ATAWI TEMPLE 地域寺院研究紀要

新豊院山古墳群と三角縁神獣鏡

弥生墓制から前方後円墳への移行、2号墳副葬品、太田川流域の首長権を読む

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.24
資料検証
公開資料による検証済み

要旨

本稿は、磐田市向笠竹之内、新豊院背後の磐田原台地東縁に所在する国指定史跡・新豊院山古墳群を、墓制の変化、副葬品、地形、文化財保護の4側面から検討する。静岡県資料によれば、1980年の発掘調査で弥生時代中期の土器棺墓、弥生時代後期の土坑墓、古墳時代前期の台状墓と前方後円墳が確認された。したがって本遺跡の価値は、著名な三角縁神獣鏡だけでなく、弥生墓制から古墳時代の首長墓へ至る変化を同一丘陵で比較できる点にある。2号墳は全長約28メートルで県内最古級の前方後円墳と評価され、棺内から直径21.5センチメートルの三角縁神獣鏡が出土した。鏡背には神・霊獣と長命・子孫繁栄を願う銘文が鋳出され、鉄剣・鉄刀・鉄鏃・銅鏃等の金属製品も伴う。磐田市は、当時貴重だった金属製品を近畿地方の王たちとの交流で得たと解説する。ただし三角縁神獣鏡を魏から卑弥呼へ下賜された鏡と同定する説、畿内政権による配布を想定する同笵鏡論、国内製作・舶載をめぐる議論には未解決点があり、新豊院山出土鏡1面だけから具体的な政治的服属関係を断定できない。本稿は、鏡を単独の威信財ではなく、墳形、埋葬位置、武器・鏃、先行墓群、太田川沖積地と小笠山丘陵を望む立地の組合せとして読む。丘陵先端の可視性は、被葬者が流域社会と交通を見渡す象徴的な位置を占めた可能性を示すが、視界分析には古地形・植生復元が必要である。出土資料は2022年に磐田市指定文化財となり、史跡では2027年まで斜面保護工事が行われている。寺院名を冠する古墳群であっても、古墳築造と中世寺院開創の間には約1,000年以上の隔たりがある。本稿は両者を宗教的連続として結ばず、同一地形が異なる時代の権威・記憶・保全を担った重層的文化景観として位置付ける。

キーワード:新豊院山古墳群/三角縁神獣鏡/前方後円墳/弥生墓制/2号墳/太田川/首長権/文化財保護

1 問題設定―鏡1面から古墳群全体へ

新豊院山古墳群は、磐田市向笠竹之内の新豊院背後、磐田原台地東縁に所在する。2号墳から出土した三角縁神獣鏡が広く紹介されるため、遺跡の価値が鏡1面へ集約されやすい。しかし国史跡としての核心は、弥生時代から古墳時代前期へ続く複数形式の墓を比較できる点にある。

静岡県資料は、1980年の調査により弥生時代中期の土器棺墓、弥生時代後期の土坑墓、古墳時代前期の台状墓と前方後円墳が確認されたとする。異なる時期・規模・埋葬方法の墓が同じ丘陵に築かれたことで、集団墓から突出した首長墓への変化を検討できる。

ただし、墓形式の変化をそのまま社会の単線的進歩とみなしてはならない。土器棺墓、土坑墓、台状墓、前方後円墳には、時期差だけでなく埋葬対象、集団構成、儀礼、造営労働の違いがある。各遺構の重複関係と出土土器編年を確認し、時間順序を精密化する必要がある。

2号墳は全長約28メートルの前方後円墳で、静岡県資料は県内最古級と評価する。「最古」という断定ではなく「最古級」である点が重要で、築造年代は土器、副葬品、墳丘形式、埋葬施設の組合せで更新され得る。比較対象と年代幅を明示しなければならない。

発掘調査が行われた1980年と史跡指定時の1987年では、測量技術、土器編年、前期古墳研究の基準が現在と異なる。旧報告の結論を尊重しつつ、航空レーザー測量、地中レーダー、放射性炭素年代等による非破壊的な再検討が可能かを評価する必要がある。

史跡指定日は1987年7月3日で、文化庁データベースに国指定史跡として登録される。発掘から指定まで約7年あり、その間に整理、報告、評価、範囲決定が行われたと考えられる。指定理由と調査成果を理解するには、指定申請書と発掘報告書の確認が必要である。

本稿では、遺構の継続、2号墳の墳形・埋葬、副葬鏡と武器、広域交流、眺望と立地、現代の保存という6つの要素を結ぶ。鏡の製作地論争だけに偏らず、鏡がどの墓へ、何とともに、どの景観のなかで置かれたかを重視する。

