ATAWI TEMPLE 地域寺院研究紀要

最廣寺・最広寺・西広寺の表記史

1884年松ノ木島学校の所在をめぐる寺院同定と近代公共空間

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
追加調査中

要旨

『静岡県磐田郡誌』寺院編は松之木島の曹洞宗寺院を最廣寺と記す一方、教育編は1884年8月に野部学校分校の松ノ木島学校を「西広寺内」へ設けたと記す。本稿は、最廣寺・最広寺・西広寺の差を単純な誤植として処理せず、異体字、手書き原稿の誤読、植字、旧称、別寺院の可能性へ分解する。学校沿革、村会議事録、学籍簿、借用契約、地籍図、聞き取りを用いた同定手順を示し、同一性が確認される場合と否定される場合の双方から、松之木島の宗教・教育公共空間を再構成する。

キーワード:最廣寺/最広寺/西広寺/松ノ木島学校/1884年/寺院学校/史料同定

1 郡誌内部の3表記

研究対象は、静岡県磐田市松之木島314番地の1に所在する曹洞宗東渓山最廣寺(さいこうじ)である。宗派公式検索と静岡県宗教法人名簿により、旧字体の寺号、読み、所在地、宗派を固定する。磐田市内には見付・掛塚等に同音の西光寺があり、全国には最広寺・西広寺・西光寺が多数存在するため、松之木島、東渓山、学園寺末、地蔵菩薩、1592年満室銀重という識別条件を同時に満たす資料だけを寺院固有情報として採る。 本稿では最廣寺・最広寺・西広寺を先に同一視せず、字形・読み・所在地・宗派・記載章を持つ3候補レコードとして比較する。

本稿の核心は、1884年の松ノ木島学校設置場所を「西広寺内」とする郡誌教育編と、寺院編の「最廣寺」をどのように照合するかにある。音・字形・所在地から同一寺院の可能性はあるが、現段階で確定しない。学校史を最廣寺の実績として断定せず、表記異同それ自体を史料批判の対象にする。

「最廣寺」「最広寺」「西広寺」は、旧字体・新字体の差だけでは説明できない。「最」と「西」は別字であり、手書き原稿の誤読、植字ミス、聞き取り転記、旧称、別寺院の可能性がある。郡誌原本画像、目次、索引、同一編者の表記傾向を比較し、OCR文字列だけで判断しない。

最廣寺の由緒を伝える中心資料は1921年刊『静岡県磐田郡誌』である。同書は広瀬村松之木島字上川原、東渓山、浜名郡龍池村高薗の学園寺旧名覚音寺末、本尊地蔵菩薩、1592年の満室銀重和尚開創と記す。記事内容年と刊行年には329年の隔たりがあり、郡誌の記述を1592年作成の同時代証拠とは扱えない。寺蔵縁起、開山位牌、棟札、学園寺の末寺帳に同じ年次・僧名があるかを確認し、郡誌が参照した情報源を遡る必要がある。 本稿では最廣寺・最広寺・西広寺を先に同一視せず、字形・読み・所在地・宗派・記載章を持つ3候補レコードとして比較する。

宗派公式検索と県名簿は現在の最廣寺を確実に同定するが、山号、本尊、開創年の詳細を掲載しない。郡誌は歴史情報を与えるが、現在の本尊・伽藍を保証しない。現地写真は2026年の外観を記録するが、1592年の建築・本尊を直接示さない。現在情報、近代編纂史料、物質資料を分けることで、同じ寺院について異なる時点の情報を無理に1枚の静止画へ合成する誤りを避ける。 本稿では最廣寺・最広寺・西広寺を先に同一視せず、字形・読み・所在地・宗派・記載章を持つ3候補レコードとして比較する。

