福田地区・現存
寿正寺
じゅしょうじ
寿正寺(じゅしょうじ)は、磐田市蛭池にある曹洞宗の寺院で、松龍山と号します。慶長9年(1604年)に松秀寺の耕翁盛舜和尚を開祖に請じて再興されたと伝わり、近世には寺領4石と末寺2か寺を持つ法地格の寺院でした。遠江四十九薬師霊場の第44番札所です。市内草崎の同名寺院「壽正寺」とは別の寺院です。
別称・関連名称壽正寺/松龍山寿正寺/松龍山壽正寺
- 寺院名
- 寿正寺
- 地区
- 福田
- 住所
- 静岡県磐田市蛭池230番地
- 宗派
- 曹洞宗
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 寿正寺
- 読み方
- じゅしょうじ
- 地区
- 福田
- 宗派
- 曹洞宗
- ご本尊(資料上)
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』大正10年による。現況は要確認)
- ご本尊の現在の確認状況
- 公開資料で確認済み
- 住所
- 静岡県磐田市蛭池230番地
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 本堂と参道・入口石標/境内小堂と石造物
- 最終確認日
- 2026.07.18
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 寿正寺
- 宗派
- 曹洞宗
- 本尊
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』大正10年による。現況は要確認)
- 創建
- 慶長9年(1604年)中興開山(前身の地蔵堂はそれ以前から存在)
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市蛭池230番地
- 地区
- 福田
Database 02
沿革
前身の地蔵堂と平重盛の伝承
『静岡県磐田郡誌』によれば、寿正寺の草創以前、この地には住僧のない一宇の地蔵堂があり、堂宇は荒廃していました。この地蔵堂がいつからあったのかを直接伝える史料は確認できていませんが、同郡誌の神社の章(蛭池の六所神社の項)には「伝へ云ふ、当村寿正寺は小松内大臣重盛より寺領三百石を賜はりし」という伝承が紹介されています。小松内大臣とは平清盛の嫡男・平重盛のことで、安元年間(1175年から1177年)に関わる文脈で語られており、寿正寺の前身が平安時代末期にさかのぼるとする言い伝えです。あくまで伝承であり、史料で確認できる沿革は慶長期の再興以降ですが、再興以前から地蔵堂が存在したという記述とあわせて、蛭池の地の信仰の場としての古さを示唆しています。
慶長9年(1604年)の再興と耕翁盛舜
『静岡県磐田郡誌』の寺院各説によれば、慶長9年(1604年)、西浅羽村松秀寺の耕翁盛舜和尚が住職の位を退いて郡内の中村に隠栖し、近隣の教化に努めていることを聞いた蛭池の村の有志が、旧来の地蔵堂を修理して一寺の再興を図り、盛舜がその求めに応じて興復の開祖となりました。慶長12年(1607年)には諸堂伽藍が建立されています。本寺の松秀寺は文亀元年(1501年)創建と伝わる曹洞宗の古刹で、慶長2年(1597年)に徳川家康から朱印12石を拝領した遠州南部の有力寺院です。盛舜は寿正寺再興の翌年の慶長10年(1605年)に豊浜中野の西福寺も開創しており、江戸時代初頭の遠州南部で布教した松秀寺系の禅僧として、この地域の寺院網の形成に大きな足跡を残しました。盛舜は寛永元年(1624年)4月20日に示寂し、盛易が第2世を継ぎました。
境内薬師堂と薬師霊場
『静岡県磐田郡誌』によれば、境内の薬師堂は、もとは村内の字中曽根にあって武田・徳川両軍の争乱の兵火で荒廃したものを、開山盛舜の志願によって境内に移したと伝えます。元亀から天正年間(1570年代)の遠州は武田氏と徳川氏の争奪の場となり、磐田市域の多くの寺社が兵火に遭っており、蛭池の薬師堂もその戦禍の記憶を伝えるものです。『日本歴史地名大系』の蛭池村の項に「寿正寺領二石・薬師領二石」とみえるように、近世には薬師堂も独自の堂領を認められていました。この薬師信仰を受け継いで、寿正寺は遠江四十九薬師霊場の第44番札所となっています。同霊場の一覧では「松龍山寿正寺(曹洞宗・磐田市蛭池)」と記載され、草崎の同名寺院ではなく当寺であることが所在地から確認できます。