また古墳群が「新豊院山」と呼ばれるのは現存寺院との位置関係による現代的識別であり、古墳時代の名称ではない。古墳の造営者が後世の虚空蔵信仰や曹洞宗寺院を予見したわけではない。寺院史と古墳史の時間差を明示する必要がある。

研究上の問いは3つである。第1に墓制変化は地域集団の階層化をどう示すか、第2に鏡と武器類は広域関係のどの水準を示すか、第3に台地端の立地と現代保全は古墳の可視性をどう変えたかである。確定資料と解釈を分けて検討する。

新豊院の本堂と境内全景
新豊院境内。本堂背後には国指定史跡の新豊院山古墳群が所在するが、古墳群と中世寺院の成立には大きな時間差があり、連続的な宗教利用を示す史料は未確認である。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

2 弥生墓制から前方後円墳への移行

弥生時代中期の土器棺墓は、土器を埋葬容器として用いる墓であり、後期の土坑墓は地面を掘り込む埋葬施設である。公開資料だけでは基数、年齢構成、副葬品、配置を確認できないが、丘陵が古墳築造以前から死者を葬る場所だったことは重要である。

埋葬地の継続は、同一集団が途切れず墓地を使用したことを必ずしも意味しない。時期ごとの空白、墓域の移動、先行墓の認識、偶然の再利用を検討する必要がある。先行墓を古墳造営者が目視できたか、破壊・保存したかは遺構平面と層位から判断される。

先行する小規模墓と大型化した墳丘の関係を明らかにするには、各墓の年代誤差を同じ尺度で示す必要がある。土器型式だけでなく、炭化物が残る場合の年代測定、埋土の形成順、切り合いを統合し、数10年単位の変化と数100年単位の変化を混同しない。

古墳時代前期の台状墓は、平坦面または方形に区画した高まりを伴う墓として、弥生墳丘墓と古墳の関係を考える手掛かりとなる。ただし「台状墓」という報告上の分類が、地域間で同一の形態・年代を指すとは限らない。規模、周溝、埋葬主体を具体的に比較すべきである。

前方後円墳の採用は、墳丘形態に関する広域的な情報と造営技術が向笠へ届いたことを示す。全長約28メートルは巨大古墳ではないが、形状を測量し、土を運び、埋葬施設を築く共同作業を必要とする。規模だけで権力を測らず、地域人口と労働量の比率を考える必要がある。

1号墳と2号墳の前後関係、墳丘の向き、周溝、葺石、埴輪の有無は、地域が前方後円墳制をどのように受容したかを知る基礎情報である。紹介資料にない要素を「存在した」と補わず、発掘図面・土層図・遺物一覧を参照して項目別に確認しなければならない。

墓制の変化を社会階層化と結び付けるには、墓の規模差、埋葬施設、労働投入、副葬品格差、居住遺跡との関係を総合する必要がある。豪華な副葬品を持つ1基だけで、周辺集団全体の政治構造を決められない。一般成員の墓と集落資料を比較することが不可欠である。

新豊院山の価値は、前方後円墳が突然出現したという物語より、同じ丘陵の埋葬利用が形式と規模を変えた点にある。死者の扱い、墓域の選択、造営参加者、記念性がどの段階で変化したかを追えば、弥生・古墳の時代区分を地域社会の実践として捉え直せる。

デジタル展示では、時期別の墓を同じ平面図に重ね、土器棺墓、土坑墓、台状墓、前方後円墳を色分けするとよい。ただし遺構の原位置と推定復元を線種で分け、調査区外を空白として残す。見つかっていない場所を墓がなかった場所と誤認させない配慮が必要である。

新豊院へ向かう参道と石柱
向笠竹之内の集落から新豊院へ向かう参道。寺院、向笠城跡、背後の台地を結ぶ動線は、領主伝承と村落寺院の関係を空間的に検討する手掛かりとなる。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

3 2号墳の三角縁神獣鏡と銘文

磐田市の『いわた文化財だより』によれば、2号墳の棺内から三角縁神獣鏡が出土し、直径は21.5センチメートル、最大厚は約1センチメートルである。鏡面ではなく背面に神、霊獣、銘文が鋳出され、縁の断面が三角形状であることが名称の由来となる。

銘文は鏡の製作、邪を避けること、長命や子孫繁栄への願いに関わる語句を含むと紹介される。文字列には摩耗、鋳上がり、異体字、釈読差があり得るため、公開された翻刻を唯一の読みとして固定せず、実測図、赤外線画像、3次元形状で文字を再確認する必要がある。

