ATAWI TEMPLE 地域寺院研究紀要

宣光寺梵鐘と徳川家康の遠江支配

1587年銘、豊田郡、見付の鋳造者、戦没者供養を史料批判する

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.24
資料検証
公開資料による検証済み

要旨

本稿は、磐田市見付の宣光寺に伝わる徳川家康寄進梵鐘を、磐田市指定文化財資料、家康関連の行政・観光資料、文化財保存活用地域計画、現地写真から再検討する。梵鐘は口径51.5センチメートル、高さ74センチメートルと紹介され、池ノ間の陰刻銘から、家康を施主として1587年に宣光寺地蔵菩薩のために寄進されたことが確認される。銘には「源家康」、見付周辺の郡名として「豊田郡」、鋳鐘に関与した見付在住の大工が記されるという。これらは、著名人の伝承にとどまらず、施主、祈願対象、年、地域認識、制作主体を同時に保存する一次資料的要素である。一方、戦国期に戦死した多数の武将の冥福を祈ったという説明や、「家康」銘ゆえに戦時の金属供出を免れたという語りは、公開資料で鐘銘本文との対応を確認できず、後世の伝承として分ける必要がある。本稿は、同時期の中泉御殿造営を直ちに寄進原因と断定せず、遠江支配の拠点形成、見付の地域工人、地蔵信仰が交差する政治的・宗教的贈与として梵鐘を位置づける。さらに、鐘を「鳴る銘文」と捉え、音、鋳造技術、戦時供出、文化財指定という物質の履歴を含む地域史料として評価する。

キーワード:宣光寺/梵鐘/徳川家康/天正15年/豊田郡/中泉御殿/地蔵菩薩/見付

1 問題設定―家康伝承から鐘銘の分析へ

宣光寺の梵鐘は、徳川家康ゆかりの文化財として広く紹介される。磐田市の市指定文化財一覧は、1587年に家康が寄進した釣鐘であり、徳川氏の遠江支配を知る貴重な資料と評価する。著名な施主名は理解しやすい反面、梵鐘を「家康が贈った物」という1点へ縮約すると、銘文に記された祈願対象、郡名、制作関係者、鐘が鳴らされた地域空間を見失う。

研究の出発点は、物と説明を分けることである。現地写真から、現在の梵鐘、鐘を懸ける施設、鐘楼前の由緒碑を確認できる。行政・観光資料は、池ノ間に陰刻銘があるとする。しかし公開ウェブ資料だけでは銘文全文、高精細拓本、文字配置、摩耗状態を確認できない。従って本稿は、公表された判読内容を用いながら、未公開部分を補作しない。

寸法について、磐田市の広報資料は口径51.5センチメートル、高さ74センチメートルとする。この数値が総高、鐘身高、竜頭を含むかという測定定義までは誌面から分からない。文化財記録では「高さ74センチメートル」とだけ転記せず、測定箇所を原台帳で確認する必要がある。数字は精密に見えるほど、測定条件の明示が重要になる。

鐘の池ノ間は鐘身を縦横の帯で区切った区画で、ここへ銘を陰刻することにより、音を出す工芸品が文字史料にもなる。銘文は後世の伝記より制作時点に近いが、すべての動機を記すとは限らない。定型的な願文、施主の政治的表現、寺側の要請、鋳物師の署名が異なる目的で同じ鐘面へ配置される。

本稿では確実性を3段階に分ける。第1は、市指定資料と銘文解説が一致する1587年、施主家康、宣光寺地蔵菩薩への寄進である。第2は、銘文にあると説明される「源家康」「豊田郡」、見付在住の大工である。第3は、戦没武将供養や戦時供出回避など、地域で継承されるが銘文全文・供出台帳との照合を要する伝承である。

この階層化は伝承を否定するためではない。梵鐘が戦争、供養、町の誇りと結び付けられた過程自体が後世の歴史である。ただし、1587年に刻まれた内容と20世紀以降に語られた内容を同じ時点の証言として扱うと、物から読み取れる情報と地域記憶の形成過程の双方を不鮮明にする。

銘文の再調査では、正面写真1枚だけでなく、斜光、反射変換撮影、拓本、3次元計測を組み合わせる必要がある。陰刻線は錆、鋳肌、後世の傷と区別しにくく、判読者によって字形が変わり得る。翻刻には行位置、欠損、推定補字を表示し、既刊の読みに変更を加える場合は根拠画像を残すべきである。

