ATAWI TEMPLE 地域寺院研究紀要

松久院境内の永照塔・袖ケ浦33観音・遠州大念仏

移動する記念物と反復される儀礼から三家の地域記憶を読む

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
追加調査中

要旨

磐田市資料は、旧広瀬村の戦没者を記念して広瀬尋常高等小学校に建てられた永照塔が、敗戦後に校庭へ埋められ、1948年に松久院境内へ再建されたと記す。また現地案内板は、文政5年(1822)に成立したと伝える袖ケ浦三十三観音霊場の9番・10番札所を松久院に置く。2019年の市資料は、三家組の遠州大念仏が松久院で奉演される例を示す。本稿は戦没者慰霊、観音巡礼、盆の大念仏を同一の「供養文化」に溶かさず、記念物の移動、宗教空間への再配置、儀礼の反復、行政記録の時点を分けて分析する。

キーワード:松久院/永照塔/袖ケ浦三十三観音/遠州大念仏/三家/戦没者慰霊/地域記憶

1 問題設定と証拠の射程

本稿の対象は、曹洞宗公式情報と静岡県資料が磐田市三家332番地に記録する曹洞宗豊田山松久院(しょうきゅういん)である。1921年『静岡県磐田郡誌』が旧広瀬村三家字中西に記す松久院を歴史的参照対象とするが、同名・類名寺院の由緒、写真、文化財、行事は採用しない。所在地、山号、宗派、本尊記録、本寺、旧村名を組み合わせて対象同一性を判定する。 本稿では永照塔を建立・埋設・掘出し・再建の4状態に分け、各状態の場所・管理者・碑面・追悼対象を別レコードで比較する。

永照塔の履歴は、建立、学校での設置、敗戦後の埋設、1948年の掘り出し・松久院再建という複数局面からなる。磐田市文化財だより第195号は重要な行政公開資料だが、建立年、設計者、碑文全文、対象戦没者、埋設を決めた主体、掘り出しの担い手をすべて示すわけではない。占領軍の来訪を予期して埋めたという地域記憶は、学校日誌、村会記録、新聞、関係者証言と照合する。現在の石碑が破断した2片であるという記述も、写真と現地実測で個体同定し、破断時期を埋設・掘り出しへ直結させない。

永照塔を研究する際は、碑の物質的履歴と追悼対象の履歴を分ける。碑文に戦没者名、建立趣旨、発起人、施工者、年紀が残るなら、判読図と翻刻を作成し、欠損箇所を推測文字で埋めない。名簿は軍歴・戸籍・遺族情報を含み得るため、公開済み歴史資料と個人情報保護の範囲を確認する。学校に置かれた理由、児童が関わった式典、地域団体による管理を学校日誌や新聞から追う。埋設という行為は記憶の抹消とも保護とも解釈できるが、関係者の言葉なしに意図を1つへ固定しない。1948年の再建を「復元」と呼ぶ場合も、原位置・向き・台座・欠損の変化を示す。

史料評価では、出来事が生じた年と、その出来事を記す資料が作られた年を別列に置く。1921年刊行の郡誌が1624年開創を記す場合、直接確認できるのは1921年までにその由緒が記録されていた事実であり、1624年の同時代証拠そのものではない。郡誌、寺院公式情報、行政名簿、観光資料、現地案内板は作成主体と目的が異なる。互いに同じ文言を転載した可能性を調べ、ウェブ上の件数を独立証拠数へ読み替えない。引用はURL、頁またはコマ、閲覧日、原文位置を保存し、判読不能字を推測で補わない。 本稿では永照塔を建立・埋設・掘出し・再建の4状態に分け、各状態の場所・管理者・碑面・追悼対象を別レコードで比較する。

松久院境内の石碑
境内植栽の間に立つ石碑。写真で確認できる文字と磐田市資料が記す永照塔との同定には、正面・側面・背面の銘文、寸法、位置を現地で再確認する必要がある。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

