ATAWI TEMPLE 地域寺院研究紀要

最廣寺の1592年開創と高薗・学園寺法系

満室銀重、松之木島草分け、天竜川越しの本末関係をめぐる成立史

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
追加調査中

要旨

磐田市松之木島314番地の1の曹洞宗東渓山最廣寺は、1921年刊『静岡県磐田郡誌』に1592年、満室銀重和尚が開創し、天竜川対岸の高薗にある学園寺旧名覚音寺の末寺、本尊地蔵菩薩と記される。『日本歴史地名大系』は天正年間に高薗から移住した鈴木兄弟を松之木島村の草分けと伝える。本稿は、移住元と本寺所在地の一致を「高薗―松之木島連関仮説」として提示し、村人の移住と曹洞宗法系の移動が同じ経路を持ったかを、満室銀重、末寺帳、墓碑、旧河道から検証する。

キーワード:最廣寺/松之木島/1592年/満室銀重/学園寺/高薗/地蔵菩薩

1 1592年開創と村形成

研究対象は、静岡県磐田市松之木島314番地の1に所在する曹洞宗東渓山最廣寺(さいこうじ)である。宗派公式検索と静岡県宗教法人名簿により、旧字体の寺号、読み、所在地、宗派を固定する。磐田市内には見付・掛塚等に同音の西光寺があり、全国には最広寺・西広寺・西光寺が多数存在するため、松之木島、東渓山、学園寺末、地蔵菩薩、1592年満室銀重という識別条件を同時に満たす資料だけを寺院固有情報として採る。 本稿では1592年を郡誌が採録した開創年とし、草分け移住・寺地設定・堂宇建立が同年だったとの仮定を置かない。

本稿は1592年を、豊臣政権期という政治年表へ置くだけでなく、松之木島の草分け伝承、学園寺法系、満室銀重の活動が交差する記事内容年として分析する。文禄元年という年次は郡誌に由来し、開創棟札や位牌の確認を要する。「開創」が堂宇建立、庵の寺格化、住職入寺、本尊奉安のどれを指すかも未確定である。

天正年間の草分けが1573年から1592年の幅を持つため、1592年開創との前後関係を細かく決められない。村の形成直後に寺が開かれた可能性は高いが、移住者が先に定住したのか、寺が開発拠点となったのかは史料次第である。年代表現の精度差を保ち、草分け伝承を1592年の直前へ機械的に固定しない。

最廣寺の由緒を伝える中心資料は1921年刊『静岡県磐田郡誌』である。同書は広瀬村松之木島字上川原、東渓山、浜名郡龍池村高薗の学園寺旧名覚音寺末、本尊地蔵菩薩、1592年の満室銀重和尚開創と記す。記事内容年と刊行年には329年の隔たりがあり、郡誌の記述を1592年作成の同時代証拠とは扱えない。寺蔵縁起、開山位牌、棟札、学園寺の末寺帳に同じ年次・僧名があるかを確認し、郡誌が参照した情報源を遡る必要がある。 本稿では1592年を郡誌が採録した開創年とし、草分け移住・寺地設定・堂宇建立が同年だったとの仮定を置かない。

宗派公式検索と県名簿は現在の最廣寺を確実に同定するが、山号、本尊、開創年の詳細を掲載しない。郡誌は歴史情報を与えるが、現在の本尊・伽藍を保証しない。現地写真は2026年の外観を記録するが、1592年の建築・本尊を直接示さない。現在情報、近代編纂史料、物質資料を分けることで、同じ寺院について異なる時点の情報を無理に1枚の静止画へ合成する誤りを避ける。 本稿では1592年を郡誌が採録した開創年とし、草分け移住・寺地設定・堂宇建立が同年だったとの仮定を置かない。

松之木島は天竜川下流左岸の輪中集落とされる。輪中は堤で囲まれた低地集落を示すが、一般的な木曽三川輪中の施設・組織を松之木島へそのまま適用できない。村内堤防、水屋、用排水、洪水履歴、耕地高、屋敷配置は地籍図、河川絵図、村方文書で確認する必要がある。最廣寺を輪中の寺と呼ぶ際も、寺地の標高、堤内外、避難・集会機能を具体的に示すべきである。 本稿では1592年を郡誌が採録した開創年とし、草分け移住・寺地設定・堂宇建立が同年だったとの仮定を置かない。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録1
東渓山最廣寺の現況記録1。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

