竜洋地区・現存

守増寺

しゅぞうじ

ページ充実度 充実 最終確認 2026.07.19

守増寺(しゅぞうじ)は、磐田市豊岡(旧竜洋町域、江戸期の江口村)にある曹洞宗の寺院で、山号は大宝山です。天正15年(1587年)に郷士三浦甚三郎重員を開基、岡の聖寿寺7世全雄を開山として開かれ、江戸時代には朱印寺領13石6斗と7か寺の末寺を有した、この地域の中核的な寺院でした。

別称・関連名称大宝山

寺院名
守増寺
地区
竜洋
住所
静岡県磐田市豊岡2648番地
宗派
曹洞宗

Basic Information

基本情報

ATAWI TEMPLEは各寺院の公式サイトではありません。
寺院名
守増寺
読み方
しゅぞうじ
地区
竜洋
宗派
曹洞宗
ご本尊(資料上)
地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
ご本尊の現在の確認状況
公開資料で確認済み
住所
静岡県磐田市豊岡2648番地
Googleマップ
Googleマップで開く
寺院公式サイト
未確認
電話番号
未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
法要・参拝情報
未確認(寺院へご確認ください)
駐車場情報
確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
アクセス・交通手段
確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
周辺の目印
確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
文化財・特記事項
本堂/磐田郡三十三ヶ所観音霊場第5番
最終確認日
2026.07.11

不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。

法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ

法要や墓参りで帰省される方へ

法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。

結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。

法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。

守増寺の現地写真 1
現地写真・本堂・堂宇
守増寺の現地写真 2
入口・石標
守増寺の現地写真 3
境内全景
守増寺の現地写真 4
石造物・手水
守増寺の現地写真 5
説明板・案内板
守増寺の現地写真 6
その他
宗派曹洞宗
創建・年代天正15年(1587年)2月開創(『静岡県磐田郡誌』による)
本尊地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
墓地調査中
文化財・史跡調査中
所在地竜洋・磐田市

Database 01

寺院概要

山号
調査中(確認できた情報から順次更新します)
院号
調査中(確認できた情報から順次更新します)
寺号
守増寺
宗派
曹洞宗
本尊
地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
創建
天正15年(1587年)2月開創(『静岡県磐田郡誌』による)
開山
調査中(確認できた情報から順次更新します)
開基
調査中(確認できた情報から順次更新します)
所在地
静岡県磐田市豊岡2648番地
地区
竜洋

Database 02

沿革

天正15年の開創と開基・三浦甚三郎重員

『静岡県磐田郡誌』は当寺を「守増寺(掛塚町)」として立項し、「掛塚町豊岡元江口に在り。大寶山と號す。袖浦村岡聖壽寺の末にして、本尊は地藏菩薩なり。天正十五年二月、元吹上村郷士三浦甚三郎重員大寶院殿安心居士の開基にして、聖壽寺第七世全雄開創の道場なり」と記しています。開基の三浦甚三郎重員は吹上村(現磐田市域)の郷士で、その法名「大宝院殿安心居士」が山号の大宝山と対応しています。開山の全雄は、文明10年(1478年)開創の岡の聖寿寺の7世です。天正15年(1587年)は徳川家康の遠江支配が安定した時期にあたり、聖寿寺の法系が天竜川東岸の村々へ末寺を広げていく流れの中で、守増寺はその有力な一角として開かれました。本寺の聖寿寺は文明10年(1478年)に教之一訓大和尚が草庵を結んだことに始まる寺で、天正9年(1581年)の竜沢寺再建勧化帳写にも名がみえる、この地域の曹洞宗の中心でした。同じ天正15年には金洗村に金藏寺も草創されたと『静岡県磐田郡誌』は伝えており、豊岡一帯では天正年間に寺々が相次いで開かれています。

朱印13石6斗と7か寺の末寺

江戸時代の寺院の格を示す指標の一つが、将軍の朱印状によって安堵された寺領、いわゆる朱印地の高です。江戸中期に国学者・内山真龍が著した地誌『遠江国風土記伝』には「守増寺、朱符之寺田高拾三石六斗、末寺七宇、曹洞宗岡村聖壽寺末」とみえ、幕府から朱印地として認められた寺領13石6斗と、7か寺の末寺を有したことがわかります。同書には江口村守増寺の末寺として友泉寺・泉重寺・照善庵・金藏寺(金洗村)などが挙げられ、『静岡県磐田郡誌』でも豊岡元金洗の金藏寺(天正15年草創)と豊岡元西堀の雄照寺(正保2年創立)が守増寺の末寺として立項されています。本寺の聖寿寺から見れば孫末寺にあたる寺々まで含め、守増寺を中心とした小さな本末の網が、江口・金洗・西堀など現在の豊岡地区一帯に広がっていました。寺領13石6斗という規模は、掛塚村の香集寺(2石余)や海老島村の心月寺(2石)と比べても大きく、この地域の曹洞宗寺院の中で守増寺が特別な地位にあったことを示しています。

