福田地区・現存
宗次寺
そうじじ
宗次寺(そうじじ)は、磐田市南島にある曹洞宗の寺院です。天文年間(1532年から1555年)に真言僧が開いた宗寿寺を前身とし、天正16年(1588年)の火災の後、宗次寺と改めて曹洞宗寺院として再興されたと伝わります。磐田郡三十三観音霊場の第33番札所、すなわち巡礼を締めくくる結願所です。
別称・関連名称宗寿寺/及光山宗次寺/老松山/老松山宗次寺
- 寺院名
- 宗次寺
- 地区
- 福田
- 住所
- 静岡県磐田市南島149番地の1
- 宗派
- 曹洞宗
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 宗次寺
- 読み方
- そうじじ
- 地区
- 福田
- 宗派
- 曹洞宗
- ご本尊(資料上)
- 聖観世音菩薩(大正10年刊『静岡県磐田郡誌』による)
- ご本尊の現在の確認状況
- 公開資料で確認済み
- 住所
- 静岡県磐田市南島149番地の1
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 寺院単独の指定文化財は未確認。現地写真で本堂、老松山扁額、馬頭観音堂、石塔・石仏群を確認
- 最終確認日
- 2026.07.13
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 宗次寺
- 宗派
- 曹洞宗
- 本尊
- 聖観世音菩薩(大正10年刊『静岡県磐田郡誌』による)
- 創建
- 天文年間(1532〜1555年)
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市南島149番地の1
- 地区
- 福田
Database 02
沿革
天文年間の開創と宗寿寺
『静岡県磐田郡誌』の寺院各説によれば、宗次寺の前身は、天文年間(1532年から1555年)に密宗(真言宗)の僧南山玄甫が開いた寺で、当初は「宗寿寺」と称しました。戦国時代の遠州南部には、蛭池の寿正寺の前身の地蔵堂や小島の正眼院(旧真言宗)など、真言系の信仰の場が点在しており、宗寿寺もそうした中世的な信仰世界の中で開かれた寺院でした。開山の南山玄甫の事績や、宗寿寺時代の伽藍・寺観を伝える史料は確認できておらず、今後の調査課題です。天文年間といえば、隣村小島の正眼院が真言宗から曹洞宗へ改まる前夜、蛭池ではまだ地蔵堂が守られていた時代であり、旧南御厨村域の3か寺の中では宗次寺(宗寿寺)の開創が最も明確な年代とともに伝えられています。
天正16年(1588年)の火災と曹洞宗再興
『静岡県磐田郡誌』によれば、天正16年(1588年)7月、火災により宗寿寺の堂宇は一時焼失しました。のちに寺号を宗次寺と改め、西貝村福王寺の天初玄祐和尚が曹洞宗寺院として再興したと伝えます。戦国末期から江戸初期の遠州では、曹洞宗の有力寺院の門流が焼失・荒廃した古寺を再興しながら教線を広げており、宗次寺の転宗・再興もその流れに位置づけられます。興味深いのは、江戸時代の地誌・郷帳類が寺領を「宗寿寺領」と旧号のまま記録し続けたことで、『日本歴史地名大系』の南島村の項も「宗寿寺(現曹洞宗宗次寺)領二石」と注記しています。改号後も旧号が公的記録に残り続けたことは、宗寿寺時代からの寺領がそのまま引き継がれたことを示しています。
近世の南島村と寺領2石
『日本歴史地名大系』の南島村の項によれば、南島村は小島村の西に位置し、正保郷帳では田方442石余・畑方26石余の幕府領で、そのうち宗寿寺(宗次寺)領2石が認められていました。元禄期以降は浜松藩領が一部に置かれ、元禄の地方直し以降は旗本本多領が一部に及んで幕末まで続いたとされます。『静岡県磐田郡誌』は宗次寺の所在を「南御厨村南島字東屋敷」と記しています。蛭池の寿正寺領4石、小島の正眼院領20石とあわせてみると、旧南御厨村域の3か寺がいずれも近世を通じて寺領を認められた由緒ある寺院であったことがわかります。宗次寺の2石は3か寺の中では最も小さいものの、幕府領・浜松藩領・旗本領と領主が入り組む村にあって、寺領だけは一貫して除地として扱われ続けました。村の支配がどれほど変転しても菩提寺の基盤は守られたという事実は、近世の村社会における寺の位置を示すものです。