2 年代・人物・地名の史料批判

現地案内板は、約200年前に中瀬村の源八が西国三十三所を巡拝し、砂を持ち帰り、近隣に観音像を安置する霊場を発案し、1822年に成立したと説明する。この叙述は地域巡礼の自己理解を示す一次的な現地資料であるが、1822年当時の文書ではない。源八の人物同定、発願文、札所一覧、各像の銘、奉加帳、御詠歌、巡礼帳を確認する。松久院に9番と10番が併置される理由、2尊の尊名、旧札所からの移座、欠番・再編を調べ、案内板の現在位置を歴史的原位置とみなさない。

袖ケ浦三十三観音の名称は地理的範囲と札所構成を示す可能性がある。各札所の所在地、寺院・堂名、番号、尊名、像銘、御詠歌、現存状況を一覧化し、松久院の9番・10番併置が全体再編の結果か当初計画かを比較する。現地案内板にある中瀬村源八の西国巡拝と砂の持ち帰りは、中央霊場を地方で縮約・再構成する実践として重要である。ただし西国巡礼の一般史を源八個人の行程へ当てはめず、納経帳、道中記、通行手形、奉加帳を探す。1822年という年紀は案内板の記載として提示し、同時代資料が見つかるまでは成立伝承の年と表現する。

人名・寺名・地名・土地は別の識別子で管理する。松久院、永江院、三家村、広瀬村、三家学校、広瀬尋常高等小学校を時点ごとに区別し、行政区域の変更を寺院移転と同一視しない。開創、開山、開基、寺地設定、堂宇建立、本末編成は別命題である。地番58と332の差も、改番、分筆、合筆、学校所在地の表記法、寺域内の位置差など複数仮説を残し、地籍資料なしに「移転」と断定しない。検索では異体字、旧字体、読み、字名を併用し、同名資料の混入を監査する。 袖ケ浦33観音は全札所表を母集団とし、松久院の9番・10番併置が当初構成か後代再編かを像銘と巡礼帳で検証する。

松久院境内の袖ケ浦三十三観音霊場9番・10番札所案内板
松久院を袖ケ浦三十三観音霊場の9番・10番札所とし、1822年の成立伝承を記す現地案内板。これは現代に掲示された地域資料であり、記載内容は文政期の巡礼帳・造像銘・寺蔵文書と照合する必要がある。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

3 空間と物質資料の検証

石仏群は覆屋内に並び、像容・台座・風化状態が一様ではない。写真だけで千手観音、十一面観音などの尊名を割り当てず、持物、頭上面、印相、銘文、台座、石材、寸法を専門家と確認する。台座の新旧や据え直し痕は移動仮説を生むが、移座記録なしに年代を決めない。西国霊場の砂を納めたという伝承は、台座下の納入物を無断で開封して確かめる対象ではなく、修理時記録、寺蔵文書、旧写真で検証する。信仰対象としての尊厳と保存環境を優先し、3D計測や赤外線撮影も寺院の許可を前提とする。

石仏群の比較調査では、像ごとに仮番号を付し、全景、正面、左右側面、背面、台座、銘文を同じ尺度で撮影する。9番と10番以外の像が同じ覆屋にある場合、札所像、脇像、後世奉納、移設石仏を区別する。風化度の差を年代順と直結させず、石材、向き、雨掛かり、過去の覆屋の有無を考慮する。拓本は表面を傷めるため保存専門家と協議し、斜光撮影や写真測量を優先する。像容判定は複数研究者で行い、千手・十一面などの尊名が現行霊場表にある場合も現物と照合する。修理履歴は信仰継続の証拠になり得るため、新材を価値低下と評価しない。

写真は2026年の現況を記録する一次資料であるが、歴史年代を直接証明しない。本堂、庫裏、石碑、石仏、案内板、参道、植栽を個別対象とし、撮影位置・方位・日時を付す。古く見える部材、風化した石、成熟した樹木を創建年の代替証拠にしない。建物は棟札、修理記録、瓦銘、古写真、部材痕跡、地震・洪水記録と照合する。石造物は無断の洗浄・拓本・移動を避け、正面・側面・背面、寸法、石材、銘文、基礎、原位置、移設履歴を非接触で記録する。 観音像は尊名判定より先に個体番号、石材、寸法、台座、移設痕を記録し、霊場番号と物体を循環論法で同定しない。