近世の寺領4石と本末関係
近世の寿正寺は寺領を有する寺院でした。『元禄高帳による元禄期遠江国石高表』(磐田市誌編纂室、1976年)では蛭池村高357石余のうち寿正寺領4石が除かれており、『東海道見付宿の助郷』(清水秀明編著、1990年)も山名郡蛭池村の寺院として「寺領四石の曹洞宗寿正寺・同江上庵」を挙げています。『日本歴史地名大系』の記す「寿正寺領二石・薬師領二石」は、この4石の内訳が寺と薬師堂の各2石であったことを示すとみられます。また『磐田市史』通史編中巻(近世)は、本末制の解説の中で寿正寺を取り上げ、貞享3年(1686年)の史料からその経済の一端を紹介しています。『可睡斎史料集』第4巻(僧録司文書)には、蛭池村寿正寺が本寺である戸場野村(西浅羽)松秀寺の代理として、遠州僧録司の可睡斎へ出頭した記録も残り、当寺が松秀寺門流の中で本寺の名代を務めるほどの位置にあったことがうかがえます。寿正寺自身も末寺を持ち、『静岡県磐田郡誌』によれば福島村中島の長泉寺(瑞光山・薬師如来)と福島村下太の常楽寺(青陽山・阿弥陀如来)がその末寺で、常楽寺は寛永2年(1625年)に第2世盛易を開祖に請じて建てられました。
近世蛭池村の暮らしと寺
『日本歴史地名大系』の蛭池村の項によれば、蛭池村は現在の旧福田町域の最北端に位置し、村高は田方298石余・畑方44石余で、ほかに耕し手の足りない手余地が100石余もあったと記されています。東海道見付宿の助郷も勤め、文政2年(1819年)には村が困窮して百姓の補充を願い出た記録も残ります。決して豊かとはいえない農村でしたが、そうした中でも寿正寺領4石は江戸時代を通じて維持され、村人は宝永・安政の二度の震災のたびに堂宇を建て直しました。村の暮らしがどれほど苦しくとも菩提寺を守り続けたという事実そのものが、蛭池の人びとにとって寿正寺が何であったかを物語っています。
二度の大地震と再建
『静岡県磐田郡誌』によれば、寿正寺の堂宇は宝永4年(1707年)の宝永地震で倒壊して再建され、安政元年(1854年)の安政東海地震では再び倒壊したうえ火災で灰燼に帰しました。その後に造営された堂宇が大正期まで存続していたと同誌は記しています。遠州灘に近い旧福田町域の寺院はこの二度の大地震でほぼ軒並み被災しており、寿正寺の倒壊と再建の記録は、村の家々が檀那寺を建て直し続けてきた歩みを伝えるものです。『福田町史』資料編民俗も、蛭池の寿正寺について松龍山と号し松秀寺の末寺であることを記し、同書が引く『南御厨村誌』は創立年歴を不明としています。近代以降の蛭池は南御厨村、そして昭和30年(1955年)からは福田町域となり、寿正寺は現在も磐田市蛭池の菩提寺として法灯を継いでいます。同じ盛舜の系譜に連なる豊浜中野の西福寺が現在は廃寺となっているのに対し、寿正寺が末寺の長泉寺(福田中島)とともに今も法灯を保っていることは、盛舜以来420年余りの松秀寺門流の歴史を蛭池の地で受け継いでいることを意味します。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』大正10年による。現況は要確認)
- 宗教的意味
- 寿正寺は坐禅の教えを受け継ぐ曹洞宗に属し、袋井市の松秀寺を本寺として再興された寺院です。『静岡県磐田郡誌』が記す本尊の地蔵菩薩は、再興以前からこの地にあった地蔵堂の信仰を受け継ぐものです。あわせて境内には戦国の兵火を逃れて移された薬師堂の系譜があり、遠江四十九薬師霊場第44番札所として、地蔵と薬師という暮らしに最も身近な二つの仏さまへの信仰を一つの境内で守り続けてきました。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
本堂と参道・入口石標