江戸の寺社行政記録にみえる守増寺

守増寺の名は、江戸幕府の寺社行政に関わる記録にも現れます。僧録司とは、幕府のもとで一定地域の宗門寺院を統括した役職の寺で、遠州の曹洞宗では可睡斎(袋井市久能)がその任にありました。国立国会図書館所蔵の『寺社奉行一件書類』には、天明4年(1784年)にその可睡斎の住職が遷化した際、役僧として守増寺が江戸へ出府した記録がみえます。僧録司の後継に関わる手続きに役僧として関与したことは、守増寺が可睡斎を頂点とする遠州曹洞宗の寺院組織の中で一定の役割を担っていたことを物語ります。また嘉永年間の『吟味伺書進達留』にも、遠州の曹洞宗寺院間の懸案に関わる寺院として名が現れます。さらに昭和4年(1929年)刊の『千郷村史』(愛知県)には、「遠州江口守増寺」に閑居し安政3年(1856年)に示寂した僧の記録もみえ、幕末には他国の僧が晩年を過ごす寺でもあったことがうかがえます。

安政東海地震の被災と再建

嘉永7年=安政元年(1854年)11月4日の安政東海地震では、守増寺も被災しました。歴史地震研究会の会誌『歴史地震』第21号に掲載された寺院被害の研究の付表には「磐田市豊岡 守増寺」が採録され、『ふるさと竜洋』に基づいて、安政元年11月4日の震災により本堂が倒壊したことが記録されています。同研究は守増寺付近の震度を6と推定しています。同研究は、天竜川河口付近東岸の掛塚で全壊被害を受けた寺院が集中したことを指摘し、河口部の後背湿地にあたるため強い揺れになったと推定しています。同じ地震では、本寺の聖寿寺(岡)をはじめ、掛塚の香集寺・満福寺、海老島の心月寺、平間の願成寺など旧竜洋町域のほとんどの寺院が本堂や堂宇の倒壊を経験しており、守増寺の再建も、地域全体の復興の歩みと重なっています。再建の年は現時点では確認できておらず、『ふるさと竜洋』原本での確認が課題です。

近代から現代へ

明治22年(1889年)の町村制施行後、江口を含む豊岡は掛塚町の大字となり、昭和30年(1955年)の合併で竜洋町豊岡、平成17年(2005年)の合併で磐田市豊岡となりました。守増寺は現在も曹洞宗の寺院として静岡県知事所轄の宗教法人名簿に登載され、宗教法人としての法人番号(2015年10月5日指定)も公開されています。曹洞宗公式の寺院ポータル「曹洞禅ナビ」には掲載されていますが、由緒・本尊・年中行事の欄は未記入で、民間サイトには「もりますじ」という読みの表記も見られるため、正式な読みを含めた現況の確認は今後の課題です。かつての末寺のうち金藏寺は現在も磐田市豊岡に法灯を伝えています。大正10年(1921年)刊の『静岡県磐田郡誌』が当寺を「守増寺(掛塚町)」の見出しで立項しているのは、当時の豊岡が掛塚町の大字であったためで、郡誌の見出し一つにも行政区画の変遷が刻まれています。江戸期に13石6斗の朱印高を誇った寺の歴史は、こうした記録の積み重ねによって今日まで確かめることができます。

Database 03

歴代住職

調査中(確認できた情報から順次更新します)

Database 04

本尊

本尊名
地蔵菩薩(『静岡県磐田郡誌』による)
宗教的意味
守増寺は曹洞宗に属し、文明10年(1478年)開創の岡の聖寿寺を本寺とする法系に連なります。開山の全雄は聖寿寺7世で、当寺からさらに金藏寺・雄照寺など7か寺の末寺が分かれました。本尊について『静岡県磐田郡誌』は地蔵菩薩と記しています(現況は確認中です)。磐田郡三十三ヶ所観音霊場第5番の札所でもあり、地蔵信仰と観音巡拝の両方がこの寺に重なってきました。
由来
調査中(確認できた情報から順次更新します)
安置場所
調査中(確認できた情報から順次更新します)