松久院境内の袖ケ浦三十三観音霊場9番・10番札所
案内板の近くに安置される複数の石仏。9番・10番の札所本尊、造像年、旧位置、再配置の経緯は、像銘と巡礼資料を照合して確定する。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

4 制度と地域ネットワーク

豊岡地区の遠州大念仏は市指定無形民俗文化財として保存され、三家を含む複数組が伝承を担う。磐田市文化財だより第172号にある2019年8月13日頃の松久院奉演は、その年の公開日程を示す資料であり、現在も同じ日時・場所で必ず行われるとは限らない。保存会への確認なしに来訪を勧めず、担い手、太鼓、歌枕、装束、移動順、初盆家との関係、永照塔前の慰霊を記録する。三方ヶ原合戦起源説は広く語られるが、伝承の初出と現在の儀礼実践を分け、起源の古さだけで文化的価値を測らない。

大念仏の記録では、演目を文章だけで要約せず、保存会の許可を得て隊列、太鼓、笛、歌枕、開始・終了、移動順を時系列で記録する。撮影が追悼を妨げる場合は記録より儀礼を優先する。初盆家での供養と永照塔前の戦没者慰霊が同じ日に連続する場合も、それぞれの対象と語りを分ける。2019年日程表は新型感染症流行以前の1時点であり、その後の中断・再開・変更を保存会へ確認する必要がある。担い手減少を外部から断定せず、参加条件、世代継承、用具保管、練習、資金、他組との協力を聞き取る。文化財指定は実践を固定する制度ではなく、変化を含む継承の枠組みとして分析する。

制度と実践を分けて記述する。近世の本末関係、明治期の学校制度、戦没者慰霊、現代の宗教法人制度、文化財指定は、同じ「寺の役割」という語で一括できない。本末は法系、住職認証、寺格、行政連絡、法要協力に分解する。学校は設置主体、校地、教員、児童、学区、財政を調べる。大念仏は保存団体、奉演場所、日時、対象、伝承、文化財行政を分ける。制度上の所属が住民全員の信仰や参加を意味するとせず、非参加者や記録から脱落した人々も想定する。 遠州大念仏は2019年日程を1観測点として扱い、演目・担い手・移動順・追悼対象の継続と変更を保存会資料で追う。

松久院境内の石碑群と周辺景観
松久院境内の石碑群。背後に平坦な集落景観が広がる。石碑の名称・建立年・原位置は個体ごとに記録し、写真上の近接を同時建立の根拠にしない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

5 共同体・記憶・公開倫理

松久院境内には、観音巡礼の札所、学校から移された戦没者記念碑、大念仏の奉演地点が重なる。しかし3者が当初から統合された体系だったとは考えない。1822年伝承、近代学校、戦争記念、1948年再建、現在の儀礼という異なる時間が、寺院空間で隣接すること自体が研究対象である。学校から寺への移設は、公的記念物を宗教施設へ単純に「返した」過程ではなく、占領期の制度変化、地域の追悼実践、用地と管理の選択を含む。碑前での大念仏も、実施年・組・対象を記録して初めて、物質と儀礼の接続を論証できる。

3つの記憶装置を比較すると、観音像は複数札所を巡る移動を前提とし、永照塔は学校から寺へ物自体が移動し、大念仏は担い手が地域を巡って奉演するという異なる移動性が見える。この共通性は分析上の発見であって、歴史的に同一の起源を示すものではない。物、人、語りの移動経路を別の地図レイヤーにし、交差した日時・場所だけを関係として結ぶ。松久院境内が受け入れ先となった理由も、寺院の宗教性、土地、管理者、集落中心性のどれが主因かを資料から判断する。移動後に意味が変わった可能性を認め、現在の説明を当初意図へ遡及させない。

地域共同体の復元では、三家の住民全員が松久院の檀家、三家学校の児童または大念仏の担い手だったと仮定しない。過去帳、宗門帳、学籍簿、寄進帳、墓碑、村方文書、聞き取りを、氏名、居所、年代、続柄、役割で照合する。女性、子ども、奉公人、転入・転出者は公的記録から見えにくい。不記載は関係不存在の証拠ではない。聞き取りは話者、採録日、経験時期、質問、録音・公開同意を記録し、現在の記憶を近世・明治期の直接証拠へ格上げしない。個人情報と信仰情報は公開範囲を協議する。 碑、札所、念仏の共通項は起源ではなく移動性にあり、物・巡礼者・奉演者の経路が交差した時点だけを関係として採用する。