2026年7月18日の現地写真で、入口の石標から参道を経て本堂に至る境内の構えを確認しました。指定文化財ではありませんが、宝永・安政の二度の大地震からの再建を経て受け継がれてきた堂宇であり、蛭池の集落の祈りの中心であり続けてきた寺院空間です。
境内小堂と石造物
境内には小堂と石造物が残り、現地写真で確認できます。郡誌が伝える薬師堂(字中曽根から移された堂)との関係を含め、堂の名称や石造物の銘文・造立年代の判読は今後の課題ですが、地蔵と薬師という二つの信仰を受け継いできた当寺の歴史を物語る要素として記録します。
蓮のある境内景観
現地写真では、夏の境内に蓮が花を咲かせる景観を確認しました。泥中から清らかな花を開く蓮は仏教で浄土の象徴とされ、お盆の時期の境内に彩りを添えています。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
寿正寺のある蛭池は、太田川下流域の低地に開けた集落です。蛭池・南島・小島の3か村は近世には山名郡に属し、東海道見付宿の助郷を勤めるなど街道とも結び付きながら、明治22年(1889年)に磐田郡南御厨村としてまとまり、昭和30年(1955年)の分村合併でそろって福田町域に加わりました。この一帯には、蛭池の寿正寺、南島の宗次寺、小島の正眼院と曹洞宗寺院が並びますが、寿正寺はそのうち松秀寺門流の中核として、中島の長泉寺・下太の常楽寺という末寺を従え、本寺の名代で僧録司可睡斎に出頭するほどの寺格を保ちました。村の名を冠した「寿正寺領」が江戸時代の郷帳に載り続けたことは、この寺が蛭池の村落そのものと分かちがたく歩んできたことを示しています。
旧福田町域は、2隻の船で網を曳く船曳網漁法によるしらす漁が盛んな福田漁港と、国内生産の95%を占めるとされる別珍・コーデュロイ織物の産地として知られるまちですが、蛭池はその内陸寄りに位置する農業集落で、寿正寺は田畑とともに生きた家々の菩提寺であり続けてきました。平重盛の寺領寄進伝承、戦国の兵火をくぐった薬師堂、宝永・安政の地震からの再建と、この寺に積み重なった記憶は、そのまま蛭池の土地の歴史でもあります。檀家や地域の方が寺の由緒に触れることは、村の先人たちが何を守り伝えようとしてきたかを知ることにつながります。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9332
- 民間二次情報卍壽正寺|静岡県磐田市 - 八百万の神
宗派=曹洞宗、所在地=磐田市蛭池230を本文で確認。同サイトの磐田市一覧に草崎691-1の同名「壽正寺」が別に掲載されている点も確認。
- 郷土資料『静岡県磐田郡誌』静岡県磐田郡教育会編、大正10年(第13章 寺院各説66「寿正寺」、神社の章366コマに重盛伝承)
国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開)。450コマに由緒本文
- 郷土資料『福田町史』資料編民俗(福田町史編さん委員会編、1999年)寺院の章
国立国会図書館デジタルコレクション全文検索のスニペット(156コマ)で松龍山・松秀寺末・『南御厨村誌』引用を確認
- 郷土資料日本歴史地名大系「蛭池村」(コトバンク)
「寿正寺領二石・薬師領二石」の記載
- 民間二次情報ニッポンの霊場 遠江四十九薬師霊場
第44番=松龍山寿正寺(曹洞宗・磐田市蛭池)を確認。草崎の壽正寺(別寺院)ではなく蛭池の寿正寺であることを住所で確認。
- 民間二次情報寿正寺 - Omairi
寺院の実在・所在確認のみ。本文はアクセス不可(403)で詳細未取得。
- 民間二次情報静岡県磐田市蛭池の街情報|カーセンサー
磐田市蛭池230、電話0538-55-4976との記載。地域概要の一部としての言及で、行事・墓地情報なし。
- 寺院公式情報曹洞禅ナビ 寺院検索
「寿正寺」名での個別ページを検索したが該当ページを確認できず。
- 民間二次情報磐田市(静岡県)の寺院墓地|寺院墓地.com
掲載墓地一覧に寿正寺は含まれず。
- 宗派公式資料壽正寺 - 曹洞禅ナビ寺院検索