安政の地震と慶応2年(1866年)の再建
『静岡県磐田郡誌』によれば、宗次寺の堂宇は安政元年(1854年)の地震(安政東海地震)で失われ、慶応2年(1866年)に再建されました。安政東海地震は遠州灘沿岸に甚大な被害をもたらし、旧福田町域では蛭池の寿正寺や豊浜中野の西福寺なども倒壊しています。宗次寺の再建が地震から12年を経た幕末の慶応2年であったことは、小さな農村が力を蓄えて菩提寺を建て直すまでの歳月を物語ります。蛭池の寿正寺が同じ地震で倒壊・焼失の後に再建され、下大原の龍法院で安政3年(1856年)に地蔵堂再建の費えを村で出し合った記録が残るように、安政の震災からの寺の復興は旧福田町域の村々に共通する経験でした。南島は明治22年(1889年)以降は磐田郡南御厨村の大字となり、昭和30年(1955年)1月1日の南御厨村分割で小島・蛭池とともに福田町へ編入され、平成17年(2005年)の合併で磐田市の一部となりました。
「老松山」と「及光山」――山号の二つの表記
宗次寺の山号については、資料間に表記差があります。『静岡県磐田郡誌』は「及光山」と記しますが、磐田郡三十三観音霊場の札所資料では第33番を「老松山宗次寺」とし、2026年7月13日の現地写真でも本堂正面の扁額に「老松山」とあることを確認しました。大正期の郡誌と現在の扁額のどちらかが改称の前後を示すのか、あるいは誤記や別称なのかは判断できないため、両方の表記を記録し、寺院資料での確認を今後の課題とします。また、曹洞宗公式ポータル「曹洞禅ナビ」の掲載住所(南島268-18)と法人番号公表データの住所(南島149番地の1)にも地番の差があり、あわせて確認が必要です。
現地写真で確認できる境内
2026年7月13日の現地写真では、正面参道の奥に本堂があり、堂前に石灯籠、周囲に松や刈り込まれた植栽が配置されていることを確認できます。入口側には石仏を納める小堂と門柱があり、墓域側には大型石塔と石灯籠、馬頭観音堂の小祠と石標が残ります。大規模な伽藍ではありませんが、参道・本堂・墓域・観音堂がまとまった村寺らしい構成で、南島の集落の中で祖霊供養と観音信仰を受け止めてきた寺院空間として記録できます。山号扁額「老松山」の名のとおり、松の植栽が境内の景観を特徴づけている点も、山号との関わりを考えるうえで興味深い要素です。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 聖観世音菩薩(大正10年刊『静岡県磐田郡誌』による)
- 宗教的意味
- 宗次寺は坐禅の教えを受け継ぐ曹洞宗に属し、磐田市西貝塚の福王寺を本寺として天正年間に再興されました。『静岡県磐田郡誌』が記す本尊の聖観世音菩薩は観音信仰の基本となるお姿で、当寺は磐田郡三十三観音霊場の第33番、すなわち巡礼を締めくくる結願所です。納めの御詠歌に「南島」の名が詠み込まれており、境内の馬頭観音堂とあわせて、聖観音と馬頭観音という2つの観音への信仰が、農村南島の暮らしに深く根づいてきたことを伝えています。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
本堂と老松山扁額
2026年7月13日の現地写真で、本堂正面に掲げられた山号扁額「老松山」を確認しました。磐田郡三十三観音霊場第33番の札所資料に見える山号と一致します。堂前に石灯籠、周囲に松や刈り込まれた植栽が配され、慶応2年(1866年)の再建以来の法灯を伝える境内の中心です。