Database 05

寺宝・文化財

境内の見どころ

本堂

『静岡県磐田郡誌』が本尊地蔵菩薩を祀ると記した守増寺の中心堂宇です。歴史地震研究の寺院被害一覧には、安政東海地震(嘉永7年=1854年)で本堂が倒壊したことが『ふるさと竜洋』に基づき採録されており、現在の本堂はその後の再建・修理を経て受け継がれてきたものとみられます。国・県・市の指定文化財は確認されていません。

札所の記憶

磐田郡三十三ヶ所観音霊場第5番

磐田郡三十三ヶ所観音霊場の第5番札所が「大宝山守増寺」です。本寺の聖寿寺(岡)が第4番、平間の願成寺が第6番と、聖寿寺法系の寺々が札番を連ねており、近世以来の観音巡拝の道筋がこの法系に沿って結ばれていたことを伝えています。霊場資料には現在も「大宝山守増寺(曹洞宗・豊岡2648)」として掲載されており、寺名・宗派・住所が当データベースの記録と一致します。

Database 06

年中法要

調査中(確認できた情報から順次更新します)

Database 07

墓地情報

調査中(確認できた情報から順次更新します)

一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。

Database 08

檀家地域

調査中(確認できた情報から順次更新します)

Database 09

地域との関係

守増寺のある豊岡は、江戸時代の江口村・金洗村・西堀村などにあたる天竜川下流東岸の地区です。『日本歴史地名大系』によれば、このうち西堀は、天竜川河口の中洲の村々が洪水から集落を守るために堤防を築いて形づくった「掛塚輪中」八か村の一つに数えられており、豊岡一帯は川と闘いながら開かれてきた土地でした。天竜川河口の掛塚には江戸から明治にかけて大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地・掛塚湊が栄え、天竜川上流から筏で運ばれた木材の積み出しで賑わいました。その歴史は文明17年(1485年)の禅僧万里集九の紀行詩文集『梅花無尽蔵』にまでさかのぼります。守増寺が朱印13石6斗という大きな寺領と7か寺の末寺を維持できた背景には、こうした天竜川の水運がもたらす地域の力がありました。

守増寺を中心とする本末の網は、江口の本寺から金洗の金藏寺、西堀の雄照寺へと、豊岡の集落ごとにお堂を配する形で広がっていました。村々の暮らしに寄り添うこの配置は、明治以降の掛塚町大字豊岡、昭和30年(1955年)以降の竜洋町豊岡、そして平成17年(2005年)以降の磐田市豊岡へと行政の枠組みが変わった後も、地域の菩提寺の分布として今に引き継がれています。愛知県の村史に安政3年(1856年)示寂の閑居僧の記録が残るように、幕末の守増寺は他国の僧が身を寄せる寺でもあり、その包容力もまた、この寺が地域に果たしてきた役割の一面といえます。嘉永7年=安政元年(1854年)の安政東海地震で本堂が倒壊した際にも、村人たちは寺を建て直し、天正以来の法灯を守り継ぎました。災害後の再建も地域史の重要な記録です。

Database 11

出典・更新記録

  1. 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)

    磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9352

  2. 宗派公式資料曹洞禅ナビ 守増寺

    曹洞宗公式ポータルに磐田市豊岡2648の寺院として掲載。フリガナ「シュゾウジ」を本文で確認。山号・本尊・由緒の記載はなし。

  3. 民間二次情報全国寺院ドットコム 守増寺

    静岡県磐田市豊岡2648の曹洞宗寺院として登載されていることを本文で確認。山号・本尊・由緒の記載はなし。

  4. 民間二次情報お寺メイト(サーチ寺院) 静岡県磐田市 守増寺

    宗教法人守増寺の法人番号6080405005507(2015年10月5日指定)、住所磐田市豊岡2648番地、曹洞宗であることを本文で確認。

  5. 郷土資料『静岡県磐田郡誌』静岡県磐田郡編(1921年)第13章 神社及宗教・寺院の部「116 守増寺(掛塚町)」p.696

    国立国会図書館デジタルコレクション(コマ457)。原本画像で由緒全文を確認

  6. 郷土資料『遠江国風土記伝』内山真龍著(郁文舎、1900年)江口村・金洗村等の項

    NDL次世代デジタルライブラリー全文検索で本文断片を確認

  7. 史料『寺社奉行一件書類』第4冊(江戸幕府文書、国立国会図書館蔵)

