見付地区・現存
国分寺
こくぶんじ
国分寺(こくぶんじ)は、磐田市見付にある新義真言宗の寺院です。境内をふくむ一帯は、天平13年(741年)の聖武天皇の詔により建てられた古代遠江国分寺の跡地で、国の特別史跡に指定されています。古代寺院の記憶をその名とともに受け継ぎ、薬師堂への信仰が今も続く、磐田の歴史を象徴する寺です。
別称・関連名称遠江国分寺/遠江国分寺跡/特別史跡遠江国分寺跡
- 寺院名
- 国分寺
- 地区
- 見付
- 住所
- 静岡県磐田市見付3046番地
- 宗派
- 新義真言宗
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 国分寺
- 読み方
- こくぶんじ
- 地区
- 見付
- 宗派
- 新義真言宗
- ご本尊(資料上)
- 調査中・加筆待ち
- ご本尊の現在の確認状況
- 未確認
- 住所
- 静岡県磐田市見付3046番地
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 国指定特別史跡(遠江国分寺跡)
- 最終確認日
- 2026.07.11
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 国分寺
- 宗派
- 新義真言宗
- 本尊
- 未確認
- 創建
- 奈良時代(遠江国分寺跡)/現寺院の沿革は調査中
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市見付3046番地
- 地区
- 見付
Database 02
沿革
聖武天皇の詔と遠江国分寺の建立
天平13年(741年)、聖武天皇は仏教の加護のもとに国の安寧を願い、国ごとに国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建てる「建立の詔」を出しました。遠江国では、国府の置かれていた磐田の地が造営地に選ばれます。磐田市教育委員会の整備基本計画によれば、出土した軒丸瓦の形状から、遠江国分寺の造営は天平13年(741年)前後には着手されていたと考えられ、北に隣接する国分尼寺の造営も並行して進められたとみられます。伽藍の瓦の大半は、約15キロメートル東方の清ケ谷窯(現在の掛川市)で焼かれたことが分かっています。
平安時代の火災と11世紀の国分寺
平安時代の文献『類聚国史』には、弘仁10年(819年)8月に遠江国分寺が焼失したとの記載があります。発掘調査では塔と金堂院だけに火災の痕跡が確認され、火災は部分的で、焼けた塔はその後再建されなかったと考えられています。また平成16年(2004年)には、『朝野群載』の逸文に万寿5年(1028年)の遠江国司・源安道の覆勘使申文が含まれることが分かりました。そこからは、治安2年(1022年)7月の大風で講堂が損壊したこと、講堂は五間四面で長さ約24.7メートルの瓦葺きであったこと、阿弥陀仏ほか7体の金色の仏像が安置されていたことなどが知られ、遠江国分寺は平安時代中頃(11世紀頃)まで存続していたと推定されています。
中世から江戸時代の法灯
鎌倉時代には、文治2年(1186年)に源頼朝が遠江守の安田義定に国分寺の破損の復興を命じた記事が『吾妻鏡』にみえます。中世の実態は明確ではありませんが、大永2年(1522年)に見付に住んだ堀越氏延が寄進した鰐口(袋井市岩松寺蔵)の背面に「奉懸国分寺御宝前」とあり、この時代にも国分寺が存在していたことを裏付けています。江戸時代には、現在の国分寺の薬師堂に享保3年(1718年)銘の「薬師参詣功徳日」と題する額が保管されており、江戸時代後半まで人々の信仰と法灯が絶えることなく続いていたと考えられています。明治4年(1871年)の絵図には、薬師堂・愛染堂・閻魔堂・寺・表門の規模や構造が描かれています。
史蹟指定と昭和26年の発掘調査
遠江国分寺跡は、大正12年(1923年)3月7日に内務省告示第57号で史蹟保存地に指定されました。転機となったのは昭和26年(1951年)です。市役所建設をきっかけに国分寺跡一帯で道路と市営住宅の建設が計画され、これに伴い石田茂作を中心とする調査団による緊急発掘調査(第1次調査)が行われました。その結果、金堂・塔・講堂・回廊の配置と規模が国分寺跡として全国で初めて明らかになり、東大寺式の伽藍配置であること、塔は七重で高さ224尺(約67.8メートル)と推定されることなどが判明します。遺構の保存状態が良好だったため建設計画は変更され、翌昭和27年(1952年)3月29日、国の特別史跡に指定されました。特別史跡となった国分寺跡は、常陸・讃岐・遠江の3か所しかありません(平成28年12月現在)。