馬頭観音堂
墓域の近くに、小祠と「馬頭観音之堂」と刻んだ石標が残ります。馬頭観音は農耕馬や運搬馬の守り仏として近世の農村で広く信仰された尊格で、農業とともに歩んだ南島の暮らしを物語る境内要素です。本尊の聖観世音菩薩と馬頭観音という2つの観音が一つの境内に祀られている点も、観音霊場の結願所である当寺らしい特色です。堂の由来や建立時期は今後の調査課題です。
石仏堂と境内石塔
入口側には石仏を納めた小堂と門柱があり、墓域側には大型の石塔と石灯籠が立ちます。銘文や建立年代の判読は今後の課題ですが、村人の日々の祈りと供養の蓄積を示す石造物群として記録します。石仏を風雨から守る小堂が入口に置かれていることは、寺に参る人びとを最初に迎えるのが身近な石の仏さまであるという、村寺らしい境内の姿を伝えています。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
宗次寺のある南島は、太田川下流域の低地に開けた農業集落です。小島・南島・蛭池の3か村は近世には見付宿の助郷などを通じて結び付き、明治22年(1889年)に磐田郡南御厨村としてまとまり、昭和30年(1955年)の分村合併でそろって福田町域に加わりました。この一帯の曹洞宗3か寺(蛭池の寿正寺・小島の正眼院・南島の宗次寺)はいずれも近世に寺領を認められた寺院で、宗次寺は磐田郡三十三観音霊場の結願所として、福田の観音寺に始まる旧磐田郡域の観音巡礼を締めくくる役割を担ってきました。巡礼者が最後の御詠歌を納める寺が南島の村寺であったことは、この土地の観音信仰の厚みを示しています。また、この霊場の第32番は福田の慶昌寺であり、巡礼路の終盤が旧福田町域に集中していることも、この地域と観音信仰の結び付きの深さを物語ります。
旧福田町域は、福田漁港のしらす漁と別珍・コーデュロイ織物のまちとして知られますが、南島は内陸寄りの農村で、宗次寺の境内に残る馬頭観音堂は、農耕馬とともに田畑を耕した時代の南島の記憶を伝えています。天正の火災、安政の地震と、二度の壊滅から村人が寺を建て直してきた歩みは、宗次寺がこの集落にとって単なる仏堂ではなく、家々の先祖の記憶を預かる場であり続けてきたことを物語ります。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9320
- 民間二次情報宗次寺(磐田市)法人番号検索結果 - opengovjp
国税庁法人番号公表データに基づき、〒437-1209 磐田市南島149番地の1の宗教法人「宗次寺」(法人番号8080405005521、2015年10月5日指定)を本文で確認。
- 郷土資料静岡県磐田郡教育会編『静岡県磐田郡誌』(大正10年刊)684〜685頁(コマ451)
国立国会図書館デジタルコレクション。曹洞宗寺院の部「69 宗次寺(南御厨村)」。及光山・天文年間開創・宗寿寺からの改号・天正16年火災・慶応2年再建を確認
- 郷土資料『日本歴史地名大系』南島村の項(コトバンク)
「宗寿寺(現曹洞宗宗次寺)領二石」の寺領記録と南島村の石高を確認。同項は南島村を磐田郡福田町の区域として立項
- 民間二次情報Wikipedia「福田町 (静岡県)」
昭和30年(1955年)1月1日の南御厨村分割による大字南島・小島・蛭池の福田町編入を確認(従来記載の「旧竜洋町」を訂正)
- 民間二次情報ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第33番=老松山宗次寺(曹洞宗・磐田市南島)を確認。一覧の番地は南島268でDB登録住所(南島149-1)と異なるが、磐田市南島の曹洞宗宗次寺は1か寺のみで同一と判断。納めの御詠歌に「南島」とあり結願所。
- 宗派公式資料宗次寺 - 曹洞禅ナビ寺院検索