    天明4年可睡斎住職遷化時に役僧守増寺出府の記事

  8. 郷土資料『千郷村史』第15編(1929年)

    遠州江口守増寺に閑居した僧の記録

  9. 民間二次情報ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場

    第5番=大宝山守増寺(曹洞宗・豊岡2648)を確認。寺名・宗派・住所がDBと一致。

最終更新日 2026.07.19

01

この寺院について

守増寺は磐田市豊岡2648番地、天竜川下流東岸の旧竜洋町域に所在する曹洞宗の寺院です。静岡県知事所轄の宗教法人名簿に登載された宗教法人でもあります。曹洞宗公式の寺院ポータル「曹洞禅ナビ」には磐田市豊岡2648の寺院として掲載され、フリガナは「シュゾウジ」と表記されています。現在の住所の豊岡は、明治期の掛塚町大字豊岡を経て竜洋町豊岡となった地区で、守増寺はそのうち江戸期の江口村にあたる場所に立っています。

大正10年(1921年)刊の『静岡県磐田郡誌』によれば、山号は大宝山、本尊は地蔵菩薩で、袖浦村岡の聖寿寺の末寺です。『竜洋町の寺院巡礼』などに伝わる磐田郡三十三ヶ所観音霊場では第5番札所に数えられ、地域の観音巡拝の一角も担ってきました。

江戸中期の地誌『遠江国風土記伝』には朱印寺領13石6斗・末寺7か寺と記され、末寺の数・寺領の規模とも旧竜洋町域では屈指の寺院でした。江戸幕府の寺社奉行関係文書にもその名が現れるなど、記録の上でも存在感のある寺です。嘉永7年=安政元年(1854年)の安政東海地震では本堂が倒壊しましたが、その後再建され、天正以来の法灯を今に伝えています。

02

歴史と背景

天正15年の開創と開基・三浦甚三郎重員

『静岡県磐田郡誌』は当寺を「守増寺(掛塚町)」として立項し、「掛塚町豊岡元江口に在り。大寶山と號す。袖浦村岡聖壽寺の末にして、本尊は地藏菩薩なり。天正十五年二月、元吹上村郷士三浦甚三郎重員大寶院殿安心居士の開基にして、聖壽寺第七世全雄開創の道場なり」と記しています。開基の三浦甚三郎重員は吹上村(現磐田市域)の郷士で、その法名「大宝院殿安心居士」が山号の大宝山と対応しています。開山の全雄は、文明10年(1478年)開創の岡の聖寿寺の7世です。天正15年(1587年)は徳川家康の遠江支配が安定した時期にあたり、聖寿寺の法系が天竜川東岸の村々へ末寺を広げていく流れの中で、守増寺はその有力な一角として開かれました。本寺の聖寿寺は文明10年(1478年)に教之一訓大和尚が草庵を結んだことに始まる寺で、天正9年(1581年)の竜沢寺再建勧化帳写にも名がみえる、この地域の曹洞宗の中心でした。同じ天正15年には金洗村に金藏寺も草創されたと『静岡県磐田郡誌』は伝えており、豊岡一帯では天正年間に寺々が相次いで開かれています。

朱印13石6斗と7か寺の末寺

江戸時代の寺院の格を示す指標の一つが、将軍の朱印状によって安堵された寺領、いわゆる朱印地の高です。江戸中期に国学者・内山真龍が著した地誌『遠江国風土記伝』には「守増寺、朱符之寺田高拾三石六斗、末寺七宇、曹洞宗岡村聖壽寺末」とみえ、幕府から朱印地として認められた寺領13石6斗と、7か寺の末寺を有したことがわかります。同書には江口村守増寺の末寺として友泉寺・泉重寺・照善庵・金藏寺(金洗村)などが挙げられ、『静岡県磐田郡誌』でも豊岡元金洗の金藏寺(天正15年草創)と豊岡元西堀の雄照寺(正保2年創立)が守増寺の末寺として立項されています。本寺の聖寿寺から見れば孫末寺にあたる寺々まで含め、守増寺を中心とした小さな本末の網が、江口・金洗・西堀など現在の豊岡地区一帯に広がっていました。寺領13石6斗という規模は、掛塚村の香集寺(2石余)や海老島村の心月寺(2石)と比べても大きく、この地域の曹洞宗寺院の中で守増寺が特別な地位にあったことを示しています。