松之木島は天竜川下流左岸の輪中集落とされる。輪中は堤で囲まれた低地集落を示すが、一般的な木曽三川輪中の施設・組織を松之木島へそのまま適用できない。村内堤防、水屋、用排水、洪水履歴、耕地高、屋敷配置は地籍図、河川絵図、村方文書で確認する必要がある。最廣寺を輪中の寺と呼ぶ際も、寺地の標高、堤内外、避難・集会機能を具体的に示すべきである。 本稿では最廣寺・最広寺・西広寺を先に同一視せず、字形・読み・所在地・宗派・記載章を持つ3候補レコードとして比較する。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録8
東渓山最廣寺の現況記録8。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

2 学校資料による所在検証

学校同定には、郡誌以外の教育資料が必要である。野部学校沿革、松ノ木島学校学籍簿、教員辞令、村会議事録、校舎借用契約、地図、卒業写真、校舎移転記録を探索する。寺院内設置なら住職名、借用料、使用室、寺院行事との時間調整が記される可能性がある。

地域聞き取りでは、「寺の学校」「お寺の教室」という記憶がどの建物を指すかを地図上で確認する。語り手の出生年、情報源、世代間伝承を記録し、後世の最廣寺像から1884年を逆算しない。記憶の不一致は誤りとして消すのでなく、学校移転や寺号変化を示す手掛かりとして保存する。

『日本歴史地名大系』は、天正年間に鈴木次郎左衛門・与左衛門兄弟が高薗村から移住して松之木島村の草分けとなったと伝える。最廣寺の本寺学園寺も高薗に所在すると郡誌は記す。移住元と本寺所在地の一致は、村人が旧郷の法系を天竜川東岸へ移したという仮説を導く。しかし、人の移住と寺院の本末関係が同じ経路・同じ時期に成立したことは直接証明されない。 1884年松ノ木島学校の所在は設置伺、借用契約、学籍簿、村会費目、地籍図を照合し、郡誌教育編の1語だけで確定しない。

高薗から松之木島への移住を検証するには、鈴木家文書、宗門改帳、墓碑、屋号、土地取得、開発許可を調べる。学園寺と最廣寺の関係は末寺帳、開山・嗣法記録、住職派遣、法要記録で確認する。両者に満室銀重の名や同じ檀越名があれば、村形成と法系移動の関係が強まる。見つからない場合も、後世に高薗との関係が再編された可能性を残す。 1884年松ノ木島学校の所在は設置伺、借用契約、学籍簿、村会費目、地籍図を照合し、郡誌教育編の1語だけで確定しない。

天竜川は境界であると同時に交通路・渡河障害だった。本末関係が成立した時点の河道、渡し場、旧道を復元し、僧侶がどの経路で高薗と松之木島を往来したかを検討する必要がある。現在の橋・堤防から近世以前の距離を逆算しない。洪水による河道変化は寺檀関係を断絶させるだけでなく、対岸へ移住・法系を広げる契機にもなり得たという両面を検証する。 1884年松ノ木島学校の所在は設置伺、借用契約、学籍簿、村会費目、地籍図を照合し、郡誌教育編の1語だけで確定しない。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録9
東渓山最廣寺の現況記録9。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

3 寺院教室だった場合

同一寺院と確認された場合、最廣寺は明治初期の教育インフラを担ったことになる。当時は専用校舎が不足し、寺院の広間、識字資源、住職の知識、村の中心性が学校開設を可能にしたと考えられる。ただし授業内容・教員役を一般的寺子屋像から推定せず、学校規則と教員記録で確認する。

寺院が学校になったことを、近代化により宗教空間が世俗化したと一方向に解釈しない。法要・葬祭を継続しながら教室を併設した可能性、短期間だけ貸与した可能性、別堂を使用した可能性がある。時間割、校舎図、移転年月を確認し、宗教と教育が同じ場所をどう共有したかを検討する。