名称(壽正寺、既存aliasesの表記と一致)・フリガナ(ジュショウジ)・住所(磐田市蛭池230)一致確認。由緒・本尊・年中行事欄は未記入。
最終更新日 2026.07.19
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01
この寺院について
寿正寺は磐田市蛭池230番地に所在する曹洞宗の寺院です。旧字体で「壽正寺」とも書き、山号は松龍山、『静岡県磐田郡誌』(大正10年=1921年刊)は本尊を地蔵菩薩と記しています。西浅羽村松秀寺(現在の袋井市富里にある曹洞宗寺院)の末寺で、寺格は法地格に列し、自らも中島の長泉寺と下太の常楽寺という2つの末寺を持つ、旧南御厨村域の中核的な寺院でした。
注意すべき点として、磐田市内には草崎691番地の1にも同名の「壽正寺」(旧長野村草崎、山号は瑞応山)が存在します。当寺(蛭池・松龍山)とは別の寺院であり、資料やWeb情報を参照する際には山号と所在地での確認が必要です。曹洞宗公式ポータル「曹洞禅ナビ」にも両寺が別々に登録されています。
蛭池村は江戸時代には山名郡に属し、明治22年(1889年)以降は磐田郡南御厨村、昭和30年(1955年)の南御厨村分割で福田町域となり、平成17年(2005年)の合併で磐田市の一部となりました。2026年7月18日の現地写真では、本堂正面、入口石標、参道、境内小堂、石造物、蓮のある境内景観を確認しています。
02
歴史と背景
前身の地蔵堂と平重盛の伝承
『静岡県磐田郡誌』によれば、寿正寺の草創以前、この地には住僧のない一宇の地蔵堂があり、堂宇は荒廃していました。この地蔵堂がいつからあったのかを直接伝える史料は確認できていませんが、同郡誌の神社の章(蛭池の六所神社の項)には「伝へ云ふ、当村寿正寺は小松内大臣重盛より寺領三百石を賜はりし」という伝承が紹介されています。小松内大臣とは平清盛の嫡男・平重盛のことで、安元年間(1175年から1177年)に関わる文脈で語られており、寿正寺の前身が平安時代末期にさかのぼるとする言い伝えです。あくまで伝承であり、史料で確認できる沿革は慶長期の再興以降ですが、再興以前から地蔵堂が存在したという記述とあわせて、蛭池の地の信仰の場としての古さを示唆しています。
慶長9年(1604年)の再興と耕翁盛舜
『静岡県磐田郡誌』の寺院各説によれば、慶長9年(1604年)、西浅羽村松秀寺の耕翁盛舜和尚が住職の位を退いて郡内の中村に隠栖し、近隣の教化に努めていることを聞いた蛭池の村の有志が、旧来の地蔵堂を修理して一寺の再興を図り、盛舜がその求めに応じて興復の開祖となりました。慶長12年(1607年)には諸堂伽藍が建立されています。本寺の松秀寺は文亀元年(1501年)創建と伝わる曹洞宗の古刹で、慶長2年(1597年)に徳川家康から朱印12石を拝領した遠州南部の有力寺院です。盛舜は寿正寺再興の翌年の慶長10年(1605年)に豊浜中野の西福寺も開創しており、江戸時代初頭の遠州南部で布教した松秀寺系の禅僧として、この地域の寺院網の形成に大きな足跡を残しました。盛舜は寛永元年(1624年)4月20日に示寂し、盛易が第2世を継ぎました。
境内薬師堂と薬師霊場
『静岡県磐田郡誌』によれば、境内の薬師堂は、もとは村内の字中曽根にあって武田・徳川両軍の争乱の兵火で荒廃したものを、開山盛舜の志願によって境内に移したと伝えます。元亀から天正年間(1570年代)の遠州は武田氏と徳川氏の争奪の場となり、磐田市域の多くの寺社が兵火に遭っており、蛭池の薬師堂もその戦禍の記憶を伝えるものです。『日本歴史地名大系』の蛭池村の項に「寿正寺領二石・薬師領二石」とみえるように、近世には薬師堂も独自の堂領を認められていました。この薬師信仰を受け継いで、寿正寺は遠江四十九薬師霊場の第44番札所となっています。同霊場の一覧では「松龍山寿正寺(曹洞宗・磐田市蛭池)」と記載され、草崎の同名寺院ではなく当寺であることが所在地から確認できます。
近世の寺領4石と本末関係