平成の再調査と史跡公園の再整備
磐田市教育委員会は平成18〜26年度(2006〜2014年度)に再整備のための発掘調査を行い、塔・金堂・講堂・僧房・回廊など主要建物の基壇がすべて「木装基壇」(木で外装した土台)であることが全国の古代寺院跡で初めて確認されました。平成19年度には金堂正面で木製燈籠の痕跡が、平成20年度には塔を飾った塑像の仏像頭部(塔本塑像)が見つかっています。これらを踏まえて平成29年(2017年)3月に整備基本計画が策定され、遺構を地下に保存しながら木装基壇などを実物大で示す、国分寺跡として全国初の再整備が進められています。市は高さ3メートルの木製燈籠1基を原寸大で再現する計画で、令和10年度(2028年度)の完成を目指すと発表しています。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 未確認
- 宗教的意味
- 国分寺は、根来寺を総本山とする新義真言宗に属します。信仰の中心は古くから薬師堂で、享保3年(1718年)銘の「薬師参詣功徳日」額が伝わるように、江戸時代から薬師信仰の場として親しまれてきました。磐田市教育委員会の整備基本計画も、この地を「薬師信仰の場として現在も信仰の対象地」と記しています。なお本尊の像容や脇侍については、現時点では公開資料で確認できていません。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
遠江国分寺跡
天平13年(741年)の詔で建立された遠江国分寺の跡です。金堂を中心に北へ講堂、南へ中門を置き、金堂と中門を回廊で結ぶ伽藍で、伽藍地は東西約180メートル、南北約250メートルに及びます。大正12年(1923年)に史蹟指定、昭和27年(1952年)に特別史跡に指定され、指定面積は26,856.63平方メートルです。現在は史跡公園として市民に親しまれ、再整備事業が進行中です。
七重塔跡の礎石
境内の西寄りに、遠江国分寺の七重塔を支えた礎石が残ります。昭和26年(1951年)の第1次調査で基壇は50尺(約15メートル)四方と確認され、心礎の柱座の径から塔の高さは224尺(約67.8メートル)と推定されました。発掘では塔の初層を飾った塑像仏像群の断片(塔本塑像)も出土しており、頭部には彩色の痕跡が確認されています。
木装基壇と木製燈籠跡
平成18年度以降の発掘調査で、主要建物の基壇がすべて木で外装された「木装基壇」であることが、全国の古代寺院跡で初めて確認されました。金堂正面では支柱を木製とする燈籠の跡も発見されています。市は石製・銅製の燈籠や古代建築・文献資料を参考に高さ3メートルの木製燈籠の復元案を作成し、原寸大での再現を目指しています。古代の木製燈籠の再現は全国初の試みです。
境内の手洗石
境内には古い手洗石が置かれ、現地の説明板では天正年間の銘があると紹介されています。銘文の詳細や伝来については、現時点では確認できていません。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
国分寺の建つ見付は、古代遠江国の中枢が置かれた土地です。奈良時代には遠江国府と遠江国分寺・国分尼寺がこの地に整備され、東には府八幡宮が鎮座します。江戸時代には東海道五十三次の28番目の宿場・見付宿として栄え、東海道屈指の規模を誇った宿場町には「十七小路」と呼ばれる小路や寺社・蔵が点在しました。明治8年(1875年)には、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である旧見付学校(国指定史跡)が落成しており、古代から近代までの歴史の積み重ねが歩いてたどれる地区です。
国分寺の周囲は、市役所本庁舎や文教施設が集まる磐田の中心市街地にあたります。特別史跡の指定地は史跡公園(国分寺公園)として開放され、整備基本計画は、地元団体の協力により季節の花が咲く憩いの広場として、また歴史学習の場として市民に親しまれてきたと記しています。1300年近く前の古代寺院の跡と、その名を継ぐ寺の薬師堂への信仰が同じ場所に息づいていることは、見付の暮らしと歴史の深さを何よりも物語っています。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9057
- 行政・文化財情報磐田市「遠江国分寺跡」
伽藍配置、寺域規模、七重塔跡、特別史跡としての概要を参照。