松久院本堂正面と前庭
本堂正面と前庭。寺院が礼拝・教育・追悼の各機能を担った歴史を考える際も、現在の空間配置を1875年の学校配置へそのまま遡及させない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

6 結論と優先調査

確認できるのは、市資料が永照塔の学校設置・埋設・1948年松久院再建を記すこと、現地に袖ケ浦三十三観音9番・10番札所の案内板と石仏群があること、2019年資料が三家組と松久院奉演を示すことである。永照塔の碑文・建立年・移設実務、観音像の尊名・造像銘・旧位置、現在の大念仏日程と全実施履歴は未確認である。結論として松久院は、記憶を静的に保存する容器ではなく、記念物の移動、巡礼の再編、儀礼の反復によって地域が過去を更新する場所である。差異を保ったまま関連を記述することが、戦争・信仰・民俗を検証可能な地域史へ変える。

公開成果には、永照塔履歴図、札所ネットワーク図、大念仏の時系列、現況写真台帳を用意する。永照塔の戦没者名、初盆家、儀礼参加者など個人が特定される情報は、公開の必要性と遺族・保存会の意向を確認する。観音像の高精細画像は盗難・毀損リスクを評価し、位置情報や背面銘の公開範囲を寺院と協議する。日程情報は過年度資料と明記し、現在の開催を保証しない。研究ページでは宗教的価値判断を代行せず、何が資料で確認でき、何が伝承で、何が今後の調査仮説かを示す。こうした公開設計によって、地域の記憶を消費的な逸話にせず、担い手へ還元可能な記録資源とする。

個別審査は入力、帰属、推論、公開の4段階で行う。入力審査では原画像と文字・数字・頁を照合し、帰属審査では三家332、豊田山、曹洞宗、永江院末、釈迦牟尼如来などの識別子を確認する。推論審査では資料が述べない移転理由、建物年代、住民意識、儀礼の継続を本文が補っていないか調べる。公開審査では確認済み、歴史資料記載、推定、未確認、反証ありを表示する。訂正時は本文、検索説明、年表、画像説明、構造化データを同時更新し、旧値、変更理由、出典、確認日を履歴として残す。 結論の新規性は、境内の3要素を一括した供養文化ではなく、異なる記憶媒体が松久院で再配置される過程として示す点にある。

著者は大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役)であり、介護事業および不動産事業を運営している。著者の素性と利益関係を明示する一方、本稿は松久院、境内、墓地、宗教法人または周辺土地に関する営業、価格評価、相談誘導、宗教行為の勧誘を目的としない。 結論の新規性は、境内の3要素を一括した供養文化ではなく、異なる記憶媒体が松久院で再配置される過程として示す点にある。