名称・フリガナ一致確認。住所は磐田市南島268-18と表示され、既存データ(南島149-1)と地番が異なる。由緒・本尊・年中行事欄は未記入。
- 現地写真現地写真(2026年7月13日添付写真)
本堂正面、山号扁額「老松山」、門前、参道、石仏堂、境内石塔、馬頭観音堂を確認。
最終更新日 2026.07.19
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この寺院について
宗次寺は磐田市南島149番地の1に所在する曹洞宗の寺院です。国税庁の法人番号公表データに基づく法人検索サイトでも、同所在地の宗教法人(法人番号8080405005521)として確認できます。『静岡県磐田郡誌』(大正10年=1921年刊)は山号を及光山、本尊を聖観世音菩薩と記し、西貝村福王寺(現磐田市西貝塚の曹洞宗寺院)の末寺と伝えます。一方、磐田郡三十三観音霊場の札所資料と現地の本堂扁額では山号は「老松山」とされており、資料間で山号の表記が異なります。
前身は天文年間(1532年から1555年)に真言宗の僧南山玄甫が開いた「宗寿寺」で、江戸時代の郷帳類にも「宗寿寺領二石」と旧号で記録されています。天正16年(1588年)の火災による焼失後、寺号を宗次寺と改め、福王寺の天初玄祐和尚が曹洞宗寺院として再興しました。
南島は明治22年(1889年)以降は磐田郡南御厨村の大字で、昭和30年(1955年)の南御厨村分割で福田町域となり、平成17年(2005年)の合併で磐田市の一部となりました。2026年7月13日の現地写真では、本堂正面、山号扁額「老松山」、門前、参道、石仏堂、境内石塔、馬頭観音堂を確認しています。年中行事や檀家組織などの現況は公開資料からは確認できておらず、寺院への直接確認が課題です。
02
歴史と背景
天文年間の開創と宗寿寺
『静岡県磐田郡誌』の寺院各説によれば、宗次寺の前身は、天文年間(1532年から1555年)に密宗(真言宗)の僧南山玄甫が開いた寺で、当初は「宗寿寺」と称しました。戦国時代の遠州南部には、蛭池の寿正寺の前身の地蔵堂や小島の正眼院(旧真言宗)など、真言系の信仰の場が点在しており、宗寿寺もそうした中世的な信仰世界の中で開かれた寺院でした。開山の南山玄甫の事績や、宗寿寺時代の伽藍・寺観を伝える史料は確認できておらず、今後の調査課題です。天文年間といえば、隣村小島の正眼院が真言宗から曹洞宗へ改まる前夜、蛭池ではまだ地蔵堂が守られていた時代であり、旧南御厨村域の3か寺の中では宗次寺(宗寿寺)の開創が最も明確な年代とともに伝えられています。
天正16年(1588年)の火災と曹洞宗再興
『静岡県磐田郡誌』によれば、天正16年(1588年)7月、火災により宗寿寺の堂宇は一時焼失しました。のちに寺号を宗次寺と改め、西貝村福王寺の天初玄祐和尚が曹洞宗寺院として再興したと伝えます。戦国末期から江戸初期の遠州では、曹洞宗の有力寺院の門流が焼失・荒廃した古寺を再興しながら教線を広げており、宗次寺の転宗・再興もその流れに位置づけられます。興味深いのは、江戸時代の地誌・郷帳類が寺領を「宗寿寺領」と旧号のまま記録し続けたことで、『日本歴史地名大系』の南島村の項も「宗寿寺(現曹洞宗宗次寺)領二石」と注記しています。改号後も旧号が公的記録に残り続けたことは、宗寿寺時代からの寺領がそのまま引き継がれたことを示しています。
近世の南島村と寺領2石
『日本歴史地名大系』の南島村の項によれば、南島村は小島村の西に位置し、正保郷帳では田方442石余・畑方26石余の幕府領で、そのうち宗寿寺(宗次寺)領2石が認められていました。元禄期以降は浜松藩領が一部に置かれ、元禄の地方直し以降は旗本本多領が一部に及んで幕末まで続いたとされます。『静岡県磐田郡誌』は宗次寺の所在を「南御厨村南島字東屋敷」と記しています。蛭池の寿正寺領4石、小島の正眼院領20石とあわせてみると、旧南御厨村域の3か寺がいずれも近世を通じて寺領を認められた由緒ある寺院であったことがわかります。宗次寺の2石は3か寺の中では最も小さいものの、幕府領・浜松藩領・旗本領と領主が入り組む村にあって、寺領だけは一貫して除地として扱われ続けました。村の支配がどれほど変転しても菩提寺の基盤は守られたという事実は、近世の村社会における寺の位置を示すものです。