宣光寺に伝わる徳川家康寄進梵鐘
宣光寺の梵鐘。1587年の寄進、施主、地蔵菩薩、郡名、制作関係者は鐘銘解説に基づき、写真だけで全文を判読したものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

2 1587年銘が確定する寄進の骨格

浜松・浜名湖ツーリズムビューローの解説は、池ノ間の陰刻銘から、家康が施主となり、1587年に宣光寺地蔵菩薩のために寄進したことが分かるとする。磐田市指定文化財一覧も同じ年と施主を掲げる。異なる公的資料が共通して鐘銘を根拠にするため、この骨格は公開情報の範囲で確認済みと扱える。

重要なのは、寄進先の寺名だけでなく「宣光寺地蔵菩薩のため」という祈願対象が示される点である。第1論文で検討した木造地蔵菩薩坐像には1160年の造立記録と1578年修理墨書がある。1587年は修理の9年後に当たり、古像の修理と梵鐘寄進が短い期間に続く。ただし、この時間的近接だけで両事業を同じ計画・同じ願主によるものと断定できない。

修理と寄進を結び付けるには、1578年像内墨書の願主、修理者、安置所と、1587年鐘銘の寺僧、檀那、鋳造者を比較する必要がある。もし共通人物や地名があれば、地蔵堂の再整備過程を復元できる可能性がある。逆に共通項がなければ、古像修理後に政治的施主が新たな音響・儀礼設備を加えた別事業として考えるべきである。

広報いわたは鐘身に「源家康」の銘文があると紹介する。「源」は徳川家康が自らを源氏系譜へ位置づける名乗りであり、単なる個人署名ではない。ただし、銘文中の完全な肩書、敬称、配置を確認せず、「源家康」の4字だけから官位・系譜政策の詳細まで導くのは危険である。拓本と全文翻刻が不可欠となる。

1587年という年も、後の江戸幕府将軍という完成した像から逆算せず、当時の家康の立場で読む必要がある。公的解説は同時期に中泉御殿が造営されていたとする。この地域に支配・滞在の施設を整えつつ、寺院の地蔵菩薩へ鐘を寄進したことは、政治拠点と宗教施設が別々に存在したのではなく、地域統治の空間で近接していたことを示す。

一方で、中泉御殿造営が梵鐘寄進の直接原因だったと記す同時代文書は、公開資料では示されていない。「当時は御殿造営期で、遠江支配との関係から寄進したと考えられる」という公式解説は、有力な歴史的解釈であって鐘銘の逐語的内容とは区別すべきである。データベースでは銘文確認事項と解説者の推論を別欄に置く。

寄進年を歴史的画期として評価するには、家康側文書だけでなく寺側の受領過程も必要である。鐘を受け取った僧、地蔵堂または鐘楼の整備、最初の撞鐘法要、維持費を負担した人々が分かれば、政治的贈与が地域の制度へ組み込まれる過程を追える。寄進は完成品の受け渡し1日で終わらず、設置と使用によって社会的意味を得る。

梵鐘の寄進対象となった地蔵菩薩を祀る宣光寺地蔵堂
宣光寺地蔵堂。鐘銘は1587年の寄進対象を宣光寺地蔵菩薩とする。現存堂の建立年代を同年とみなす資料は確認していない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

3 豊田郡と見付在住の大工―地域情報としての銘

鐘銘には、見付周辺の郡名として「豊田郡」と記されるという。公的解説は、見付宿が近世以降は磐田郡に属することとの相違へ注意を促す。郡名は単なる所在地ラベルではなく、鐘が鋳造された時点の地域認識、寺院と制作主体が用いた行政・地理語彙を保存する。

後世の住所から「見付、磐田郡、磐田市」と一直線に置き換えると、1587年銘の豊田郡が誤記に見える。しかし郡境・郡名の運用は時代によって変わり、公文書、寺社文書、地域の自己認識が必ずしも同時に更新されるわけではない。鐘銘の表記を基準点として、同時期の朱印状、検地帳、寺社領文書、他の在銘工芸品と比較する必要がある。