2 満室銀重和尚の人物同定

満室銀重和尚は開創者として記されるが、法諱の読み、出生、師僧、嗣法、示寂年、他寺歴住は公開資料で確認できない。同名僧を寺号検索だけで結び付けず、学園寺歴住帳、最廣寺開山位牌、近隣寺院の開山記録を照合する必要がある。開山と開基の区別も明示し、土地・資金を提供した檀越が別にいた可能性を探る。

満室銀重が学園寺から派遣されたなら、僧侶の移動が高薗から松之木島への村人移住と並行した可能性がある。しかし、郡誌は満室銀重の所属を明記しない。法系上の師弟関係、住職任命、寺号授与を確認し、後世に学園寺末へ編入された可能性も残す。本末関係の成立年を開創年と同一視しない。

『日本歴史地名大系』は、天正年間に鈴木次郎左衛門・与左衛門兄弟が高薗村から移住して松之木島村の草分けとなったと伝える。最廣寺の本寺学園寺も高薗に所在すると郡誌は記す。移住元と本寺所在地の一致は、村人が旧郷の法系を天竜川東岸へ移したという仮説を導く。しかし、人の移住と寺院の本末関係が同じ経路・同じ時期に成立したことは直接証明されない。 満室銀重は法名表記、示寂年、師資関係、学園寺歴住を照合し、類似法名や後世の追諡を排除して人物同定する。

高薗から松之木島への移住を検証するには、鈴木家文書、宗門改帳、墓碑、屋号、土地取得、開発許可を調べる。学園寺と最廣寺の関係は末寺帳、開山・嗣法記録、住職派遣、法要記録で確認する。両者に満室銀重の名や同じ檀越名があれば、村形成と法系移動の関係が強まる。見つからない場合も、後世に高薗との関係が再編された可能性を残す。 満室銀重は法名表記、示寂年、師資関係、学園寺歴住を照合し、類似法名や後世の追諡を排除して人物同定する。

天竜川は境界であると同時に交通路・渡河障害だった。本末関係が成立した時点の河道、渡し場、旧道を復元し、僧侶がどの経路で高薗と松之木島を往来したかを検討する必要がある。現在の橋・堤防から近世以前の距離を逆算しない。洪水による河道変化は寺檀関係を断絶させるだけでなく、対岸へ移住・法系を広げる契機にもなり得たという両面を検証する。 満室銀重は法名表記、示寂年、師資関係、学園寺歴住を照合し、類似法名や後世の追諡を排除して人物同定する。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録2
東渓山最廣寺の現況記録2。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

3 高薗学園寺との本末関係

学園寺は郡誌で旧名覚音寺とされ、浜松市史には学薗寺表記が見える。学園・学薗・覚音という表記差と寺号変遷を、本寺側の法人登録、山号、所在地、歴住資料で確認する必要がある。名称が似る別寺院を混同せず、高薗という所在地と曹洞宗法系を同定条件に加える。

本末関係を川の両岸を結ぶ制度として捉える際、宗教的上下関係だけでなく、住職供給、修行、葬祭、寺務、災害時支援の移動を検討する。天竜川の渡河が困難でも法系が維持されたなら、特定の渡し場や親族・村落関係が支えた可能性がある。末寺帳と村人の移住記録を同じ地図に置くことで、人と法灯の移動を比較できる。

郡誌が本尊を地蔵菩薩とする記述は、1921年時点までに最廣寺の中心尊格として認識されていたことを示す。ただし現在の本尊像が1592年開創時の像か、後世の再造・修理像かは未確認である。像高、材質、寄木・一木の構造、表面仕上げ、持物、台座、光背、像内銘、修理札を調べ、尊名の継続と物質の継続を区別する。 高薗学園寺との本末関係は末寺帳・住職嗣法・法要協力を時点別に調べ、移住元の一致だけで成立年代を決めない。

地蔵菩薩が村境、道、子ども、死者と結び付くという一般論は、輪中集落の具体的信仰を証明しない。水難者供養、洪水除け、子育て、道中安全のどれが最廣寺で重視されたかは、縁日、講、奉納物、墓碑、過去帳、聞き取りから確認する。輪中と地蔵を印象的に結び付ける前に、地域固有の祈願実践を示す必要がある。 高薗学園寺との本末関係は末寺帳・住職嗣法・法要協力を時点別に調べ、移住元の一致だけで成立年代を決めない。