安政の地震と慶応2年(1866年)の再建
『静岡県磐田郡誌』によれば、宗次寺の堂宇は安政元年(1854年)の地震(安政東海地震)で失われ、慶応2年(1866年)に再建されました。安政東海地震は遠州灘沿岸に甚大な被害をもたらし、旧福田町域では蛭池の寿正寺や豊浜中野の西福寺なども倒壊しています。宗次寺の再建が地震から12年を経た幕末の慶応2年であったことは、小さな農村が力を蓄えて菩提寺を建て直すまでの歳月を物語ります。蛭池の寿正寺が同じ地震で倒壊・焼失の後に再建され、下大原の龍法院で安政3年(1856年)に地蔵堂再建の費えを村で出し合った記録が残るように、安政の震災からの寺の復興は旧福田町域の村々に共通する経験でした。南島は明治22年(1889年)以降は磐田郡南御厨村の大字となり、昭和30年(1955年)1月1日の南御厨村分割で小島・蛭池とともに福田町へ編入され、平成17年(2005年)の合併で磐田市の一部となりました。
「老松山」と「及光山」――山号の二つの表記
宗次寺の山号については、資料間に表記差があります。『静岡県磐田郡誌』は「及光山」と記しますが、磐田郡三十三観音霊場の札所資料では第33番を「老松山宗次寺」とし、2026年7月13日の現地写真でも本堂正面の扁額に「老松山」とあることを確認しました。大正期の郡誌と現在の扁額のどちらかが改称の前後を示すのか、あるいは誤記や別称なのかは判断できないため、両方の表記を記録し、寺院資料での確認を今後の課題とします。また、曹洞宗公式ポータル「曹洞禅ナビ」の掲載住所(南島268-18)と法人番号公表データの住所(南島149番地の1)にも地番の差があり、あわせて確認が必要です。
現地写真で確認できる境内
2026年7月13日の現地写真では、正面参道の奥に本堂があり、堂前に石灯籠、周囲に松や刈り込まれた植栽が配置されていることを確認できます。入口側には石仏を納める小堂と門柱があり、墓域側には大型石塔と石灯籠、馬頭観音堂の小祠と石標が残ります。大規模な伽藍ではありませんが、参道・本堂・墓域・観音堂がまとまった村寺らしい構成で、南島の集落の中で祖霊供養と観音信仰を受け止めてきた寺院空間として記録できます。山号扁額「老松山」の名のとおり、松の植栽が境内の景観を特徴づけている点も、山号との関わりを考えるうえで興味深い要素です。
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文化財・見どころ
本堂と老松山扁額
2026年7月13日の現地写真で、本堂正面に掲げられた山号扁額「老松山」を確認しました。磐田郡三十三観音霊場第33番の札所資料に見える山号と一致します。堂前に石灯籠、周囲に松や刈り込まれた植栽が配され、慶応2年(1866年)の再建以来の法灯を伝える境内の中心です。
馬頭観音堂
墓域の近くに、小祠と「馬頭観音之堂」と刻んだ石標が残ります。馬頭観音は農耕馬や運搬馬の守り仏として近世の農村で広く信仰された尊格で、農業とともに歩んだ南島の暮らしを物語る境内要素です。本尊の聖観世音菩薩と馬頭観音という2つの観音が一つの境内に祀られている点も、観音霊場の結願所である当寺らしい特色です。堂の由来や建立時期は今後の調査課題です。
石仏堂と境内石塔
入口側には石仏を納めた小堂と門柱があり、墓域側には大型の石塔と石灯籠が立ちます。銘文や建立年代の判読は今後の課題ですが、村人の日々の祈りと供養の蓄積を示す石造物群として記録します。石仏を風雨から守る小堂が入口に置かれていることは、寺に参る人びとを最初に迎えるのが身近な石の仏さまであるという、村寺らしい境内の姿を伝えています。