江戸の寺社行政記録にみえる守増寺

守増寺の名は、江戸幕府の寺社行政に関わる記録にも現れます。僧録司とは、幕府のもとで一定地域の宗門寺院を統括した役職の寺で、遠州の曹洞宗では可睡斎(袋井市久能)がその任にありました。国立国会図書館所蔵の『寺社奉行一件書類』には、天明4年(1784年)にその可睡斎の住職が遷化した際、役僧として守増寺が江戸へ出府した記録がみえます。僧録司の後継に関わる手続きに役僧として関与したことは、守増寺が可睡斎を頂点とする遠州曹洞宗の寺院組織の中で一定の役割を担っていたことを物語ります。また嘉永年間の『吟味伺書進達留』にも、遠州の曹洞宗寺院間の懸案に関わる寺院として名が現れます。さらに昭和4年(1929年)刊の『千郷村史』(愛知県)には、「遠州江口守増寺」に閑居し安政3年(1856年)に示寂した僧の記録もみえ、幕末には他国の僧が晩年を過ごす寺でもあったことがうかがえます。

安政東海地震の被災と再建

嘉永7年=安政元年(1854年)11月4日の安政東海地震では、守増寺も被災しました。歴史地震研究会の会誌『歴史地震』第21号に掲載された寺院被害の研究の付表には「磐田市豊岡 守増寺」が採録され、『ふるさと竜洋』に基づいて、安政元年11月4日の震災により本堂が倒壊したことが記録されています。同研究は守増寺付近の震度を6と推定しています。同研究は、天竜川河口付近東岸の掛塚で全壊被害を受けた寺院が集中したことを指摘し、河口部の後背湿地にあたるため強い揺れになったと推定しています。同じ地震では、本寺の聖寿寺(岡)をはじめ、掛塚の香集寺・満福寺、海老島の心月寺、平間の願成寺など旧竜洋町域のほとんどの寺院が本堂や堂宇の倒壊を経験しており、守増寺の再建も、地域全体の復興の歩みと重なっています。再建の年は現時点では確認できておらず、『ふるさと竜洋』原本での確認が課題です。

近代から現代へ

明治22年(1889年)の町村制施行後、江口を含む豊岡は掛塚町の大字となり、昭和30年(1955年)の合併で竜洋町豊岡、平成17年(2005年)の合併で磐田市豊岡となりました。守増寺は現在も曹洞宗の寺院として静岡県知事所轄の宗教法人名簿に登載され、宗教法人としての法人番号(2015年10月5日指定)も公開されています。曹洞宗公式の寺院ポータル「曹洞禅ナビ」には掲載されていますが、由緒・本尊・年中行事の欄は未記入で、民間サイトには「もりますじ」という読みの表記も見られるため、正式な読みを含めた現況の確認は今後の課題です。かつての末寺のうち金藏寺は現在も磐田市豊岡に法灯を伝えています。大正10年(1921年)刊の『静岡県磐田郡誌』が当寺を「守増寺(掛塚町)」の見出しで立項しているのは、当時の豊岡が掛塚町の大字であったためで、郡誌の見出し一つにも行政区画の変遷が刻まれています。江戸期に13石6斗の朱印高を誇った寺の歴史は、こうした記録の積み重ねによって今日まで確かめることができます。

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文化財・見どころ

境内の見どころ

本堂

『静岡県磐田郡誌』が本尊地蔵菩薩を祀ると記した守増寺の中心堂宇です。歴史地震研究の寺院被害一覧には、安政東海地震(嘉永7年=1854年)で本堂が倒壊したことが『ふるさと竜洋』に基づき採録されており、現在の本堂はその後の再建・修理を経て受け継がれてきたものとみられます。国・県・市の指定文化財は確認されていません。

札所の記憶

磐田郡三十三ヶ所観音霊場第5番

磐田郡三十三ヶ所観音霊場の第5番札所が「大宝山守増寺」です。本寺の聖寿寺(岡)が第4番、平間の願成寺が第6番と、聖寿寺法系の寺々が札番を連ねており、近世以来の観音巡拝の道筋がこの法系に沿って結ばれていたことを伝えています。霊場資料には現在も「大宝山守増寺(曹洞宗・豊岡2648)」として掲載されており、寺名・宗派・住所が当データベースの記録と一致します。

