初めから、町内ごとにお地蔵さまを囲んで子どもの成長を願う地蔵盆が営まれてきました。この地蔵盆は今も子どもが主役の夏の行事として受け継がれ、2014(平成26)年には「京都をつなぐ無形文化遺産」にも選定されています。
道端や寺の境内にたたずむ石のお地蔵さまに、花や前掛けが供えられている光景は、日本で最も身近な信仰のかたちのひとつでしょう。子育てや子どもの健康、亡き子の供養など、家族の切実な願いを受け止めてくださる仏さまです。
参考: 京都に伝わる地蔵信仰(浄土宗総本山知恩院 公式サイト)/弥勒菩薩の56億7千万年後の救済の出典(レファレンス協同データベース・国立国会図書館)
05
地域とのつながり
林宝院のある西貝塚は、磐田市中心部の東側に広がる地区で、江戸時代には山名郡西貝塚村に属し、東海道見付宿の助郷を務めた村でした。村内には本寺の福王寺(城之崎)を核として、永福寺・林宝院などの末寺が連なり、東貝塚の東昌寺もその末寺でした。福王寺は永観2年(984年)の暴風を陰陽師安倍晴明の祈祷で鎮めたという縁起から山号を風祭山と称する古刹で、毎年3月8日に風祭りが行われています。林宝院は、この福王寺の寺院ネットワークの中で、集落の日々の信仰を支える庵から出発した寺でした。同じ末寺でも、永福寺が遠州三十三観音霊場第20番札所として巡拝者を迎える寺であるのに対し、林宝院は帳簿と文書にその歩みを刻んできた、檀家の暮らしに寄り添う寺という性格を保っています。
西貝塚を含む御厨地区の名は、平安時代に伊勢神宮の御厨(神領)「鎌田御厨」が置かれたことに由来し、総鎮守とされる鎌田神明宮の社伝は、寛平2年(890年)に伊勢神宮へ寄進され19の村々から貢納が行われたと伝えています。林宝院の境内一帯には縄文時代の西貝塚遺跡が広がり、明治には小学校の教室として使われ、現在は磐田東小学校にほど近い市街地の寺として檀家の法要とお墓参りの場であり続けています。縄文の貝塚、中世の伊勢信仰、近世の寺院ネットワーク、近代の学校と、時代ごとの地域の記憶がこの小さな境内に折り重なっています。西貝塚の集落史を読む入口です。
06
年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
境内地は縄文時代の西貝塚遺跡の範囲に含まれるとされる場所です。お墓参りの際には、足もとの土地そのものが数千年の歴史を持つことにも思いを寄せてみてください。
観音霊場などの札所としての記録は確認されておらず、普段は檀家の法要とお墓参りを中心とした寺とみられます。
年中行事・法要の日程や受付、墓地の見学については、現時点で公開された案内が確認できていません。お問い合わせは寺院へ直接お願いします。
- 施餓鬼会・彼岸会など年中行事の日程
- 墓地・永代供養の取り扱いの有無
- 護持会など檀家組織の有無・活動内容
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
07
よくある質問
- 林宝院の読み方と山号は?
-
「りんぽういん」と読みます(曹洞禅ナビのフリガナによる)。山号は西浦山で、所在地は磐田市西貝塚1423番地、御厨地区の西貝塚集落にあります。『静岡県磐田郡誌』では旧字体で「林寳院」と表記されています。山号の正確な読みは確認中です。
本文「この寺院について」を読む - 宗派と本尊は?
-
曹洞宗で、本尊は地蔵菩薩です(『静岡県磐田郡誌』による)。同じ西貝塚地区の城之崎にある福王寺の末寺として開かれ、以来同寺の法灯を受け継いでいます。
本文「宗派と本尊」を読む - いつ誰が開いたお寺ですか?
-
『静岡県磐田郡誌』によれば、永正16年(1519年)に嶺宗の開創と伝えられます。同じ西貝塚の永福寺(永正元年開創)とほぼ同時期に、福王寺の末寺として開かれました。
本文「歴史と背景」を読む - 「隣浦庵」とは何ですか?
-
林宝院の江戸時代初めの呼び名です。発掘調査報告書や郷土資料に「隣浦庵(のち林宝院)」と記されており、当初は庵として営まれ、のちに院号を称して林宝院となったとみられます。改称の時期は現時点では確認できていません。
本文「歴史と背景」を読む - 伊奈忠次の手形とは何ですか?
-
慶長9年(1604年)に徳川家康の代官頭・伊奈忠次から林宝院へ交付された文書で、『静岡県史料 第5輯』に松平親茂添状とともに収録されています。手形には村名が「貝塚村」と記されており、江戸幕府成立直後の寺の存在を示す史料です。
本文「文化財・見どころ」を読む - 除地とは何ですか?
-
江戸時代に年貢を免除された土地のことです。林宝院は除地3石を有し、幕末から明治初年の『旧高旧領取調帳』にも「林宝院領3石」と記録されています。小さな寺領が村の寺の維持を支えていました。
本文「歴史と背景」を読む - 近くの永福寺との関係は?