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宗派と本尊を知る
宗次寺は坐禅の教えを受け継ぐ曹洞宗に属し、磐田市西貝塚の福王寺を本寺として天正年間に再興されました。『静岡県磐田郡誌』が記す本尊の聖観世音菩薩は観音信仰の基本となるお姿で、当寺は磐田郡三十三観音霊場の第33番、すなわち巡礼を締めくくる結願所です。納めの御詠歌に「南島」の名が詠み込まれており、境内の馬頭観音堂とあわせて、聖観音と馬頭観音という2つの観音への信仰が、農村南島の暮らしに深く根づいてきたことを伝えています。
曹洞宗とは
曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師(1200年〜1253年)が宋(中国)から正伝の仏法を伝え、瑩山禅師が全国へ広めた禅宗の一派です。両禅師を「両祖」と仰ぎ、ご本尊は釈迦牟尼仏です。道元禅師は寛元2年(1244年)に越前(現在の福井県)に永平寺を開き、瑩山禅師の系統からは總持寺(現在は横浜市鶴見区)が興りました。この2か寺を両大本山とし、全国におよそ1万4千か寺を数える大教団です。
教えの中心は「只管打坐」、ただひたすらに坐ることです。坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐る姿そのものが仏のすがたであると説き、掃除や食事といった日々の行いのすべてを修行と捉えます。道元禅師の主著「正法眼蔵」には、その思想が深く説かれています。
檀家の法要では「修証義」や「般若心経」の読誦が親しまれ、葬儀は故人に戒を授けて仏弟子として送る作法に特色があり、戒名にも仏弟子としての意味が込められています。菩提寺で坐禅会や写経会が開かれることも多く、暮らしの中で教えに触れやすい宗派です。
観音菩薩という仏さま
観音菩薩は、正式には観世音菩薩といい、世の人びとの苦しみの声を観じて、ただちに救いに赴くとされる菩薩です。『法華経』の観世音菩薩普門品(観音経)には、相手に応じて33の姿に身を変えて救うと説かれています。その姿は、老人や子ども、僧侶や天女など、救う相手に最もふさわしいものへと臨機応変に変わるとされ、この教えから観音さまは古くから最も広く信仰を集めてきました。
基本の姿である聖観音のほか、あらゆる方向に顔を向けて見守る十一面観音、千の手と眼で漏れなく救いの手を差し伸べる千手観音、憤怒の形相をとる馬頭観音など、多彩な変化観音が生み出され、それぞれの姿で人びとのさまざまな願いに応えてきました。
病気平癒や家内安全など現世のご利益を願う信仰に加え、観音霊場を順に巡る三十三所の巡礼も各地で育まれてきました。地域の観音堂や観音講を通じて、身近な悩みを聞き届けてくださる仏さまとして、今も厚く親しまれています。
05
地域とのつながり
宗次寺のある南島は、太田川下流域の低地に開けた農業集落です。小島・南島・蛭池の3か村は近世には見付宿の助郷などを通じて結び付き、明治22年(1889年)に磐田郡南御厨村としてまとまり、昭和30年(1955年)の分村合併でそろって福田町域に加わりました。この一帯の曹洞宗3か寺(蛭池の寿正寺・小島の正眼院・南島の宗次寺)はいずれも近世に寺領を認められた寺院で、宗次寺は磐田郡三十三観音霊場の結願所として、福田の観音寺に始まる旧磐田郡域の観音巡礼を締めくくる役割を担ってきました。巡礼者が最後の御詠歌を納める寺が南島の村寺であったことは、この土地の観音信仰の厚みを示しています。また、この霊場の第32番は福田の慶昌寺であり、巡礼路の終盤が旧福田町域に集中していることも、この地域と観音信仰の結び付きの深さを物語ります。