郡誌が本尊を地蔵菩薩とする記述は、1921年時点までに最廣寺の中心尊格として認識されていたことを示す。ただし現在の本尊像が1592年開創時の像か、後世の再造・修理像かは未確認である。像高、材質、寄木・一木の構造、表面仕上げ、持物、台座、光背、像内銘、修理札を調べ、尊名の継続と物質の継続を区別する。 最廣寺内の教室だった仮説は使用室・時間割・賃借・住職関与の痕跡を予測し、寺院一般の学校利用史で不足資料を補わない。

地蔵菩薩が村境、道、子ども、死者と結び付くという一般論は、輪中集落の具体的信仰を証明しない。水難者供養、洪水除け、子育て、道中安全のどれが最廣寺で重視されたかは、縁日、講、奉納物、墓碑、過去帳、聞き取りから確認する。輪中と地蔵を印象的に結び付ける前に、地域固有の祈願実践を示す必要がある。 最廣寺内の教室だった仮説は使用室・時間割・賃借・住職関与の痕跡を予測し、寺院一般の学校利用史で不足資料を補わない。

洪水は堂宇、本尊、過去帳、位牌、墓地に異なる被害を与える。松之木島の水害年表と寺院修理・再建年を照合し、被害・避難・復旧を物質資料から復元する。現在の伽藍が新しく見えても、寺号、墓域、檀家、法要が継承されていれば寺院制度は連続し得る。逆に古い部材が残っていても現在位置へ移築された可能性があるため、建築と制度の連続性を分ける。 最廣寺内の教室だった仮説は使用室・時間割・賃借・住職関与の痕跡を予測し、寺院一般の学校利用史で不足資料を補わない。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録10
東渓山最廣寺の現況記録10。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

4 別寺院・廃寺だった場合

西広寺が別寺院だった場合、松之木島の宗教景観は現行寺院一覧より多層的だったことになる。廃寺、庵、地蔵堂、通称寺院の可能性を、明治初期寺院明細帳、廃仏毀釈関係資料、地籍図、墓地、字名から調べる。別寺院説を排除せず、最廣寺の寺号史と並行して検討する。

廃寺・堂宇の学校転用は、最廣寺とは異なる地域公共史を示す。旧仏像・墓地・檀家がどこへ移管されたか、最廣寺が継承先だったかを確認すれば、表記混同の背景が説明できる可能性がある。寺院の統廃合を現存・消滅の2値で扱わず、人、物、土地、法要の移動として追跡する。

松之木島村では1611年、1660年、1671年に検地が行われ、村高は182石余から284石余へ増えたと地名大系は伝える。石高増加は耕地開発を示唆するが、単純な人口・豊かさの増加とは限らない。測量精度、石盛、新田編入、荒地復旧により帳簿値は変わる。最廣寺の寺領・除地がどのように扱われたかは、各検地帳と名寄帳で確認する。 別寺院または廃寺だった仮説は寺院明細帳、墓地、字名、仏像移管、学校移転記録を探索し、現存名簿にないことを不存在としない。

輪中内の新田開発は、堤防、排水、用水、共同労働、洪水リスクの再配分を伴う。寺院は法要・葬送だけでなく、寄合、勧化、災害後の救済、土地境界の記憶に関与した可能性があるが、具体的役割は史料で確認すべきである。寺院境内が相対的高地だったか、避難に使われたか、堤普請の寄付・祈願があったかを村方文書と地形測量から検討する。 別寺院または廃寺だった仮説は寺院明細帳、墓地、字名、仏像移管、学校移転記録を探索し、現存名簿にないことを不存在としない。

村高と寺院史を結ぶ際、最廣寺の開創1592年が近世検地より早いことに注目できる。寺院は確定した石高秩序の後に作られたのではなく、集落形成と耕地開発が進行中の時期に成立した可能性がある。開創地が現在地と同じか、洪水移転を経験したかを旧字上川原、地籍図、墓碑の年代分布から検証することで、村の空間形成と寺院立地を相互に読める。 別寺院または廃寺だった仮説は寺院明細帳、墓地、字名、仏像移管、学校移転記録を探索し、現存名簿にないことを不存在としない。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録11
東渓山最廣寺の現況記録11。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