近世の寿正寺は寺領を有する寺院でした。『元禄高帳による元禄期遠江国石高表』(磐田市誌編纂室、1976年)では蛭池村高357石余のうち寿正寺領4石が除かれており、『東海道見付宿の助郷』(清水秀明編著、1990年)も山名郡蛭池村の寺院として「寺領四石の曹洞宗寿正寺・同江上庵」を挙げています。『日本歴史地名大系』の記す「寿正寺領二石・薬師領二石」は、この4石の内訳が寺と薬師堂の各2石であったことを示すとみられます。また『磐田市史』通史編中巻(近世)は、本末制の解説の中で寿正寺を取り上げ、貞享3年(1686年)の史料からその経済の一端を紹介しています。『可睡斎史料集』第4巻(僧録司文書)には、蛭池村寿正寺が本寺である戸場野村(西浅羽)松秀寺の代理として、遠州僧録司の可睡斎へ出頭した記録も残り、当寺が松秀寺門流の中で本寺の名代を務めるほどの位置にあったことがうかがえます。寿正寺自身も末寺を持ち、『静岡県磐田郡誌』によれば福島村中島の長泉寺(瑞光山・薬師如来)と福島村下太の常楽寺(青陽山・阿弥陀如来)がその末寺で、常楽寺は寛永2年(1625年)に第2世盛易を開祖に請じて建てられました。
近世蛭池村の暮らしと寺
『日本歴史地名大系』の蛭池村の項によれば、蛭池村は現在の旧福田町域の最北端に位置し、村高は田方298石余・畑方44石余で、ほかに耕し手の足りない手余地が100石余もあったと記されています。東海道見付宿の助郷も勤め、文政2年(1819年)には村が困窮して百姓の補充を願い出た記録も残ります。決して豊かとはいえない農村でしたが、そうした中でも寿正寺領4石は江戸時代を通じて維持され、村人は宝永・安政の二度の震災のたびに堂宇を建て直しました。村の暮らしがどれほど苦しくとも菩提寺を守り続けたという事実そのものが、蛭池の人びとにとって寿正寺が何であったかを物語っています。
二度の大地震と再建
『静岡県磐田郡誌』によれば、寿正寺の堂宇は宝永4年(1707年)の宝永地震で倒壊して再建され、安政元年(1854年)の安政東海地震では再び倒壊したうえ火災で灰燼に帰しました。その後に造営された堂宇が大正期まで存続していたと同誌は記しています。遠州灘に近い旧福田町域の寺院はこの二度の大地震でほぼ軒並み被災しており、寿正寺の倒壊と再建の記録は、村の家々が檀那寺を建て直し続けてきた歩みを伝えるものです。『福田町史』資料編民俗も、蛭池の寿正寺について松龍山と号し松秀寺の末寺であることを記し、同書が引く『南御厨村誌』は創立年歴を不明としています。近代以降の蛭池は南御厨村、そして昭和30年(1955年)からは福田町域となり、寿正寺は現在も磐田市蛭池の菩提寺として法灯を継いでいます。同じ盛舜の系譜に連なる豊浜中野の西福寺が現在は廃寺となっているのに対し、寿正寺が末寺の長泉寺(福田中島)とともに今も法灯を保っていることは、盛舜以来420年余りの松秀寺門流の歴史を蛭池の地で受け継いでいることを意味します。
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文化財・見どころ
本堂と参道・入口石標
2026年7月18日の現地写真で、入口の石標から参道を経て本堂に至る境内の構えを確認しました。指定文化財ではありませんが、宝永・安政の二度の大地震からの再建を経て受け継がれてきた堂宇であり、蛭池の集落の祈りの中心であり続けてきた寺院空間です。
境内小堂と石造物
境内には小堂と石造物が残り、現地写真で確認できます。郡誌が伝える薬師堂(字中曽根から移された堂)との関係を含め、堂の名称や石造物の銘文・造立年代の判読は今後の課題ですが、地蔵と薬師という二つの信仰を受け継いできた当寺の歴史を物語る要素として記録します。
蓮のある境内景観
現地写真では、夏の境内に蓮が花を咲かせる景観を確認しました。泥中から清らかな花を開く蓮は仏教で浄土の象徴とされ、お盆の時期の境内に彩りを添えています。
04
宗派と本尊を知る
寿正寺は坐禅の教えを受け継ぐ曹洞宗に属し、袋井市の松秀寺を本寺として再興された寺院です。『静岡県磐田郡誌』が記す本尊の地蔵菩薩は、再興以前からこの地にあった地蔵堂の信仰を受け継ぐものです。あわせて境内には戦国の兵火を逃れて移された薬師堂の系譜があり、遠江四十九薬師霊場第44番札所として、地蔵と薬師という暮らしに最も身近な二つの仏さまへの信仰を一つの境内で守り続けてきました。