旧福田町域は、福田漁港のしらす漁と別珍・コーデュロイ織物のまちとして知られますが、南島は内陸寄りの農村で、宗次寺の境内に残る馬頭観音堂は、農耕馬とともに田畑を耕した時代の南島の記憶を伝えています。天正の火災、安政の地震と、二度の壊滅から村人が寺を建て直してきた歩みは、宗次寺がこの集落にとって単なる仏堂ではなく、家々の先祖の記憶を預かる場であり続けてきたことを物語ります。
06
年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
年中行事の日程や法要・供養の受付については、公開資料で確認できる情報がないため、寺院へ直接確認してください。
磐田郡三十三観音霊場の結願参りで訪れる場合も、法要中は檀家の供養が優先されます。境内では静粛にお参りください。
曹洞禅ナビ掲載住所(南島268-18)と法人番号公表データの住所(南島149番地の1)に差があります。訪問の際は現地の位置を事前に確認してください。
行事の日時・内容は年により変わることがあります。参列を予定する際は事前に寺院へ確認してください。
- 施餓鬼会・彼岸会・盆供養等の年中行事の時期・檀家参列可否
- 馬頭観音堂の縁日・供養行事の有無
- 墓地・永代供養墓・納骨堂の受付状況
- 護持会・世話人会等の檀家組織の有無
- 法事参列者向け駐車場の有無と台数
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
07
よくある質問
- 宗次寺の読み方と山号は?
-
「そうじじ」と読みます。山号は『静岡県磐田郡誌』では及光山、磐田郡三十三観音霊場の札所資料と現地の本堂扁額では老松山とされ、資料間で表記に差があります。両方を記録し、寺院資料での確認を課題としています。
本文「この寺院について」を読む - 宗派と本尊は?
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曹洞宗で、磐田市西貝塚の福王寺を本寺とする末寺でした。『静岡県磐田郡誌』は本尊を聖観世音菩薩と記しています。現在の安置状況は寺院側資料での確認が課題です。
本文「宗派と本尊」を読む - いつ誰が開いたお寺ですか?
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『静岡県磐田郡誌』によれば、天文年間(1532年から1555年)に真言宗の僧南山玄甫が開いて宗寿寺と称し、天正16年(1588年)の火災の後に宗次寺と改めて、福王寺の天初玄祐和尚が曹洞宗寺院として再興したと伝わります。
本文「歴史と背景」を読む - 「宗寿寺」という名前とはどんな関係ですか?
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宗寿寺は当寺の旧号です。江戸時代の郷帳類は改号後も「宗寿寺領二石」と旧号で寺領を記録し続けており、宗寿寺時代からの寺領が引き継がれたことがわかります。
本文「歴史と背景」を読む - 結願所とは何ですか?
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巡礼の最後の札所のことです。宗次寺は磐田郡三十三観音霊場の第33番札所で、福田の観音寺(第1番)に始まる巡礼をここで締めくくります。納めの御詠歌には「南島」の名が詠み込まれています。
本文「宗派と本尊」を読む - 馬頭観音堂とは?
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境内の墓域近くに残る小祠で、石標に「馬頭観音之堂」とあります。馬頭観音は農耕馬の守り仏として農村で信仰された尊格で、農業集落南島の歴史を伝えています。由来は調査中です。
本文「文化財・見どころ」を読む - 地震の被害を受けたことはありますか?