-
永福寺(西貝塚1519番地の1)は林宝院と同じ福王寺の末寺で、永正元年(1504年)の開創です。林宝院の開創(永正16年)とほぼ同時期に当たります。両寺の塔頭・末寺関係の有無など、直接のつながりの詳細は確認中です。
本文「地域とのつながり」を読む - 学校と関係があったと聞きましたが?
-
明治22年(1889年)4月15日、林宝院を教室として西貝尋常小学校が創立され、それまで鎌田校に通っていた西貝塚・西之島と、大原学校に通っていた上南田の児童を収容しました(『静岡県磐田郡誌』による)。地域の近代教育の出発点となった寺で、現在も磐田東小学校にほど近い場所にあります。
本文「地域とのつながり」を読む - 西貝塚遺跡とはどんな関係ですか?
-
『磐田市誌 上巻』によれば、縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡である西貝塚遺跡の範囲は林宝院・須賀神社境内一帯にも達するとされます。境内地そのものが先史時代以来の遺跡の上に立っています。
本文「文化財・見どころ」を読む - 福王寺とはどんな関係ですか?
-
福王寺が本寺で、林宝院はその末寺です。福王寺は文安元年(1444年)に曹洞宗へ改宗したと伝わる古刹で、江戸時代の西貝塚周辺では福王寺を核に永福寺・林宝院・東昌寺が末寺として連なっていました。
本文「地域とのつながり」を読む
08
写真で見る境内
09
出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9124。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 郷土資料 静岡県磐田郡誌(磐田郡教育会編、大正10年)寺院由緒「林寳院(西貝村)」
コマ453。西浦山・福王寺末・本尊地蔵菩薩・永正16年嶺宗開創の由緒を確認。西貝尋常小学校の創立(明治22年4月15日・林宝院を教室に西貝塚・西之島・上南田の児童を収容)はコマ285で確認
- 郷土資料 日本歴史地名大系「西貝塚村」(平凡社、コトバンク)
慶長9年林宝院宛伊奈忠次手形(村名「貝塚村」)、慶長8年の福王寺宛徳川家康寺領寄付朱印状写、西貝塚村が山名郡に属したことを確認
- 辞典類 日本大百科全書ほか「伊奈忠次」(コトバンク)
伊奈忠次(1550年〜1610年)が徳川家康の代官頭で、検地・治水・新田開発に事績を残し「伊奈流」が幕府農政の基礎となったことを確認
- 学術資料 野口・マカダ近世墳墓群遺跡発掘調査報告書(磐田市埋蔵文化財センター、1998年)
「隣浦庵(のち林宝院)」の記載。江戸時代初めの西貝塚の寺院として福王寺・隣浦庵・永福寺・長泉庵を列挙
- 郷土資料 東海道見付宿の助郷(清水秀明編著、1990年)西貝塚村の項
隣浦庵(のち林宝院)除地3石
- 郷土資料 静岡県史料 第5輯(静岡県編、昭和16年)
林寳院文書(慶長9年伊奈忠次手形・松平親茂添状)収録
- 郷土資料 旧高旧領取調帳 中部編(木村礎校訂)
西貝塚村 林宝院領3.000石
- 郷土資料 磐田市誌 上巻(磐田市誌編纂執筆委員会編、1954年)
西貝塚遺跡(縄文後期〜晩期の貝塚群)が磐田東小学校北の林宝院・須賀神社境内一帯に達するとの記述
- 寺院公式情報 遠州三十三観音霊場公式サイト「福王寺(磐田市城之崎・18番札所)」
本寺・福王寺の縁起(1000年余り前の高野山末寺としての建立、文安元年〈1444年〉の天翁義一禅師による曹洞宗改宗、永観2年〈984年〉の安倍清明祈祷と山号風祭山の由来、毎年3月8日の風祭り)を確認(本寺の背景として使用)
- 神社公式情報 鎌田神明宮 公式サイト「御由緒」
鎌田御厨が寛平2年(890年)に伊勢神宮の領地として寄進されたとする社伝、19の村々からの貢納、鎌田神明宮が御厨の総鎮守であることを確認(御厨地区の歴史文脈として使用)
- 現地確認 現地確認(2026年7月15日、ATAWI TEMPLE編集部・医王寺境内「坊中学校の跡」説明板)
同じ御厨地区の医王寺境内で、坊中学校(明治8年開校・遠州三大学校)の説明板を確認(御厨地区の寺院と近代教育の文脈として使用)
- 宗派公式資料 林宝院 - 曹洞禅ナビ寺院検索
名称・フリガナ(リンポウイン)・住所(磐田市西貝塚1423)のみ掲載。由緒・本尊・年中行事欄は未記入
For Families
このお寺が菩提寺のご家族へ
菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
- お墓の場所
- 墓地の区画
- 次回の法要
- 仏壇の場所
- 位牌の有無
- お寺からの連絡を受ける人
- お寺の連絡先
- 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
- 実家の名義
- 実家を今後誰が管理するか
Same Area
同じ地区の寺院
Same Sect