鏡が棺内から出土したことは、被葬者の身体と近接して置かれた可能性を示す。頭部・胸部・足元のどこか、鏡面の向き、破砕の有無、布・木製容器の痕跡によって儀礼的意味は変わる。紹介文だけで「胸に抱かせた」「魔除けにした」と具体化してはならない。

三角縁神獣鏡は、古墳時代前期の有力古墳に副葬され、同じ鋳型または原型関係を持つ鏡が遠隔地で確認されることから、広域政治関係を考える資料となってきた。椿井大塚山古墳の文化庁解説も、同笵鏡論と大和政権から各地への配布説の研究史的重要性を示す。

一方、三角縁神獣鏡の製作地、舶載・国内製作、製作年代、同笵関係の形成、配布主体には議論がある。「卑弥呼が魏から受け取った100枚の鏡」と三角縁神獣鏡を結ぶ説は著名だが、新豊院山出土鏡を卑弥呼所持品と断定する証拠ではない。

重要なのは、この鏡の型式を正確に分類し、同笵・同型鏡の分布を確認することである。乳、神像、獣像、銘帯、鋸歯文・波文等の外区、鈕、縁の寸法を計測し、既知の鏡と比較する。肉眼の類似だけで同じ鋳型と判断せず、3次元計測による微細傷の一致を検討したい。

鏡の青銅成分と鉛同位体は、原料系統を考える補助資料になるが、製作工房を単独で決定するものではない。腐食、保存処理、試料採取位置の影響を明示し、形態・鋳造技法・分布と組み合わせる必要がある。非破壊分析を優先し、文化財への負担を抑える。

銘文の内容も政治文書として直読できない。長命、子孫、富貴を願う定型句は鏡という製品の吉祥表現であり、被葬者の実名や官職を記した墓誌ではない。図像と銘文が日本列島の受容者にどの程度読まれ、どの意味を与えられたかは別の問題である。

したがって三角縁神獣鏡は、被葬者の広域関係と儀礼的権威を考える強い手掛かりだが、具体的な王から被葬者へ直接授与されたことまでは示さない。確定できる出土状況と、配布モデル・政治関係という解釈段階を表示上も分けるべきである。

新豊院入口に残る石標
新豊院入口の石標。表面の文字、造立年、寄進者を精査すれば、近代以降の寺院表象と地域の支持基盤を明らかにできる。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

4 武器・鏃・107点の出土資料が示す関係

新豊院山古墳群の価値は鏡だけではない。磐田市資料は、2号墳から鉄・銅製の鏃等が出土したとし、寺院詳細の基礎資料には鉄剣・鉄刀等も挙げられる。文化財保護審議会報告では、発掘報告書掲載の土器・金属製品が合計107点と整理されている。

107点は107種類や107人分を意味しない。土器片を個体単位・破片単位のどちらで数えたか、金属製品の破片接合、保存処理後の番号付与によって数量の意味は変わる。指定品目一覧と発掘報告書の遺物番号を対応させる必要がある。

審議会報告は所在不明の大刀を指定対象から除いたことにも触れる。所在不明品を含む発掘時の全体像と、現存して指定された資料群は同じではない。展示やデータベースでは、出土確認、現存確認、指定対象、所在不明を別の状態として記録しなければならない。

鉄剣・鉄刀・鉄鏃は武力や狩猟、身分表示、葬送儀礼と関係し得るが、実戦使用を直接証明しない。刃こぼれ、研磨、折損、木質・漆の付着、配置を分析し、実用品、儀器、葬送時の新品等の可能性を検討する必要がある。

銅鏃は鉄鏃と材質が異なり、実用性、希少性、儀礼性の評価が課題となる。数量、形態、重量、茎部、研磨、装着痕を比較し、同時期の遠江・東海・畿内の古墳出土例と照合したい。銅製であることだけから非実用品と断定できない。

磐田市は、金属製品が当時貴重で、近畿地方の王たちとの交流により入手したと解説する。この解釈は、前方後円墳と威信財の広域分布を地域向けに要約したものと読める。ただし交易、贈与、婚姻、軍事同盟、再配布のどの経路かは個別資料から限定できない。

副葬品の組合せは、鏡だけ、武器だけより多くの情報を持つ。鏡による神仙・長命の表象、剣・刀による身体的権威、鏃による集団的武装または儀礼が、1人の被葬者へ集約された可能性がある。しかし被葬者の性別、年齢、役職、名は人骨・文書なしに断定できない。