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安政元年(1854年)の安政東海地震で堂宇が失われ、12年後の慶応2年(1866年)に再建されたと『静岡県磐田郡誌』は記しています。それ以前の天正16年(1588年)には火災でも焼失しており、現在の境内は二度の壊滅を乗り越えて受け継がれてきたものです。
本文「歴史と背景」を読む - 住所の表記が資料によって違うのはなぜですか?
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法人番号公表データでは南島149番地の1、曹洞禅ナビでは南島268-18と地番に差があります。磐田市南島の曹洞宗宗次寺は1か寺のみで同一寺院と判断していますが、地番の確認は今後の課題です。
本文「この寺院について」を読む
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写真で見る境内
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出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9320。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 郷土資料 静岡県磐田郡教育会編『静岡県磐田郡誌』(大正10年刊)684〜685頁(コマ451)
国立国会図書館デジタルコレクション。曹洞宗寺院の部「69 宗次寺(南御厨村)」。及光山・福王寺末・本尊聖観世音菩薩・天文年間南山玄甫開創・宗寿寺旧号・天正16年火災・天初玄祐再興・安政元年地震・慶応2年再建・所在字東屋敷を確認
- 郷土資料 『日本歴史地名大系』南島村の項(コトバンク)
「宗寿寺(現曹洞宗宗次寺)領二石」の寺領記録のほか、2026年7月19日の再確認で南島村が小島村の西に位置すること、正保郷帳の田方442石余・畑方26石余・幕府領、元禄期以降の浜松藩領・旗本本多領の分郷を確認
- 民間二次情報 宗次寺(磐田市)法人番号検索結果 - opengovjp
国税庁法人番号公表データに基づき、磐田市南島149番地の1の宗教法人「宗次寺」(法人番号8080405005521)を確認(既存出典を引き継ぎ)
- 民間二次情報 Wikipedia「福田町 (静岡県)」
昭和30年(1955年)1月1日の南御厨村分割による大字南島・小島・蛭池の福田町編入を確認(発見用の既存出典を引き継ぎ)
- 民間二次情報 ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第33番=老松山宗次寺(曹洞宗・磐田市南島)を確認。納めの御詠歌に「南島」とあり結願所。一覧の番地(南島268)はDB登録住所と異なるが、磐田市南島の曹洞宗宗次寺は1か寺のみで同一と判断(既存出典を引き継ぎ)
- 宗派公式資料 宗次寺 - 曹洞禅ナビ寺院検索
名称・フリガナ一致確認。住所は磐田市南島268-18と表示され、法人番号公表データ(南島149-1)と地番が異なる。由緒・本尊・年中行事欄は未記入(既存出典を引き継ぎ。2026年7月19日時点でサイト接続不可のため再確認は未了)
- 郷土資料 『日本歴史地名大系』小島村の項(コトバンク)
隣村小島村の正保郷帳における正眼院領20石を確認(旧南御厨村域3か寺の寺領比較の文脈として使用)
- 郷土資料 『日本歴史地名大系』蛭池村の項(コトバンク)
隣村蛭池村の寿正寺領(寺2石・薬師2石)と見付宿助郷を確認(旧南御厨村域3か寺の寺領比較の文脈として使用)
- 行政・公的資料 シラス|磐田市公式ウェブサイト
旧福田町域の福田漁港でしらす漁が盛んであることを確認(地区の文脈として使用)
- 民間二次情報 コーデュロイ・別珍の静岡・天龍社産地|繊研新聞
磐田市(福田)を含む天龍社産地が別珍・コーデュロイの産地であることを確認(地区の文脈として使用)
- 現地写真 現地写真(2026年7月13日添付写真)
本堂正面、山号扁額「老松山」、門前、参道、石仏堂、境内石塔、馬頭観音堂を確認(既存出典を引き継ぎ)
For Families
このお寺が菩提寺のご家族へ
菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
- お墓の場所
- 墓地の区画
- 次回の法要
- 仏壇の場所
- 位牌の有無
- お寺からの連絡を受ける人
- お寺の連絡先
- 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
- 実家の名義
- 実家を今後誰が管理するか
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