- 行政・整備事業情報磐田市「遠江国分寺跡整備事業」
史跡公園再整備の方針と経緯を参照。
- 文化財データベース文化遺産オンライン「遠江国分寺跡」
特別史跡指定の解説と学術上の価値を参照。
- 現地確認現地写真・説明板(2026年添付写真)
堂宇、境内、石標、手水石、文化財説明板、霊場案内図の写真をページ作成モデルとして整理。
- 調査メモ添付資料「磐田市の国分寺調査」
天平期の背景、伽藍配置、木装基壇、整備事業の要約に使用。
最終更新日 2026.07.19
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この寺院について
国分寺は磐田市見付3046番地に所在し、静岡県知事所轄宗教法人名簿に新義真言宗の寺院として掲載されています。磐田市役所本庁舎の北側、JR磐田駅から北へ延びる市街地の中にあり、寺の建つ一帯は国の特別史跡「遠江国分寺跡」の指定地(所在地は見付3220番地の1ほか96筆、指定面積26,856.63平方メートル)と重なっています。
古代の遠江国分寺という遺跡と、現在も法灯を伝える寺院としての国分寺は、性格の異なる存在です。磐田市教育委員会の「特別史跡遠江国分寺跡整備基本計画」(平成29年・2017年3月)は、江戸時代以来この地の薬師堂が人々の信仰を集めてきた経過を史料からたどったうえで、史跡指定地について「薬師信仰の場として現在も信仰の対象地」と位置付けており、遺跡と生きた信仰が同じ場所に重なり合っていることが、この寺の最大の特徴といえます。
現在の堂宇について、中日新聞(2022年11月)は、1942年(昭和17年)築の旧本堂を2年がかりで東へ約10メートル離れた場所へ移築改修し、ヒノキ造りの本堂(約50平方メートル)と寺務所(47平方メートル)が完成して、2022年(令和4年)11月20日に落慶式が営まれたと伝えています。同記事は寺を「参慶山国分寺」と記しており、山号は参慶山と確認できます。
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歴史と背景
聖武天皇の詔と遠江国分寺の建立
天平13年(741年)、聖武天皇は仏教の加護のもとに国の安寧を願い、国ごとに国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建てる「建立の詔」を出しました。遠江国では、国府の置かれていた磐田の地が造営地に選ばれます。磐田市教育委員会の整備基本計画によれば、出土した軒丸瓦の形状から、遠江国分寺の造営は天平13年(741年)前後には着手されていたと考えられ、北に隣接する国分尼寺の造営も並行して進められたとみられます。伽藍の瓦の大半は、約15キロメートル東方の清ケ谷窯(現在の掛川市)で焼かれたことが分かっています。
平安時代の火災と11世紀の国分寺
平安時代の文献『類聚国史』には、弘仁10年(819年)8月に遠江国分寺が焼失したとの記載があります。発掘調査では塔と金堂院だけに火災の痕跡が確認され、火災は部分的で、焼けた塔はその後再建されなかったと考えられています。また平成16年(2004年)には、『朝野群載』の逸文に万寿5年(1028年)の遠江国司・源安道の覆勘使申文が含まれることが分かりました。そこからは、治安2年(1022年)7月の大風で講堂が損壊したこと、講堂は五間四面で長さ約24.7メートルの瓦葺きであったこと、阿弥陀仏ほか7体の金色の仏像が安置されていたことなどが知られ、遠江国分寺は平安時代中頃(11世紀頃)まで存続していたと推定されています。
中世から江戸時代の法灯
鎌倉時代には、文治2年(1186年)に源頼朝が遠江守の安田義定に国分寺の破損の復興を命じた記事が『吾妻鏡』にみえます。中世の実態は明確ではありませんが、大永2年(1522年)に見付に住んだ堀越氏延が寄進した鰐口(袋井市岩松寺蔵)の背面に「奉懸国分寺御宝前」とあり、この時代にも国分寺が存在していたことを裏付けています。江戸時代には、現在の国分寺の薬師堂に享保3年(1718年)銘の「薬師参詣功徳日」と題する額が保管されており、江戸時代後半まで人々の信仰と法灯が絶えることなく続いていたと考えられています。明治4年(1871年)の絵図には、薬師堂・愛染堂・閻魔堂・寺・表門の規模や構造が描かれています。
史蹟指定と昭和26年の発掘調査