銘文はさらに、鋳鐘に関わった大工が見付在住の職人であったことを伝えるという。梵鐘銘でいう大工は、建築の大工と同一とは限らず、鋳造工程を統括した工人を指す場合がある。公開解説では氏名と役割分担が示されないため、本稿では「見付在住の鋳鐘関係者」とし、鋳物師系譜を推定で結び付けない。

梵鐘の制作には、銅・錫などの原料、原型と鋳型、土、燃料、炉、送風、運搬、吊り上げが必要である。口径約51.5センチメートルの鐘であっても、寺院境内だけで完結する作業ではない。見付在住の職人が銘記されたことは、宿場成立前後の町に金属加工と事業調整の能力が存在した可能性を示す。

ただし、鋳造場所が宣光寺境内だったか、職人の工房だったか、材料をどこから得たかは公開資料では分からない。鋳造遺構、炉壁、鋳型片、地名、職人屋敷、同じ大工名をもつ鐘を調べる必要がある。完成品の移動は容易ではないため制作地の比定は重要だが、重いという一般論だけで現地鋳造を確定してはならない。

「家康の鐘」という呼称は施主を前面に出すが、物を実際に設計・鋳造した地域工人の存在を銘が保存した点にこそ、地域史料としての強みがある。権力者の名と無名化されやすい技術者を同じ鐘面から読むことで、寄進を一方向の恩恵ではなく、政治的資源、寺院の要望、地域技術が交差する共同制作として捉え直せる。

金属組成の分析は、原料調達と後世補修を区別する手掛かりになる。蛍光X線などの非破壊分析で部位ごとの銅、錫、鉛等を測り、鋳掛けや亀裂補修の箇所と比較すれば、鐘身が1回の鋳造状態をどの程度保つかを検討できる。ただし表面腐食層の値を内部組成へ直結させず、分析条件と誤差を公開しなければならない。

宣光寺の家康寄進梵鐘を説明する由緒碑
鐘楼前の「家康寄進の梵鐘」碑。著名な施主だけでなく、銘に残る郡名と見付の制作関係者を地域史として読む必要がある。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

4 戦没者供養という解釈の根拠と限界

磐田市観光協会と広報いわたは、戦国時代に戦死した多くの武将のため、家康が延命地蔵菩薩へ冥福を祈って鐘を寄進したと説明する。これは地域で公的に共有される重要な由来である。しかし、公開された鐘銘の要約が明示するのは施主、年、地蔵菩薩への寄進であり、「多くの武将」が銘文にどの語で記されるかは確認できない。

梵鐘寄進が追善供養を目的とすること自体は宗教史上不自然ではない。鐘声は法要の時を知らせ、聴く者を仏道へ導き、死者供養と結び付けられる。ただし一般的な梵鐘観から個別の戦死者を推定してはならない。銘文に「戦死」「亡魂」「菩提」などの語があるか、願文を誰が作ったかを拓本で確かめる必要がある。

1587年までに家康が経験した戦争を列挙し、特定の合戦犠牲者の鐘とする説明も慎重であるべきだ。広報資料は長篠の戦いや本能寺の変などを経た時期として紹介するが、時間的先行だけでは追善対象を特定できない。敵味方を含むのか、家臣に限るのか、地域の戦没者を含むのかは、願文または寺院記録がなければ確定しない。

一方、後世に戦没者供養の鐘として語られた事実は、宣光寺と地域が戦争の記憶をどのように受け止めたかを示す。地蔵菩薩は境界と死者、救済に関わる信仰を集め、鐘は音によって寺域を越える。両者が結び付くことで、個別名の分からない死者を広く追悼する物語が形成された可能性がある。

研究記述では、「鐘銘から戦没者供養が確認できる」とせず、「磐田市・観光協会は戦死した武将の冥福を祈る寄進と紹介する。公開された銘文全文による確認は今後の課題」とするのが適切である。これにより地域伝承を掲載しながら、確定史実との境界を読者へ示せる。

伝承の成立時期を調べるには、宣光寺由緒書、近世地誌、1921年の『静岡県磐田郡誌』、戦前の観光案内、文化財指定調書を年代順に比較すべきである。初期資料に戦没者供養がなく、後世に現れるなら、その時代の顕彰・平和意識が加わった可能性がある。早期から一貫して記されるなら、現存銘以外の寺蔵史料を共有していた可能性が高まる。