金属製品の保存状態は、出土後の研究可能性を左右する。鉄製品は腐食によって原形や有機質付着物を失いやすいため、過去のX線写真、保存処理記録、保管湿度を継承する必要がある。再処理の際は旧処理剤を記録し、分析値への影響を明示するべきである。

今後は107点すべてについて、材質、寸法、重量、出土遺構、位置、保存状態、指定番号、保管場所、公開画像を統一台帳化する。鏡を代表資料として示しつつ、土器と小型金属品を検索可能にすれば、墓制・年代・儀礼の総合研究が可能になる。

新豊院本堂側面と縁側
新豊院本堂側面。寺院組織の長期史を明らかにするには、文献史料とともに建築部材、棟札、改修痕跡の年代調査が必要である。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

5 太田川を望む丘陵と首長権の景観

静岡県資料は、古墳上から太田川沖積地を挟み小笠山丘陵を一望できると記す。丘陵先端は平野から見上げられ、墓から平野を見渡せる相互可視性を持つ可能性がある。前方後円墳の造営地選択を、単なる空き地ではなく景観的行為として考えられる。

太田川流域は耕地、生産、集落、移動の基盤だったと考えられるが、古墳時代前期の河道と海岸線は現代と同じではない。沖積作用、河道変化、植生、後世の造成を復元し、どの範囲が実際に見えたかを地理情報システムで検証する必要がある。

眺望の良さを直ちに「支配領域を監視した」と表現するのは過剰である。墓は日常的な監視施設ではない。墳丘が共同体から見えること、葬送時に人々が丘陵へ移動すること、祖先の位置を地形へ固定することが、権威表象として働いた可能性を検討すべきである。

前方後円墳の向きも景観分析に関わる。前方部がどの方向を向き、尾根・平野・河川・古道とどう対応するかを測量図で確認する必要がある。現在の参道や寺院入口を古墳時代の儀礼路として扱わず、地形的に可能な接近経路を複数モデルで示す。

同じ磐田原台地周辺には銚子塚古墳、御厨古墳群等の有力古墳が分布する。墳丘規模、築造時期、鏡・武器、眺望、河川流域を同じ指標で比較すれば、新豊院山2号墳の被葬者が遠江全体の最上位か、太田川流域の地域首長かを相対的に検討できる。

ただし現代行政区域を古墳時代の政治領域へ投影してはならない。「磐田市の王」「向笠の王」という呼称は解説上分かりやすくても、領域と称号を確定する史料がない。被葬者を「首長層」「有力者」とする場合も、比較根拠を付す必要がある。

新豊院は中世後期に開創されたと伝わり、古墳群との間に約1,000年以上の隔たりがある。寺院が古墳を意識して立地したか、古墳を霊地として利用したかは未確認である。同じ丘陵に権威施設が重なる事実と、意図的継承という因果を分ける必要がある。

後世の墓地造成、参道、植林、斜面改変が古墳の見え方を変えた可能性もある。古写真、指定時測量図、発掘前地形、現代レーザー測量を比較すれば、どの起伏が古墳本来の墳丘で、どこが後世造成・崩落・保護工事による形かを区別できる。

現代の文化景観としては、寺院境内、墓地、古墳群、斜面林、太田川平野が一体となる。古代と中世を直接接続せず、同じ地形が時代ごとに埋葬、信仰、地域記憶、文化財保護の場へ再解釈された「場所の履歴」として展示することが望ましい。

鷲渓山新豊院の本堂正面
新豊院本堂正面。現存建物の建立・改修年代は棟札や修理記録による確認を要し、中世の開創伝承と建物の現状を直接結び付けることはできない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

6 結論―調査・指定・斜面保護をつなぐ

新豊院山古墳群は、弥生時代中期の土器棺墓、後期の土坑墓、古墳時代前期の台状墓と前方後円墳を含み、墓制の変化を同じ丘陵で検討できる国指定史跡である。2号墳の鏡だけでなく、先行墓群と墳丘形成の関係が学術的価値の中心にある。

全長約28メートルの2号墳は県内最古級の前方後円墳と評価される。規模は広域の巨大古墳より小さいが、地域社会にとって墳形情報、造営労働、埋葬施設、副葬品を集中させた重要な首長墓だった可能性がある。年代は「最古」と固定せず比較編年の更新に開く。

直径21.5センチメートルの三角縁神獣鏡は、神・霊獣・銘文を鋳出し、棺内へ納められた。広域交流と権威を示す重要資料だが、卑弥呼の鏡、特定王権からの直接授与、被葬者の政治的服属を単独で証明しない。同笵関係、成分、出土状況を統合して評価すべきである。