遠江国分寺跡は、大正12年(1923年)3月7日に内務省告示第57号で史蹟保存地に指定されました。転機となったのは昭和26年(1951年)です。市役所建設をきっかけに国分寺跡一帯で道路と市営住宅の建設が計画され、これに伴い石田茂作を中心とする調査団による緊急発掘調査(第1次調査)が行われました。その結果、金堂・塔・講堂・回廊の配置と規模が国分寺跡として全国で初めて明らかになり、東大寺式の伽藍配置であること、塔は七重で高さ224尺(約67.8メートル)と推定されることなどが判明します。遺構の保存状態が良好だったため建設計画は変更され、翌昭和27年(1952年)3月29日、国の特別史跡に指定されました。特別史跡となった国分寺跡は、常陸・讃岐・遠江の3か所しかありません(平成28年12月現在)。
平成の再調査と史跡公園の再整備
磐田市教育委員会は平成18〜26年度(2006〜2014年度)に再整備のための発掘調査を行い、塔・金堂・講堂・僧房・回廊など主要建物の基壇がすべて「木装基壇」(木で外装した土台)であることが全国の古代寺院跡で初めて確認されました。平成19年度には金堂正面で木製燈籠の痕跡が、平成20年度には塔を飾った塑像の仏像頭部(塔本塑像)が見つかっています。これらを踏まえて平成29年(2017年)3月に整備基本計画が策定され、遺構を地下に保存しながら木装基壇などを実物大で示す、国分寺跡として全国初の再整備が進められています。市は高さ3メートルの木製燈籠1基を原寸大で再現する計画で、令和10年度(2028年度)の完成を目指すと発表しています。
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文化財・見どころ
遠江国分寺跡
天平13年(741年)の詔で建立された遠江国分寺の跡です。金堂を中心に北へ講堂、南へ中門を置き、金堂と中門を回廊で結ぶ伽藍で、伽藍地は東西約180メートル、南北約250メートルに及びます。大正12年(1923年)に史蹟指定、昭和27年(1952年)に特別史跡に指定され、指定面積は26,856.63平方メートルです。現在は史跡公園として市民に親しまれ、再整備事業が進行中です。
七重塔跡の礎石
境内の西寄りに、遠江国分寺の七重塔を支えた礎石が残ります。昭和26年(1951年)の第1次調査で基壇は50尺(約15メートル)四方と確認され、心礎の柱座の径から塔の高さは224尺(約67.8メートル)と推定されました。発掘では塔の初層を飾った塑像仏像群の断片(塔本塑像)も出土しており、頭部には彩色の痕跡が確認されています。
木装基壇と木製燈籠跡
平成18年度以降の発掘調査で、主要建物の基壇がすべて木で外装された「木装基壇」であることが、全国の古代寺院跡で初めて確認されました。金堂正面では支柱を木製とする燈籠の跡も発見されています。市は石製・銅製の燈籠や古代建築・文献資料を参考に高さ3メートルの木製燈籠の復元案を作成し、原寸大での再現を目指しています。古代の木製燈籠の再現は全国初の試みです。
境内の手洗石
境内には古い手洗石が置かれ、現地の説明板では天正年間の銘があると紹介されています。銘文の詳細や伝来については、現時点では確認できていません。
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宗派と本尊を知る
国分寺は、根来寺を総本山とする新義真言宗に属します。信仰の中心は古くから薬師堂で、享保3年(1718年)銘の「薬師参詣功徳日」額が伝わるように、江戸時代から薬師信仰の場として親しまれてきました。磐田市教育委員会の整備基本計画も、この地を「薬師信仰の場として現在も信仰の対象地」と記しています。なお本尊の像容や脇侍については、現時点では公開資料で確認できていません。
新義真言宗とは
新義真言宗は、弘法大師空海を宗祖とし、平安時代後期の興教大師覚鑁を中興の祖とする宗派で、総本山は和歌山県岩出市の根来寺です。覚鑁は大治5年(1130年)に高野山に伝法院を建てて教学の振興に努め、鳥羽上皇の祈願所となって大伝法院と改められました。のちに覚鑁自身も高野山を離れ、根来の地に移り住んでいます。
覚鑁の没後、正応元年(1288年)に頼瑜僧正が大伝法院を根来山に移し、覚鑁の教学を発展させて、従来の解釈と区別される「新義」の教学を確立しました。これが新義真言宗の成立で、根来山はかつて多くの堂舎が建ち並ぶ一大宗教都市として栄えました。
教えは大日如来を中心とする密教で、檀家の法要でも真言の念誦や護摩、光明真言など密教の作法が大切にされます。覚鑁の教学はのちの智山派・豊山派にも受け継がれ、真言宗の中で大きな流れを形づくりました。「南無大師遍照金剛」の御宝号を唱えて弘法大師を仰ぐ点は、真言宗各派に共通しています。