04

宗派と本尊を知る

守増寺は曹洞宗に属し、文明10年(1478年)開創の岡の聖寿寺を本寺とする法系に連なります。開山の全雄は聖寿寺7世で、当寺からさらに金藏寺・雄照寺など7か寺の末寺が分かれました。本尊について『静岡県磐田郡誌』は地蔵菩薩と記しています(現況は確認中です)。磐田郡三十三ヶ所観音霊場第5番の札所でもあり、地蔵信仰と観音巡拝の両方がこの寺に重なってきました。

曹洞宗とは

曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師(1200年〜1253年)が宋(中国)から正伝の仏法を伝え、瑩山禅師が全国へ広めた禅宗の一派です。両禅師を「両祖」と仰ぎ、ご本尊は釈迦牟尼仏です。道元禅師は寛元2年(1244年)に越前(現在の福井県)に永平寺を開き、瑩山禅師の系統からは總持寺(現在は横浜市鶴見区)が興りました。この2か寺を両大本山とし、全国におよそ1万4千か寺を数える大教団です。

教えの中心は「只管打坐」、ただひたすらに坐ることです。坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐る姿そのものが仏のすがたであると説き、掃除や食事といった日々の行いのすべてを修行と捉えます。道元禅師の主著「正法眼蔵」には、その思想が深く説かれています。

檀家の法要では「修証義」や「般若心経」の読誦が親しまれ、葬儀は故人に戒を授けて仏弟子として送る作法に特色があり、戒名にも仏弟子としての意味が込められています。菩提寺で坐禅会や写経会が開かれることも多く、暮らしの中で教えに触れやすい宗派です。

参考: 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET 公式ページ大本山永平寺(大本山總持寺 公式サイト内紹介)

地蔵菩薩という仏さま

地蔵菩薩は、お釈迦さまが入滅してから弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間、仏のいない世にあって人びとを救い続けると信じられてきた菩薩です。経典ではその間は56億7000万年に及ぶとも説かれ、地獄をはじめとする六道のすべてをめぐって、苦しむ者に寄り添うと伝えられます。

菩薩でありながら僧侶のような親しみやすい姿で表されるのが特徴で、特に子どもを守る仏として信仰が厚く、京都では江戸時代の初めから、町内ごとにお地蔵さまを囲んで子どもの成長を願う地蔵盆が営まれてきました。この地蔵盆は今も子どもが主役の夏の行事として受け継がれ、2014(平成26)年には「京都をつなぐ無形文化遺産」にも選定されています。

道端や寺の境内にたたずむ石のお地蔵さまに、花や前掛けが供えられている光景は、日本で最も身近な信仰のかたちのひとつでしょう。子育てや子どもの健康、亡き子の供養など、家族の切実な願いを受け止めてくださる仏さまです。

参考: 京都に伝わる地蔵信仰(浄土宗総本山知恩院 公式サイト)弥勒菩薩の56億7千万年後の救済の出典(レファレンス協同データベース・国立国会図書館)

05

地域とのつながり

守増寺のある豊岡は、江戸時代の江口村・金洗村・西堀村などにあたる天竜川下流東岸の地区です。『日本歴史地名大系』によれば、このうち西堀は、天竜川河口の中洲の村々が洪水から集落を守るために堤防を築いて形づくった「掛塚輪中」八か村の一つに数えられており、豊岡一帯は川と闘いながら開かれてきた土地でした。天竜川河口の掛塚には江戸から明治にかけて大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地・掛塚湊が栄え、天竜川上流から筏で運ばれた木材の積み出しで賑わいました。その歴史は文明17年(1485年)の禅僧万里集九の紀行詩文集『梅花無尽蔵』にまでさかのぼります。守増寺が朱印13石6斗という大きな寺領と7か寺の末寺を維持できた背景には、こうした天竜川の水運がもたらす地域の力がありました。

守増寺を中心とする本末の網は、江口の本寺から金洗の金藏寺、西堀の雄照寺へと、豊岡の集落ごとにお堂を配する形で広がっていました。村々の暮らしに寄り添うこの配置は、明治以降の掛塚町大字豊岡、昭和30年(1955年)以降の竜洋町豊岡、そして平成17年(2005年)以降の磐田市豊岡へと行政の枠組みが変わった後も、地域の菩提寺の分布として今に引き継がれています。愛知県の村史に安政3年(1856年)示寂の閑居僧の記録が残るように、幕末の守増寺は他国の僧が身を寄せる寺でもあり、その包容力もまた、この寺が地域に果たしてきた役割の一面といえます。嘉永7年=安政元年(1854年)の安政東海地震で本堂が倒壊した際にも、村人たちは寺を建て直し、天正以来の法灯を守り継ぎました。災害後の再建も地域史の重要な記録です。