洪水は堂宇、本尊、過去帳、位牌、墓地に異なる被害を与える。松之木島の水害年表と寺院修理・再建年を照合し、被害・避難・復旧を物質資料から復元する。現在の伽藍が新しく見えても、寺号、墓域、檀家、法要が継承されていれば寺院制度は連続し得る。逆に古い部材が残っていても現在位置へ移築された可能性があるため、建築と制度の連続性を分ける。 高薗学園寺との本末関係は末寺帳・住職嗣法・法要協力を時点別に調べ、移住元の一致だけで成立年代を決めない。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録3
東渓山最廣寺の現況記録3。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

4 字上川原と寺院立地

1592年の寺院立地を字上川原と現在地314番地の1へ直結できるかは未確認である。上川原という小字は河川・低地との関係を示唆するが、旧字界、河道、堤防、屋敷配置を地籍図で確認する必要がある。洪水による移転や境内拡張があれば、墓碑年代と建築部材が旧地を探る手掛かりとなる。

集落草分けと寺院開創の関係を実証するには、最古墓碑の家名、鈴木兄弟の系譜、檀家分布、過去帳の初見を調べる。草分け家が開基・檀越だった可能性はあるが、同姓の多さや後世系譜化に注意する。口伝を文書より劣る資料とみなさず、成立・伝承主体を記録して異なる証拠種別として比較する。

松之木島村では1611年、1660年、1671年に検地が行われ、村高は182石余から284石余へ増えたと地名大系は伝える。石高増加は耕地開発を示唆するが、単純な人口・豊かさの増加とは限らない。測量精度、石盛、新田編入、荒地復旧により帳簿値は変わる。最廣寺の寺領・除地がどのように扱われたかは、各検地帳と名寄帳で確認する。 字上川原の寺地は旧地番・旧河道・堤防・集落路を重ね、現在の境内位置を1592年へそのまま遡及しない。

輪中内の新田開発は、堤防、排水、用水、共同労働、洪水リスクの再配分を伴う。寺院は法要・葬送だけでなく、寄合、勧化、災害後の救済、土地境界の記憶に関与した可能性があるが、具体的役割は史料で確認すべきである。寺院境内が相対的高地だったか、避難に使われたか、堤普請の寄付・祈願があったかを村方文書と地形測量から検討する。 字上川原の寺地は旧地番・旧河道・堤防・集落路を重ね、現在の境内位置を1592年へそのまま遡及しない。

村高と寺院史を結ぶ際、最廣寺の開創1592年が近世検地より早いことに注目できる。寺院は確定した石高秩序の後に作られたのではなく、集落形成と耕地開発が進行中の時期に成立した可能性がある。開創地が現在地と同じか、洪水移転を経験したかを旧字上川原、地籍図、墓碑の年代分布から検証することで、村の空間形成と寺院立地を相互に読める。 字上川原の寺地は旧地番・旧河道・堤防・集落路を重ね、現在の境内位置を1592年へそのまま遡及しない。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録4
東渓山最廣寺の現況記録4。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

5 本尊地蔵菩薩の時間層

本尊地蔵菩薩が開創時から奉安されたかは、像内銘・台座銘・修理記録で検証する。地蔵像が1592年より古ければ既存堂からの継承、後世なら再建・信仰再編の可能性がある。堂内非公開の場合は寺院の宗教的判断を尊重し、無断撮影や開帳要求を行わない。寺宝台帳・修理報告だけでも物質年代を確認できる場合がある。

曹洞宗寺院と地蔵本尊の関係を、宗派標準から説明し過ぎない。地域寺院の本尊は旧庵、檀越の願意、災害後の再造、本末関係によって形成される。最廣寺では輪中集落の生活と地蔵信仰を結ぶ仮説が立つが、具体的な水難供養・縁日・講が確認されるまで一般論に留める。