5 検索と地名同定の設計

デジタル公開では、検索性のために異体表記を索引化しつつ、見出しは現行公式の最廣寺を用いる。本文では「郡誌教育編は西広寺と記す」と原表記を示し、同一性未確認を明記する。同音の西光寺や他地域最広寺を検索結果から除外するため、住所・宗派・山号・本寺・本尊をメタデータ化する。

行政地名も同様に時点を付す。松之木島村、広瀬村大字松之木島、豊岡村大字松之木島、磐田市松之木島は同地域の行政変遷を示す。一方、現在の磐田市豊岡は旧竜洋町域で別地域である。地名「豊岡」だけで寺院資料や学校資料を統合せず、郵便番号、旧村、座標で識別する。

1884年8月、野部学校の分校として松ノ木島学校が村内寺院へ設置されたと郡誌教育編は記す。しかし設置場所の表記は「西広寺内」で、寺院編の「最廣寺」と一致しない。同一寺院の異体表記・誤植・誤読である可能性はあるが、別堂宇または廃寺の可能性も排除できない。表記差を早く解消するより、原本版面、学校沿革、村会記録、学籍簿、地図で検証する。 検索設計では旧字・異体字・OCR誤認・旧村名を保持し、同音の西光寺や他地域最広寺を住所・山号・宗派で除外する。

明治初期に寺院が学校教室へ転用された例は全国にあるが、一般例の存在だけで西広寺を最廣寺と同定できない。松ノ木島学校の教員、児童数、校舎移転、使用室、寺院側責任者を確認し、最廣寺住職・檀家名と照合する。寺号の「最」と「西」、「廣」と「広」は筆記・活字・OCRで揺れやすいため、原画像と校正前原稿の比較が重要となる。 検索設計では旧字・異体字・OCR誤認・旧村名を保持し、同音の西光寺や他地域最広寺を住所・山号・宗派で除外する。

同一性が確認されれば、最廣寺は葬祭・信仰空間から近代教育の公共空間へ一時的に機能を拡張した事例となる。別寺院だった場合も、松之木島村に複数の宗教施設があったことが明らかになり、地域史を修正できる。どちらの結果でも研究価値があり、未確認段階で学校史を寺院の実績として断定しないことが必要である。 検索設計では旧字・異体字・OCR誤認・旧村名を保持し、同音の西光寺や他地域最広寺を住所・山号・宗派で除外する。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録12
東渓山最廣寺の現況記録12。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

6 結論:未確定情報が生む地域史

結論として、最廣寺と松ノ木島学校の関係は有力だが未確定である。この保留は研究の失敗ではなく、郡誌内部の表記不一致を可視化し、学校史・寺院史双方の追加資料を探索する出発点となる。同一性が確認されれば寺院の公共空間機能、否定されれば失われた宗教施設の存在という、どちらにも新しい地域史的意味がある。

新たな知見は、寺号表記問題を単なる誤字訂正にせず、明治初期の情報収集・植字・学校借用・寺院統廃合を検証する複合課題へ変換した点にある。郡誌の1語を無理に確定せず、原資料の系譜と空間証拠を追うことで、最廣寺が松之木島の教育・宗教・行政変化にどう関与したかを再現可能な形で示せる。

寺号表記は現行公式登録の「最廣寺」を基準とし、引用資料では「最広寺」「西広寺」等の原表記を保持する。検索用に異体字・新字体・音読を索引化するが、表示統一のために史料語を無言で置換しない。同音の西光寺を除外するため、所在地、宗派、山号、本寺、本尊を必須照合項目とする。旧豊岡村と現在の磐田市豊岡も別の地域であり、行政区域履歴を併記する。 結論の新規性は、表記差を誤植として消すのでなく、同一なら寺院教育史、別なら失われた宗教施設史を開く分岐証拠として保存する点にある。