松久院研究を継続可能な地域資料へするには、主張、出典、物、場所、人、出来事を別テーブルとして管理しなければならない。主張には短い識別番号を付け、本文の1文がどの資料のどの箇所に支えられるか、直接記載か推論か、反証となる資料は何かを記録する。出典には書誌と画像番号を、物には本堂・額・石碑・石仏・文書・写真などの個体情報を、場所には時点付き地名・地番・座標を、人には同名識別と役割を、出来事には発生日と記録日を持たせる。この構造なら、1624年の開創、1875年の学校、1948年の碑再建のように性質の異なる事象を、単純な年表上の点へ縮減せず比較できる。資料間に矛盾が生じたときは、多数決で1つを削除するのではなく、各説の文言、資料年代、作成主体、支持・反証を併記する。史料が沈黙する期間を「活動がなかった」と読まず、記録保存の偏りとして示す。図版には撮影日、撮影者、対象、方位、改変の有無、代替テキスト、公開許諾を付け、同じ写真を異なる寺院へ誤配しないようファイル名と寺院IDを照合する。地図は現代住所、旧村・字、推定範囲、確定地点を異なる記号で表示し、私有地への立入りや墓地の精密位置を誘発しない。外部提供資料は、提供者の説明を尊重しつつ、原本所在、撮影経緯、複製歴、公開権限を確認する。研究成果は一般向け要約、根拠表、詳細論文、寺院へ返却する保存用データの層に分ける。一般向け要約は不確実性を隠さず、詳細論文は原文位置と推論過程を示し、保存用データは公開できない情報を適切な権限で保持する。新資料により結論が変わった場合は、更新日だけでなく、変更前の記述、変更理由、追加資料、影響する図表を履歴化する。これにより読者は、確定事項と伝承・仮説を識別し、後続研究者は同じ探索を無駄に反復せず検証を前へ進められる。さらに、寺院、郷土資料館、学校史研究者、民俗芸能保存会、地域住民が同じデータを異なる目的で利用できるよう、語彙と典拠を揃える。寺院側の訂正や非公開要請には記録を残して応答し、公開停止が必要な資料を複製サイトへ残さない。災害時には文書・石造物・写真の所在台帳が救出優先順位の判断にも役立つため、平時の研究目録を保存計画へ接続する。松久院の価値を古さ、規模、著名さだけで測らず、寺院史、教育史、戦争記憶、巡礼、民俗芸能、土地履歴が接触する場所として、資料が許す範囲で記述を更新する。 結論の新規性は、境内の3要素を一括した供養文化ではなく、異なる記憶媒体が松久院で再配置される過程として示す点にある。

今後の調査は、公開史料の固定、所蔵目録の確認、寺院および関係団体の許可を得た非接触調査の順で進める。国立国会図書館資料は永続URL、コマ、頁、閲覧日を保存し、郡誌編纂原稿、旧豊岡村・広瀬村資料、寺院明細帳、永江院側末寺帳、学校沿革、地籍資料、永照塔関係文書、大念仏保存会資料の所在を確認する。寺蔵資料は原位置、箱書、表裏、尺度を含めて撮影し、翻刻は複数人で照合して異読、欠損、後筆を消さない。画像は原本、色補正、翻刻、公開用を分け、チェックサムと別地点バックアップを作る。年表では1624年、1822年、1875年、1889年、1921年、1948年、2019年、2026年を同じ確度で並べず、出来事年、記録年、確認年を別欄にする。公開後は「松久院」「しょうきゅういん」「豊田山」「三家332」「三家学校」「永照塔」を組み合わせて検索し、他地域の同名寺院や別の記念碑が混入していないか監査する。結論保留は情報不足の放置ではなく、現在の証拠が許す範囲を確定した審査結果として示す。 結論の新規性は、境内の3要素を一括した供養文化ではなく、異なる記憶媒体が松久院で再配置される過程として示す点にある。

三家集落の道路から望む松久院本堂
三家集落の道路から望む松久院。寺院と居住域が近接する現在の景観を示すが、近世・明治期の道路、屋敷、校地を復元するには時点別地図が必要である。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

参考文献・資料

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  12. [12] 国土地理院「地理院地図」。 三家、松久院、河川、地形と現在の道路関係を確認する基盤資料とした。 最終閲覧日:2026-07-25。
  13. [13] 曹洞宗宗務庁「曹洞宗公式サイト」。 宗派の現行制度・用語を確認し、近世本末制度と区別するため参照した。 最終閲覧日:2026-07-25。
  14. [14] e-Gov法令検索「宗教法人法」。 現行宗教法人制度と歴史上の寺院組織を区別する法的基礎とした。 最終閲覧日:2026-07-25。
  15. [15] 文化庁「宗教法人制度の概要」。 現代の宗教法人情報が証明する範囲を確認した。 最終閲覧日:2026-07-25。

著者情報

大石浩之。富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役。静岡県磐田市を拠点として介護事業および不動産事業を運営する一方、ATAWI TEMPLEにおいて地域寺院資料の収集・整理・公開に取り組む。本論文は寺院・宗派の公式見解ではなく、表示した資料に基づく著者の研究成果である。

資料の追加および記載の訂正は、情報提供・訂正窓口で受け付けている。