薬師如来という仏さま
薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来といい、東方の浄瑠璃世界と呼ばれる浄土の教主とされる仏さまです。菩薩として修行していた時代に12の大願を立て、その中で人びとの病を取り除き、心身を安らかにすることを誓ったと経典に説かれています。誓いには、飢えや渇きに苦しむ人を救い、衣類の乏しい人に衣を施すことも含まれ、心と身体の両面から人びとを支える仏さまです。左手に薬壺を持つ姿が広く知られ、古くから「お薬師さま」の呼び名で親しまれてきました。
来世の救いを担う阿弥陀如来に対して、薬師如来は現世で救いの手を差し伸べる仏とされ、奈良時代(8世紀)から病気平癒や健康長寿を願う現世利益の信仰を集めてきました。脇には日光菩薩と月光菩薩が控え、昼も夜も絶え間なく人びとを見守ってくださると伝えられます。
薬師如来を本尊とする寺院では、家族の病気平癒や無病息災、厄除けの祈願が折々に営まれ、暮らしに寄り添う仏として大切にされてきました。お参りの際には、日々を健やかに送れることへの感謝を込めて手を合わせたいものです。
参考: お薬師様の十二大願(奈良薬師寺 公式サイト)/ご本尊・薬師如来(薬師寺東京別院 公式サイト)/薬師如来(新薬師寺 公式ホームページ)
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地域とのつながり
国分寺の建つ見付は、古代遠江国の中枢が置かれた土地です。奈良時代には遠江国府と遠江国分寺・国分尼寺がこの地に整備され、東には府八幡宮が鎮座します。江戸時代には東海道五十三次の28番目の宿場・見付宿として栄え、東海道屈指の規模を誇った宿場町には「十七小路」と呼ばれる小路や寺社・蔵が点在しました。明治8年(1875年)には、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である旧見付学校(国指定史跡)が落成しており、古代から近代までの歴史の積み重ねが歩いてたどれる地区です。
国分寺の周囲は、市役所本庁舎や文教施設が集まる磐田の中心市街地にあたります。特別史跡の指定地は史跡公園(国分寺公園)として開放され、整備基本計画は、地元団体の協力により季節の花が咲く憩いの広場として、また歴史学習の場として市民に親しまれてきたと記しています。1300年近く前の古代寺院の跡と、その名を継ぐ寺の薬師堂への信仰が同じ場所に息づいていることは、見付の暮らしと歴史の深さを何よりも物語っています。
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年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
寺の建つ一帯は特別史跡の指定地と重なり、史跡公園の再整備工事が段階的に行われています。法要やお参りで訪れる際は、現地の案内表示に従ってください。
年中行事や法要・供養の相談窓口は公開資料では確認できていないため、寺院へ直接確認してください。
- 年中行事(施餓鬼会・薬師堂の縁日など)の有無・日程は未確認
- 墓地・永代供養の取扱いは未確認
- 本尊の像容・脇侍、堂内の諸仏は未確認
- 住職の常駐状況は未確認
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
07
よくある質問
- 「遠江国分寺跡」と寺院の「国分寺」は同じものですか?
-
別のものです。遠江国分寺跡は天平13年(741年)の詔で建てられた古代寺院の遺跡(国指定特別史跡)で、寺院の国分寺は同じ場所で法灯を受け継ぐ新義真言宗の現存寺院です。
本文「この寺院について」を読む - 国分寺の宗派と山号は?
-
新義真言宗の寺院です。中日新聞の記事(2022年)では「参慶山国分寺」と報じられており、山号は参慶山です。
本文「宗派と本尊」を読む - 本尊は何ですか?
-
信仰の中心は薬師堂で、江戸時代から薬師信仰の場として続いてきたことが磐田市教育委員会の資料で確認できます。本尊の像容などの詳細は現時点では確認できていません。
本文「宗派と本尊」を読む - 遠江国分寺はいつまで存続していたのですか?
-
発掘調査と文献から平安時代中頃(11世紀頃)まで存続したと推定されています。その後も大永2年(1522年)の鰐口や享保3年(1718年)銘の額などから、中世・近世を通じて信仰が続いたことが知られます。
本文「歴史と背景」を読む - 特別史跡にはいつ指定されましたか?