鉄剣・鉄刀・鉄鏃・銅鏃等を含む出土資料は、鏡と武器・飛道具が組み合わされた葬送表象を示す。報告書掲載107点と現在の指定対象には所在不明大刀等による差がある。発掘時記録、現存、指定、保管、展示を別々の状態で管理する必要がある。

立地は太田川沖積地と小笠山丘陵を望む磐田原台地東縁である。眺望は首長権の可視化を考える手掛かりとなるが、監視・領域支配を断定しない。古河道・植生・尾根形状を復元し、他の前期古墳と相互可視性・流域関係を比較する必要がある。

出土資料は2022年9月28日に磐田市指定文化財となり、同年の特別公開には316人が来場した。発掘後約42年を経て、遺物群が地域の文化財として再評価されたことを示す。指定は研究の終点ではなく、所在管理、保存処理、画像公開、再分析の基盤である。

史跡では2007年度にも法面保護工事が行われ、現在は2027年まで斜面工事のため裏山への立入を控えるよう案内される。墳丘への接近を制限することは活用の後退ではなく、急傾斜地と遺構を守る保存措置である。遠隔展示、3次元模型、発掘図の公開で代替できる。

以上より、新豊院山古墳群は、墓制の長期変化、前方後円墳制の地域受容、鏡・武器を介した広域関係、丘陵景観、発掘後の文化財化を1つの場所で研究できる。寺院との時間差を守りながら、古代の首長墓と現代の保全を重層的に示すことが最も学術的な公開方法である。

新豊院本堂の鷲渓山扁額
本堂に掲げられた「鷲渓山」の扁額。山号と寺号は現在の宗教施設を識別する資料であり、扁額自体の制作年代と筆者は追加調査を要する。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

参考文献・資料

  1. [1] 磐田市「新豊院山古墳群」。 新豊院裏山に弥生・古墳時代の墓が築かれたこと、2号墳が全長約28メートルの前方後円墳で三角縁神獣鏡と鉄・銅製鏃等が出土したこと、2027年まで保護工事により立入を控える案内を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  2. [2] 静岡県「しずおか文化財ナビ 新豊院山古墳群」。 磐田原台地東縁、太田川沖積地と小笠山丘陵を望む立地、1980年調査、弥生時代中期の土器棺墓、後期の土坑墓、古墳時代前期の台状墓・前方後円墳、2号墳が県内最古級とする評価を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  3. [3] 文化庁 文化遺産データベース「新豊院山古墳群」。 国指定史跡、所在地磐田市向笠竹之内、指定年月日1987年7月3日という基礎登録情報を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  4. [4] 磐田市教育委員会「いわた文化財だより 第212号」。 新豊院山古墳群出土資料の市指定、2号墳棺内出土の三角縁神獣鏡が直径21.5センチメートル・最大厚約1センチメートルであること、鏡背の神獣と銘文、近畿地方との交流という解釈を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  5. [5] 磐田市「令和4年度第1回磐田市文化財保護審議会報告」。 報告書掲載の土器・金属製品合計107点、所在不明の大刀を除く資料を市指定候補とした経緯、遺跡の時期と学術的位置付けを確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  6. [6] 磐田市教育委員会「いわた文化財だより 第213号」。 2022年10月29日から11月4日まで磐田市歴史文書館で行われた新指定文化財特別公開に316人が来場したことを確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  7. [7] 磐田市「磐田市文化財保存活用地域計画」。 新豊院山2号墳出土品の位置付け、史跡の保存状況、2007年度の法面保護工事、地域全体での文化財保存活用方針を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  8. [8] 文化庁 文化遺産オンライン「椿井大塚山古墳」。 多数の三角縁神獣鏡と鉄製武器が出土した前期前方後円墳、同笵鏡論、大和政権から各地への配布説が古墳時代研究上の重要論点であることを比較資料として確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  9. [9] ATAWI TEMPLE「新豊院 寺院詳細」。 寺院境内と史跡に連なる台地裾の現況を確認した。現地写真は古墳の墳丘・出土品写真ではないため、寺院と史跡の空間関係を示す文脈図版として用いた。 最終閲覧日:2026-07-24。

著者情報

大石浩之。富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役。静岡県磐田市を拠点として介護事業および不動産事業を運営する一方、ATAWI TEMPLEにおいて地域寺院資料の収集・整理・公開に取り組む。本論文は寺院・宗派の公式見解ではなく、表示した資料に基づく著者の研究成果である。

資料の追加および記載の訂正は、情報提供・訂正窓口で受け付けている。