供養対象の範囲は、鐘の社会的意味を左右する。特定の家臣、徳川方の戦死者、敵味方を越えた死者、地域住民を含む無縁の死者では、願文の倫理と政治性が異なる。後世の説明で対象が「多くの武将」へ一般化されたなら、それは個別戦争の勝敗から普遍的追悼へ記憶を組み替える働きをもった可能性がある。

宣光寺の由緒と文化財を記した案内板
磐田市文化財課設置の境内案内板。現地で由緒と指定文化財を理解する入口となる一方、個々の年代は県・市の指定資料と照合する必要がある。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

5 鳴る文化財、戦時供出、2005年指定

梵鐘は文字を読む工芸品であると同時に、打ち鳴らす道具である。鐘の大きさ、肉厚、合金、形状は音の立ち上がりと余韻に関わり、音は築地塀や町境を越えて届く。どの時刻・法要で鳴らされたかを示す記録があれば、宣光寺を中心とする見付の時間秩序を復元できる。

文化財保護の観点では、鳴らすことと保存することの調整が必要になる。撞木の材質、打点、回数、亀裂、腐食、吊金具、地震時の揺れは鐘の寿命に関わる。現在も使用されるか、儀礼時のみか、常時停止かは公開資料で確認できないため、現地写真だけで判断しない。音響測定も所有者の許可と保存担当者の立会いを前提とすべきである。

民間紹介では、「家康」の刻印があるため戦時中の金属供出を免れたと語られる。この説明は魅力的だが、磐田市の市指定文化財ページや家康ゆかりの地解説では確認できない。供出命令、寺院の申請、文化財認定、除外証明、当時の写真などを確認するまで、事実ではなく伝承として扱う必要がある。

仮に供出を免れたことが確認できても、理由が家康銘だけとは限らない。古鐘としての価値、行政判断、地域の保存運動、代替金属の提供、輸送時期など複数の要因があり得る。同時期に見付・磐田地域で供出された梵鐘と残った梵鐘を一覧化し、銘、年代、指定状況を比較することで、保存選択の実態が見える。

現在の梵鐘は2005年11月21日に磐田市指定有形文化財となった。指定は家康との関係だけでなく、安土桃山時代の工芸品、遠江支配を知る歴史資料としての価値を公認したものである。指定後の保存環境、公開、説明板、地域計画への位置づけも、物の履歴の新しい段階となる。

磐田市文化財保存活用地域計画は、家康寄進梵鐘を見付地区の主要文化財に含め、中泉御殿表門、旧見付宿関係資料などと同じ歴史文化圏で扱う。この枠組みにより、寺宝を境内だけの孤立した物ではなく、政治拠点、街道、宿場、工人、地蔵信仰を結ぶ地域資産として保存・活用できる。

音を文化財情報として保存する場合は、鐘からの距離、方向、高さ、気温、湿度、風、撞木、打撃強度、録音機器を記録する必要がある。単一の録音を「本来の音」とせず、季節と条件を変えた測定を比較する。周辺住民への配慮と法要の尊厳を守り、研究目的の反復打鐘を当然視しないことも保存活用の条件である。

宣光寺の本堂と地蔵堂を含む境内
本堂と地蔵堂を含む現在の境内。尊像の伝来経路を考えるには、現在地だけでなく修理銘、旧堂、寺伝、地域史料の照合が必要である。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

6 結論―政治的贈与と地域制作をつなぐ梵鐘

宣光寺梵鐘について確実に確認できる骨格は、池ノ間の陰刻銘を根拠に、家康が施主となり、1587年に宣光寺地蔵菩薩のために寄進したという点である。口径51.5センチメートル、高さ74センチメートルと紹介され、銘には「源家康」「豊田郡」、見付在住の鋳鐘関係者が記されるという。2005年に市指定文化財となった。

本稿の新たな知見は、この鐘を家康顕彰の記念物だけでなく、4つの関係を固定した媒体として捉えた点にある。施主と寺院の政治的関係、地蔵菩薩を介する宗教的関係、豊田郡という地域認識、見付の工人が担う技術的関係である。鐘が鳴るたび、この複合的な贈与は町の音環境へ反復された。