公開情報では、現行確認、歴史資料、推定、未確認をラベル化する。最廣寺という法人・所在地・宗派は現行資料で確認できる。東渓山、地蔵菩薩、1592年、満室銀重、学園寺末は郡誌が伝える歴史情報である。学校所在の同一性、現在の本尊、年中行事、墓地、護持会は未確認である。この区分により、利用者は情報量の多さではなく確度を判断できる。 結論の新規性は、表記差を誤植として消すのでなく、同一なら寺院教育史、別なら失われた宗教施設史を開く分岐証拠として保存する点にある。

最廣寺研究の到達点は、1592年の古刹という紹介だけではない。高薗からの移住伝承と本寺法系、輪中形成と検地、地蔵信仰、1884年学校、現行寺号表記を、異なる証拠層として配置することで、寺院が集落形成・治水・教育・宗教をつなぐ可能性が見える。断定できない関係を明示することが、地域から新資料を受け入れられるデジタル郷土資料の条件となる。 結論の新規性は、表記差を誤植として消すのでなく、同一なら寺院教育史、別なら失われた宗教施設史を開く分岐証拠として保存する点にある。

調査台帳では、寺号、異体字、所在地、山号、宗派、本寺、本尊、人物、年月日、学校名、検地を別レコードにし、資料名、作成年、記事内容年、原本・写本・翻刻の別、引用頁、確認日を付す。同じ由緒が郡誌、地域記事、寺院ページに反復されても、引用関係があれば独立証拠として重複計上しない。仮説ごとに反証条件を示す。高薗連関説なら、移住家と学園寺法系を結ぶ人名・墓碑・末寺帳が予測される。輪中寺院説なら、検地帳の寺地、堤普請、洪水後修理、過去帳の災害記載が予測される。学校同一説なら、最廣寺住職名を含む借用・学籍・村会記録が予測される。資料が見つからなければ伝承を消すのではなく、確度と範囲を更新する。寺院調査は所有者の許可を得て非接触で行い、本尊・位牌・過去帳・墓碑の信仰上の非公開性と個人情報を守る。石造物は移動させず、文書は料紙、筆跡、印章、奥書、欠損、伝来箱を含めて記録する。公開後に地域・寺院から訂正が寄せられた場合は、旧記述を無言で置換せず、更新理由、出典、日付を残す。さらに、史料の不在を即座に事実の不存在へ読み替えない。寺院文書は火災、洪水、住職交代、寺檀関係の変化によって散逸しやすく、行政文書も保存年限や編纂時の選択を受けるからである。確認できない事項には未確認と資料未見を区別し、前者は関連史料を調べたが確証がない状態、後者は所在を把握しながら閲覧できていない状態として管理する。位置情報は現行住所を地図へ置くだけでなく、旧字、地番、河道、堤防、用水、旧道、集落境界を同一縮尺で重ねる。これにより現在の直線距離を歴史的な交通関係と誤認せず、徒歩経路、渡河点、洪水時の迂回、耕地への接続を復元できる。人物比定では同名僧・同姓住民を区別するため、法名、俗姓、住職在任期、師資関係、墓碑年紀、戸主名を照合し、年代が重ならない人物を同一人にしない。数量資料は石高、面積、戸数、人口の定義と基準年を併記し、村高の増加をそのまま人口増加や寺勢拡大へ換算しない。写真は撮影位置、方位、焦点距離、撮影年月、対象物を記録し、建物の新旧判定を外観だけで行わない。屋根材や外壁の更新と、柱・礎石・平面構成の年代は一致しない場合があるため、修理銘、棟札、建築確認資料、聞き取りを組み合わせる。聞き取りは語り手、実施日、質問、逐語記録、公開範囲を保存し、後世の説明を創建時の同時代記録と同列に扱わない。典拠画像を保存する場合は著作権と公開条件を確認し、公開できない原資料は請求記号と要約のみを示す。ウェブ資料には閲覧日を付し、更新・削除後も論証過程を点検できるよう保存機関の恒久識別子を優先する。こうした層別化により、確定事項、蓋然性の高い推定、検証待ちの仮説を読者が追試できる形で提示する。 結論の新規性は、表記差を誤植として消すのでなく、同一なら寺院教育史、別なら失われた宗教施設史を開く分岐証拠として保存する点にある。