06

年中行事・参拝の手引き

参拝・法要で訪れる方へ

住職の常駐状況や法要の受け付けについては公開情報で確認できていないため、法事やお墓参りに関する相談は、日程に余裕をもって事前に寺院へ直接連絡することをおすすめします。

読み方は曹洞宗公式ポータルでは「シュゾウジ」とされていますが、民間サイトには別の読みの表記もあります。寺院への問い合わせの際は住所(磐田市豊岡2648番地)を添えると確実です。

調査中の項目
  • 施餓鬼会・彼岸会など年中行事の時期と檀家の参列可否
  • 永代供養墓・納骨堂の有無
  • 護持会・世話人会など檀家組織の有無
  • 住職の常駐か兼務かの別
  • 法事参列者向けの駐車場情報

行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。

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よくある質問

守増寺の読み方は?山号は?

曹洞宗公式ポータル「曹洞禅ナビ」では「シュゾウジ」とされています。民間サイトには「もりますじ」という表記も見られるため、正式な読みは寺院への直接確認が確実です。山号は大宝山で、開基三浦甚三郎重員の法名「大宝院殿安心居士」に対応しています。

本文「この寺院について」を読む
いつ誰が開いたお寺ですか?

『静岡県磐田郡誌』によれば、天正15年(1587年)2月、吹上村の郷士三浦甚三郎重員(法名・大宝院殿安心居士)を開基、岡の聖寿寺7世全雄を開山として開かれました。山号の大宝山は開基の法名に由来します。

本文「歴史と背景」を読む
本尊は何ですか?

大正10年(1921年)刊の『静岡県磐田郡誌』は地蔵菩薩と記しています。現在の本尊が同じであるかどうかは現地確認ができておらず、確認中です。確認でき次第、このページを更新します。

本文「宗派と本尊」を読む
江戸時代はどんなお寺でしたか?

『遠江国風土記伝』に朱印寺領13石6斗・末寺7か寺と記された、旧竜洋町域屈指の寺院でした。友泉寺・泉重寺・照善庵・金藏寺・雄照寺などの末寺が豊岡一帯の集落に広がっていました。寺領13石6斗は、掛塚の香集寺(2石余)や海老島の心月寺(2石)と比べても大きな規模です。

本文「歴史と背景」を読む
可睡斎と関係があったのですか?

遠州曹洞宗の僧録司であった可睡斎(袋井市)の住職が天明4年(1784年)に遷化した際、守増寺が役僧として江戸へ出府した記録が幕府の寺社奉行関係文書に残っています。遠州曹洞宗の寺院組織の中で一定の役割を担っていたことがうかがえます。

本文「歴史と背景」を読む
安政の大地震で被害はあったのですか?

歴史地震研究の寺院被害一覧に、安政元年(1854年)11月4日の震災により本堂が倒壊したことが『ふるさと竜洋』に基づいて採録されています。推定震度は6で、その後再建されました。

本文「歴史と背景」を読む
札所になっていますか?

磐田郡三十三ヶ所観音霊場の第5番札所です。本寺の聖寿寺(岡)が第4番、平間の願成寺が第6番で、聖寿寺法系の寺々が札番を連ねています。近世以来の観音巡拝の道筋が、この法系に沿って結ばれていました。

本文「年中行事・参拝の手引き」を読む
年中行事やお墓のことを知りたいのですが。

年中行事や墓地・永代供養についての公開情報は現時点では確認できていません。檀家の方は寺院からの案内に従い、詳細は寺院へ直接確認することをおすすめします。

本文「年中行事・参拝の手引き」を読む

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写真で見る境内

守増寺の現地写真 1
本堂・堂宇 守増寺の現地写真 1
守増寺の現地写真 2
入口・石標 守増寺の現地写真 2
守増寺の現地写真 3
境内全景 守増寺の現地写真 3
守増寺の現地写真 4
石造物・手水 守増寺の現地写真 4
守増寺の現地写真 5
説明板・案内板 守増寺の現地写真 5
守増寺の現地写真 6
その他 守増寺の現地写真 6
守増寺の現地写真 7
本堂・堂宇 守増寺の現地写真 7
守増寺の現地写真 8
入口・石標 守増寺の現地写真 8
守増寺の現地写真 9
境内全景 守増寺の現地写真 9
守増寺の現地写真 10
石造物・手水 守増寺の現地写真 10
守増寺の現地写真 11
説明板・案内板 守増寺の現地写真 11
守増寺の現地写真 12
その他 守増寺の現地写真 12
守増寺の現地写真 13
本堂・堂宇 守増寺の現地写真 13
守増寺の現地写真 14
入口・石標 守増寺の現地写真 14