-
大正12年(1923年)に史蹟保存地となり、昭和26年(1951年)の発掘調査で全国初の伽藍配置の確認という成果を受けて、昭和27年(1952年)3月29日に特別史跡に指定されました。
本文「文化財・見どころ」を読む - 昭和26年の発掘調査では何が分かったのですか?
-
石田茂作を中心とする調査で金堂・塔・講堂・回廊の配置と規模が国分寺跡として全国で初めて明らかになり、東大寺式伽藍配置であること、七重塔の高さは約67.8メートルと推定されることなどが判明しました。
本文「歴史と背景」を読む - 現在の整備事業では何が行われていますか?
-
遺構を地下に保存しながら木装基壇などを実物大で示す全国初の国分寺跡再整備が進められており、高さ3メートルの木製燈籠の原寸再現は令和10年度(2028年度)完成を目標としています。
本文「文化財・見どころ」を読む
08
写真で見る境内
09
出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市の宗教法人として「新義真言宗 国分寺 磐田市見付3046番地」の登載を確認。参照行: L9057。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 行政・文化財情報 磐田市公式サイト「遠江国分寺跡」
天平13年の建立の詔、金堂・講堂・中門・回廊の伽藍配置、寺域東西180メートル×南北250メートル、昭和26年発掘・昭和27年特別史跡指定を確認
- 行政・整備事業情報 磐田市公式サイト「遠江国分寺跡整備事業」
平成18〜26年度の発掘調査、全国初の木装基壇の確認、平成19年度の木製燈籠痕跡・平成20年度の仏像頭部出土、平成29年3月の整備基本計画策定を確認
- 行政・公的資料 磐田市教育委員会『わたしたちの国分寺公園 特別史跡遠江国分寺跡整備基本計画』(平成29年3月)
『類聚国史』の弘仁10年焼失記事、万寿5年覆勘使申文、『吾妻鏡』文治2年の復興命令、大永2年鰐口、享保3年銘「薬師参詣功徳日」額、明治4年絵図、大正12年史蹟指定(内務省告示第57号)、昭和26年第1次調査(石田茂作)の成果、昭和27年3月29日特別史跡指定、指定面積26,856.63平方メートル、「薬師信仰の場として現在も信仰の対象地」の記述を確認
- 文化財データベース 文化遺産オンライン「遠江国分寺跡」
1923年(大正12年)3月7日の指定、寺域と遺構の学術的価値に関する解説を確認
- 行政・公的資料 磐田市役所プレスリリース「約1300年前の木製燈籠再現へ」(PR TIMES、2025年4月30日)
高さ3メートルの木製燈籠の復元案作成、原寸大1基の再現計画、令和10年度完成目標、全国初の試みであることを確認
- 報道 中日新聞「本堂と寺務所の改修祝う 磐田・参慶山国分寺で落慶式」(2022年11月)
2022年11月20日の落慶式、1942年築の旧本堂の移築改修、ヒノキ造りの本堂約50平方メートル・寺務所47平方メートル、山号「参慶山」、法灯継承に関する記述を確認(記事後半は会員限定)
- 発掘調査報告書 全国遺跡報告総覧『特別史跡遠江国分寺跡 本編』(磐田市教育委員会、2016年3月31日)
平成18〜26年度発掘調査の正式報告書の書誌(磐田市埋蔵文化財センター編集・磐田市教育委員会発行)と所収論文を確認
- 地域資料 磐田市観光協会「〜遠江国はじまりの地〜磐田に刻まれた歴史をたどる旅」
見付宿が東海道五十三次の28番目の宿場で東海道屈指の規模を誇ったこと、十七小路、遠江国府・国分寺が置かれた歴史を確認
- 行政・公的資料 磐田市公式サイト「磐田市の概要」
奈良時代に遠江国分寺と遠江国府が置かれたこと、江戸時代に東海道の見付宿として繁栄したことを確認
- 行政・文化財情報 磐田市公式サイト「旧見付学校附磐田文庫(旧見付学校)」
明治8年落成・開校、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎、国の史跡指定を確認
- 現地確認 現地写真・説明板(2026年添付写真)
堂宇、境内、石標、手水石、文化財説明板、霊場案内図の写真を確認。手洗石の天正年間銘は現地説明板の紹介による
For Families
このお寺が菩提寺のご家族へ
菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
- お墓の場所
- 墓地の区画
- 次回の法要
- 仏壇の場所
- 位牌の有無
- お寺からの連絡を受ける人
- お寺の連絡先
- 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
- 実家の名義
- 実家を今後誰が管理するか
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