曹洞宗とは
曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師(1200年〜1253年)が宋(中国)から正伝の仏法を伝え、瑩山禅師が全国へ広めた禅宗の一派です。両禅師を「両祖」と仰ぎ、ご本尊は釈迦牟尼仏です。道元禅師は寛元2年(1244年)に越前(現在の福井県)に永平寺を開き、瑩山禅師の系統からは總持寺(現在は横浜市鶴見区)が興りました。この2か寺を両大本山とし、全国におよそ1万4千か寺を数える大教団です。
教えの中心は「只管打坐」、ただひたすらに坐ることです。坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐る姿そのものが仏のすがたであると説き、掃除や食事といった日々の行いのすべてを修行と捉えます。道元禅師の主著「正法眼蔵」には、その思想が深く説かれています。
檀家の法要では「修証義」や「般若心経」の読誦が親しまれ、葬儀は故人に戒を授けて仏弟子として送る作法に特色があり、戒名にも仏弟子としての意味が込められています。菩提寺で坐禅会や写経会が開かれることも多く、暮らしの中で教えに触れやすい宗派です。
地蔵菩薩という仏さま
地蔵菩薩は、お釈迦さまが入滅してから弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間、仏のいない世にあって人びとを救い続けると信じられてきた菩薩です。経典ではその間は56億7000万年に及ぶとも説かれ、地獄をはじめとする六道のすべてをめぐって、苦しむ者に寄り添うと伝えられます。
菩薩でありながら僧侶のような親しみやすい姿で表されるのが特徴で、特に子どもを守る仏として信仰が厚く、京都では江戸時代の初めから、町内ごとにお地蔵さまを囲んで子どもの成長を願う地蔵盆が営まれてきました。この地蔵盆は今も子どもが主役の夏の行事として受け継がれ、2014(平成26)年には「京都をつなぐ無形文化遺産」にも選定されています。
道端や寺の境内にたたずむ石のお地蔵さまに、花や前掛けが供えられている光景は、日本で最も身近な信仰のかたちのひとつでしょう。子育てや子どもの健康、亡き子の供養など、家族の切実な願いを受け止めてくださる仏さまです。
参考: 京都に伝わる地蔵信仰(浄土宗総本山知恩院 公式サイト)/弥勒菩薩の56億7千万年後の救済の出典(レファレンス協同データベース・国立国会図書館)
05
地域とのつながり
寿正寺のある蛭池は、太田川下流域の低地に開けた集落です。蛭池・南島・小島の3か村は近世には山名郡に属し、東海道見付宿の助郷を勤めるなど街道とも結び付きながら、明治22年(1889年)に磐田郡南御厨村としてまとまり、昭和30年(1955年)の分村合併でそろって福田町域に加わりました。この一帯には、蛭池の寿正寺、南島の宗次寺、小島の正眼院と曹洞宗寺院が並びますが、寿正寺はそのうち松秀寺門流の中核として、中島の長泉寺・下太の常楽寺という末寺を従え、本寺の名代で僧録司可睡斎に出頭するほどの寺格を保ちました。村の名を冠した「寿正寺領」が江戸時代の郷帳に載り続けたことは、この寺が蛭池の村落そのものと分かちがたく歩んできたことを示しています。
旧福田町域は、2隻の船で網を曳く船曳網漁法によるしらす漁が盛んな福田漁港と、国内生産の95%を占めるとされる別珍・コーデュロイ織物の産地として知られるまちですが、蛭池はその内陸寄りに位置する農業集落で、寿正寺は田畑とともに生きた家々の菩提寺であり続けてきました。平重盛の寺領寄進伝承、戦国の兵火をくぐった薬師堂、宝永・安政の地震からの再建と、この寺に積み重なった記憶は、そのまま蛭池の土地の歴史でもあります。檀家や地域の方が寺の由緒に触れることは、村の先人たちが何を守り伝えようとしてきたかを知ることにつながります。
06