中泉御殿造営との同時性は、寄進を遠江支配の文脈へ置く有力な手掛かりである。しかし、御殿建設が直接の寄進理由だったこと、鐘が統治宣伝のため鳴らされたことまでは証明されない。政治史的背景と鐘銘の内容を分けることで、家康の行為を過大にも過小にも評価しない記述が可能になる。

戦没武将の冥福を祈ったという説明は地域記憶として掲載価値が高いが、公開銘文全文との対応は未確認である。戦時中に家康銘によって供出を免れたという語りも、供出台帳等の確認を要する。確認状態を表示すれば、伝承は削除されるのではなく、次に探すべき資料を示す研究仮説になる。

優先調査は、鐘銘の原寸拓本・全文翻刻・文字配置図、鋳造者名と同作例、金属組成と鋳造痕、吊金具と撞座の状態、近世・近代の鐘撞記録、戦時供出台帳、2005年指定調書である。とくに1578年地蔵像修理銘と1587年鐘銘の人名・地名を比較すれば、地蔵堂整備の連続性を検証できる。

公開データでは、「鐘銘による確認」「行政解説による推論」「地域伝承」を別のラベルで表示すべきである。銘文画像と翻刻を対応させ、判読不能字を無理に補わず、過去の翻刻との差分も残す。寸法には測定箇所、写真には撮影方向、音響記録には撞き方と機材を添えれば、将来の比較調査に耐える。

宣光寺梵鐘は、中央の権力者が地方寺院へ一方的に与えた物ではない。地蔵信仰を受け止める寺、地域を統治する施主、豊田郡という地理認識、見付の制作技術が同じ銘面へ刻まれた共同的な歴史資料である。政治・宗教・技術・音の4側面を統合して初めて、徳川氏の遠江支配を知る資料という市の評価を具体化できる。

比較研究では、1580年代の遠江・三河に残る在銘梵鐘を集成し、施主名、願文、郡名、工人名、寸法、鋳造技法を同じ項目で並べるべきである。宣光寺鐘だけを著名人ゆかりの特例として扱わず、同時代の寺社・村落が鐘を調達した仕組みの中へ戻すことで、家康寄進の政治的特質と地域工人の一般的活動を区別できる。

珠玉山宣光寺本堂正面
宣光寺本堂正面。現存する曹洞宗寺院の建物と、寺に伝来する平安後期の尊像は、成立年代を分けて記述しなければならない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

参考文献・資料

  1. [1] 磐田市「市指定文化財」。 宣光寺梵鐘の種別、2005年11月21日の指定、安土桃山時代、所在地・所有者、1587年の徳川家康寄進、遠江支配を知る資料という評価を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  2. [2] 公益財団法人浜松・浜名湖ツーリズムビューロー「徳川家康公ゆかりの地めぐり 磐田市」。 池ノ間の陰刻銘、家康が施主、1587年、宣光寺地蔵菩薩への寄進、「豊田郡」の郡名、見付在住の大工、中泉御殿造営との関係を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  3. [3] 磐田市「広報いわた 2023年3月号」。 梵鐘の口径51.5センチメートル、高さ74センチメートル、「源家康」銘、戦死者供養に関する市の紹介を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  4. [4] 磐田市観光協会「宣光寺」。 戦国時代に戦死した武将の冥福を延命地蔵菩薩へ祈って寄進された釣鐘という地域で共有される説明と所在地を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  5. [5] 磐田市「磐田市文化財保存活用地域計画」。 家康寄進梵鐘を見付地区の主要な市指定文化財として位置づけ、見付宿・中泉御殿関連文化財とともに扱う地域的枠組みを確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  6. [6] 磐田市「木造地蔵菩薩坐像・毘沙門天立像」。 寄進対象となった延命地蔵の呼称と、宣光寺文化財群の中で梵鐘に「源家康」銘があるという説明を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  7. [7] ATAWI TEMPLE「宣光寺 境内写真記録」。 梵鐘、鐘楼前の由緒碑、地蔵堂、文化財案内板、境内配置を2026年撮影の現地写真で確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。

著者情報

大石浩之。富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役。静岡県磐田市を拠点として介護事業および不動産事業を運営する一方、ATAWI TEMPLEにおいて地域寺院資料の収集・整理・公開に取り組む。本論文は寺院・宗派の公式見解ではなく、表示した資料に基づく著者の研究成果である。

資料の追加および記載の訂正は、情報提供・訂正窓口で受け付けている。