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出典・参考資料

  1. 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)

    磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9352。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照

  2. 宗派公式資料 曹洞禅ナビ 守増寺

    曹洞宗公式ポータルに磐田市豊岡2648の寺院として掲載。フリガナ「シュゾウジ」を本文で確認。山号・本尊・由緒の記載はなし。

  3. 民間二次情報 全国寺院ドットコム 守増寺

    静岡県磐田市豊岡2648の曹洞宗寺院として登載されていることを本文で確認。山号・本尊・由緒の記載はなし。

  4. 民間二次情報 お寺メイト(サーチ寺院) 静岡県磐田市 守増寺

    宗教法人守増寺の法人番号6080405005507(2015年10月5日指定)、住所磐田市豊岡2648番地、曹洞宗であることを本文で確認。

  5. 郷土資料 『静岡県磐田郡誌』静岡県磐田郡編(1921年)第13章 神社及宗教・寺院の部「116 守増寺(掛塚町)」p.696

    国立国会図書館デジタルコレクション(コマ457)。原本画像で由緒全文(大宝山・聖寿寺末・本尊地蔵菩薩・天正15年2月・三浦甚三郎重員開基・全雄開創)を確認

  6. 郷土資料 『遠江国風土記伝』内山真龍著(郁文舎、1900年)江口村・金洗村等の項

    「守増寺、朱符之寺田高拾三石六斗、末寺七宇、曹洞宗岡村聖壽寺末」、末寺(友泉寺・泉重寺・照善庵・金藏寺)の記載をNDL次世代デジタルライブラリー全文検索で確認

  7. 史料 『寺社奉行一件書類』第4冊(江戸幕府文書、国立国会図書館蔵)

    天明4年可睡斎住職遷化時に役僧守増寺出府の記事

  8. 郷土資料 『千郷村史』第15編(1929年)

    遠州江口守増寺に閑居し安政3年に示寂した僧の記録

  9. 民間二次情報 ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場

    第5番=大宝山守増寺(曹洞宗・豊岡2648)を確認。寺名・宗派・住所がDBと一致。

  10. 学術資料 行谷佑一・都司嘉宣「寺院の被害記録から見た安政東海地震(1854)の静岡県内の震度分布」『歴史地震』第21号(2006年)

    付表に「磐田市豊岡 守増寺」が採録され、『ふるさと竜洋』に基づく安政元年11月4日震災による本堂倒壊、推定震度6を確認。

  11. 郷土資料 日本歴史地名大系「掛塚輪中」「竜洋町」(コトバンク)

    掛塚輪中が西堀・敷地・内名・吹上・川袋・掛塚・白羽・東大塚の八か村で構成され、洪水から村を守るため堤防を高くして形づくられたことを確認(豊岡元西堀の地域文脈として使用)。

  12. 行政・公的資料 旧竜洋町の住所表示|磐田市公式ウェブサイト

    平成17年合併に伴い「竜洋町豊岡」が「磐田市豊岡」と改められたこと、旧竜洋町25大字の住所表示を確認。

  13. 行政・公的資料 掛塚湊の碑(竜洋海洋公園内)|磐田市観光協会

    掛塚が大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地・天竜川舟運の荷降ろしの湊として栄えたことを確認(豊岡を含む旧竜洋町域の地域文脈として使用)。

  14. 学術資料 小杉達「掛塚港の『みなと文化』」(みなと総合研究財団・港別みなと文化アーカイブス)

    天竜川上流の木材が筏で河口へ運ばれ掛塚湊から廻船で江戸方面へ積み出されたこと、文明17年(1485)の万里集九『梅花無尽蔵』に掛塚湊の早い記録があることを確認(地域文脈として使用)。

For Families

このお寺が菩提寺のご家族へ

菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。

法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。

  • お墓の場所
  • 墓地の区画
  • 次回の法要
  • 仏壇の場所
  • 位牌の有無
  • お寺からの連絡を受ける人
  • お寺の連絡先
  • 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
  • 実家の名義
  • 実家を今後誰が管理するか
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