年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
年中行事の日程や法要の受付については、公開資料で確認できる情報がないため、寺院へ直接確認してください。
遠江四十九薬師霊場の札所参りで訪れる場合も、法要中は檀家の供養が優先されます。境内では静粛にお参りください。
市内草崎にも同名の「壽正寺」があります。法要や墓参の問い合わせの際は、磐田市蛭池230番地の松龍山寿正寺であることを確認してください。
行事の日時・内容は年により変わることがあります。参列を予定する際は事前に寺院へ確認してください。
- 施餓鬼会・彼岸会・盆供養等の年中行事の時期・檀家参列可否
- 境内薬師堂の現存状況と、薬師如来の縁日・御開帳など薬師堂にまつわる行事の有無
- 墓地・永代供養墓・納骨堂の受付状況
- 護持会・世話人会等の檀家組織の有無
- 法事参列者向け駐車場の有無と台数
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
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よくある質問
- 寿正寺の読み方と山号は?
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「じゅしょうじ」と読みます。旧字体で「壽正寺」とも書きます。山号は松龍山です。市内草崎の同名寺院「壽正寺」(瑞応山)とは別の寺院です。
本文「この寺院について」を読む - 宗派と本尊は?
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曹洞宗で、袋井市の松秀寺を本寺とする末寺でした。『静岡県磐田郡誌』は本尊を地蔵菩薩と記しています。現在の安置状況は寺院側資料での確認が課題です。
本文「宗派と本尊」を読む - いつ誰が開いたお寺ですか?
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荒廃していた地蔵堂を村の有志が修理し、慶長9年(1604年)に松秀寺の耕翁盛舜和尚を興復の開祖に請じて再興されたと『静岡県磐田郡誌』は伝えます。慶長12年(1607年)には諸堂伽藍が建立されました。
本文「歴史と背景」を読む - 平重盛との言い伝えとは?
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郡誌の六所神社の項に、寿正寺が小松内大臣(平重盛)から寺領300石を賜ったという伝承が紹介されています。平安末期にさかのぼる言い伝えで、史実としては確認できませんが、寺の前身の古さを示唆する話です。
本文「歴史と背景」を読む - 江戸時代はどんなお寺でしたか?
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寺領4石(寺2石・薬師堂2石)を認められた法地格の寺院で、中島の長泉寺と下太の常楽寺という2つの末寺を持ちました。本寺松秀寺の代理として僧録司可睡斎へ出頭した記録も残ります。蛭池村は手余地を抱え文政2年(1819年)に困窮を願い出るほどの農村でしたが、寺領は幕末まで維持されました。
本文「歴史と背景」を読む - 薬師堂の由来は?
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もとは村内の字中曽根にあり、武田・徳川両軍の争乱の兵火で荒廃した堂を、開山盛舜の志願で境内に移したと郡誌は伝えます。この系譜から当寺は遠江四十九薬師霊場第44番札所となっています。
本文「文化財・見どころ」を読む - 地震の被害を受けたことはありますか?
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宝永4年(1707年)の宝永地震で倒壊して再建され、安政元年(1854年)の安政東海地震では倒壊のうえ火災で焼失し、のちに再建されたと郡誌は記しています。
本文「歴史と背景」を読む - 札所になっていますか?