著者は大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役)であり、介護事業および不動産事業を運営している。この開示は、地域、墓地、土地・建物に接する事業者としての立場を読者が評価できるようにするためである。本稿は寺院、供養、不動産に関する営業的勧誘を目的とせず、ATAWI TEMPLEによる地域寺院資料の保存と検証を目的とする。論証は著者の肩書ではなく、資料の同定、成立年、引用頁、反証条件によって評価され、事業上の利害を寺院の歴史評価へ混入させない。 結論の新規性は、表記差を誤植として消すのでなく、同一なら寺院教育史、別なら失われた宗教施設史を開く分岐証拠として保存する点にある。

最廣寺と松之木島村の形成・検地・学校設置を示す史料年表
松之木島の草分け伝承、1592年の最廣寺開創、近世検地、1884年の学校設置を分離した時間図。「西広寺」と最廣寺の同一性は未確定として表示した。ATAWI TEMPLE作成。

参考文献・資料

  1. [1] 静岡県磐田郡教育会・国立国会図書館デジタルコレクション「静岡県磐田郡誌 第13章「神社及宗教」最廣寺」。 松之木島字上川原、東渓山、学園寺末、本尊地蔵菩薩、1592年満室銀重開創を原本画像で確認する基礎史料。 最終閲覧日:2026-07-25。
  2. [2] 静岡県磐田郡教育会・国立国会図書館デジタルコレクション「静岡県磐田郡誌 教育編 松ノ木島学校」。 1884年8月に野部学校分校として松ノ木島学校を「西広寺内」へ設置したとの記述を確認。最廣寺との同一性は未確定。 最終閲覧日:2026-07-25。
  3. [3] 曹洞宗宗務庁「最廣寺」。 最廣寺の表記、読み、磐田市松之木島314-1、現在の曹洞宗寺院登録を確認。 最終閲覧日:2026-07-25。
  4. [4] 静岡県「静岡県知事所轄宗教法人名簿」。 現在の宗教法人最廣寺と所在地を確認する行政資料。 最終閲覧日:2026-07-25。
  5. [5] 平凡社『日本歴史地名大系』・DIGITALIO「松之木島村」。 輪中集落、高薗からの草分け伝承、村高、1611年・1660年・1671年の検地を確認する地域史資料。 最終閲覧日:2026-07-25。
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  10. [10] 磐田市「旧竜洋町の住所表示」。 現在の「磐田市豊岡」が旧竜洋町域で、旧豊岡村とは別地域であることを確認。 最終閲覧日:2026-07-25。
  11. [11] 国土交通省中部地方整備局浜松河川国道事務所「天竜川の概要」。 天竜川流域の地理、河川特性、治水史を輪中集落の広域背景として参照。 最終閲覧日:2026-07-25。
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  13. [13] 天竜浜名湖鉄道株式会社「敷地駅」。 旧豊岡地区の現在の農業・特産品に関する地域紹介を確認。 最終閲覧日:2026-07-25。
  14. [14] ATAWI TEMPLE「最廣寺 寺院詳細」。 現地写真、基本情報、確認済み事項と未確認事項の区分を確認。 最終閲覧日:2026-07-25。
  15. [15] e-Gov法令検索「宗教法人法」。 現行宗教法人登録と近世本末制度を混同しないための制度的基準として参照。 最終閲覧日:2026-07-25。

著者情報

大石浩之。富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役。静岡県磐田市を拠点として介護事業および不動産事業を運営する一方、ATAWI TEMPLEにおいて地域寺院資料の収集・整理・公開に取り組む。本論文は寺院・宗派の公式見解ではなく、表示した資料に基づく著者の研究成果である。

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