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遠江四十九薬師霊場の第44番札所です。霊場一覧には「松龍山寿正寺(曹洞宗・磐田市蛭池)」と記載されています。
本文「年中行事・参拝の手引き」を読む
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写真で見る境内
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出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9332。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 郷土資料 『静岡県磐田郡誌』静岡県磐田郡教育会編、大正10年(第13章 寺院各説66「寿正寺」、神社の章366コマに重盛伝承)
国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開)。450コマの由緒本文で地蔵堂前身・慶長9年盛舜再興・慶長12年伽藍建立・盛舜寛永元年示寂・宝永4年と安政元年の倒壊再建・法地格・薬師堂移転・末寺(長泉寺・常楽寺)を、366コマで平重盛寺領300石伝承を確認
- 郷土資料 『福田町史』資料編民俗(福田町史編さん委員会編、1999年)寺院の章
国立国会図書館デジタルコレクション全文検索のスニペット(156コマ)で松龍山・松秀寺末・『南御厨村誌』引用(創立年歴不明)を確認
- 郷土資料 『日本歴史地名大系』蛭池村の項(コトバンク)
「寿正寺領二石・薬師領二石」の寺領記載のほか、2026年7月19日の再確認で蛭池村が旧福田町域最北端に位置すること、田方298石余・畑方44石余・手余地100石余、見付宿助郷、文政2年(1819年)の困窮・百姓補充願いの記録を確認
- 民間二次情報 ニッポンの霊場 遠江四十九薬師霊場
第44番=松龍山寿正寺(曹洞宗・磐田市蛭池)を確認。草崎の壽正寺(別寺院)ではなく蛭池の寿正寺であることを住所で確認(既存出典を引き継ぎ)
- 宗派公式資料 松秀寺(袋井市富里・16番札所)| 遠州三十三観音霊場めぐり
本寺松秀寺について、曹洞宗・文亀元年(1501年)創建・慶長2年(1597年)徳川家康朱印12石拝領・袋井市富里453の所在を2026年7月19日に本文で確認(本寺の文脈として使用)
- 民間二次情報 卍壽正寺|静岡県磐田市 - 八百万の神
宗派=曹洞宗、所在地=磐田市蛭池230を確認。同サイトの磐田市一覧に草崎691-1の同名「壽正寺」が別に掲載されている点も確認(既存出典を引き継ぎ)
- 宗派公式資料 壽正寺 - 曹洞禅ナビ寺院検索
名称(壽正寺)・フリガナ(ジュショウジ)・住所(磐田市蛭池230)一致確認。由緒・本尊・年中行事欄は未記入(既存出典を引き継ぎ。2026年7月19日時点でサイト接続不可のため再確認は未了)
- 民間二次情報 寿正寺 - Omairi
寺院の実在・所在確認のみ(既存出典を引き継ぎ。本文はアクセス不可で詳細未取得)
- 民間二次情報 静岡県磐田市蛭池の街情報|カーセンサー
磐田市蛭池230の所在の傍証として確認(既存出典を引き継ぎ。行事・墓地情報なし)
- 民間二次情報 磐田市(静岡県)の寺院墓地|寺院墓地.com
掲載墓地一覧に寿正寺は含まれないことを確認(既存出典を引き継ぎ)
- 民間二次情報 Wikipedia「福田町 (静岡県)」
昭和30年(1955年)1月1日の南御厨村分割による大字南島・小島・蛭池の福田町編入の確認に使用(発見用として参照)
- 寺院公式情報 曹洞禅ナビ 寺院検索
「寿正寺」名(新字体)での個別ページは確認できず、旧字体「壽正寺」で登録されていることを確認(既存出典を引き継ぎ)
- 行政・公的資料 シラス|磐田市公式ウェブサイト
福田漁港の船曳網漁法によるしらす漁と、水揚げの大部分をしらすが占めることを確認(旧福田町域の文脈として使用)
- 民間二次情報 コーデュロイ・別珍の静岡・天龍社産地|繊研新聞
磐田市(福田)を含む天龍社産地が別珍・コーデュロイの国内生産の95%を占めることを確認(旧福田町域の文脈として使用)
For Families
このお寺が菩提寺のご家族へ
菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
- お墓の場所
- 墓地の区画
- 次回の法要
- 仏壇の場所
- 位牌の有無
- お寺からの連絡を受ける人
- お寺の連絡先
- 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
- 実家の名義
- 実家を今後誰が管理するか
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