1884年8月、野部学校の分校として松ノ木島学校が村内寺院へ設置されたと郡誌教育編は記す。しかし設置場所の表記は「西広寺内」で、寺院編の「最廣寺」と一致しない。同一寺院の異体表記・誤植・誤読である可能性はあるが、別堂宇または廃寺の可能性も排除できない。表記差を早く解消するより、原本版面、学校沿革、村会記録、学籍簿、地図で検証する。 地蔵菩薩は郡誌記載、像の制作・修理、現安置を別レコードにし、村形成期から同一像が継続したとは推定しない。

明治初期に寺院が学校教室へ転用された例は全国にあるが、一般例の存在だけで西広寺を最廣寺と同定できない。松ノ木島学校の教員、児童数、校舎移転、使用室、寺院側責任者を確認し、最廣寺住職・檀家名と照合する。寺号の「最」と「西」、「廣」と「広」は筆記・活字・OCRで揺れやすいため、原画像と校正前原稿の比較が重要となる。 地蔵菩薩は郡誌記載、像の制作・修理、現安置を別レコードにし、村形成期から同一像が継続したとは推定しない。

同一性が確認されれば、最廣寺は葬祭・信仰空間から近代教育の公共空間へ一時的に機能を拡張した事例となる。別寺院だった場合も、松之木島村に複数の宗教施設があったことが明らかになり、地域史を修正できる。どちらの結果でも研究価値があり、未確認段階で学校史を寺院の実績として断定しないことが必要である。 地蔵菩薩は郡誌記載、像の制作・修理、現安置を別レコードにし、村形成期から同一像が継続したとは推定しない。

磐田市松之木島の東渓山最廣寺現況記録5
東渓山最廣寺の現況記録5。現在の境内・堂宇・石造物・寺号表示を示すが、1592年当時の配置や本尊像の年代を証明するものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

6 結論:高薗―松之木島連関仮説

結論として、最廣寺の1592年開創は、高薗からの移住伝承、学園寺本末関係、満室銀重、松之木島集落形成を結ぶ有力な研究軸である。ただし各要素の情報源と精度は異なり、1つの創村物語へ統合するには同時代文書が不足する。現段階では、関係を確定事実ではなく検証可能な「高薗―松之木島連関仮説」として提示する。

新たな知見は、天竜川を寺院関係の境界ではなく、移住者と法系が越えた空間として捉え直した点にある。学園寺・最廣寺双方の歴住記、鈴木家文書、旧河道・渡し場、最古墓碑を照合すれば、近世初頭の新集落が故地の宗教ネットワークを利用して共同体を形成した過程を明らかにできる。

寺号表記は現行公式登録の「最廣寺」を基準とし、引用資料では「最広寺」「西広寺」等の原表記を保持する。検索用に異体字・新字体・音読を索引化するが、表示統一のために史料語を無言で置換しない。同音の西光寺を除外するため、所在地、宗派、山号、本寺、本尊を必須照合項目とする。旧豊岡村と現在の磐田市豊岡も別の地域であり、行政区域履歴を併記する。 結論の新規性は、人の移住と曹洞宗法系の移動を似た物語として結合せず、双方を結ぶ固有人名・墓碑・寺籍を予測する点にある。

公開情報では、現行確認、歴史資料、推定、未確認をラベル化する。最廣寺という法人・所在地・宗派は現行資料で確認できる。東渓山、地蔵菩薩、1592年、満室銀重、学園寺末は郡誌が伝える歴史情報である。学校所在の同一性、現在の本尊、年中行事、墓地、護持会は未確認である。この区分により、利用者は情報量の多さではなく確度を判断できる。 結論の新規性は、人の移住と曹洞宗法系の移動を似た物語として結合せず、双方を結ぶ固有人名・墓碑・寺籍を予測する点にある。

最廣寺研究の到達点は、1592年の古刹という紹介だけではない。高薗からの移住伝承と本寺法系、輪中形成と検地、地蔵信仰、1884年学校、現行寺号表記を、異なる証拠層として配置することで、寺院が集落形成・治水・教育・宗教をつなぐ可能性が見える。断定できない関係を明示することが、地域から新資料を受け入れられるデジタル郷土資料の条件となる。 結論の新規性は、人の移住と曹洞宗法系の移動を似た物語として結合せず、双方を結ぶ固有人名・墓碑・寺籍を予測する点にある。

調査台帳では、寺号、異体字、所在地、山号、宗派、本寺、本尊、人物、年月日、学校名、検地を別レコードにし、資料名、作成年、記事内容年、原本・写本・翻刻の別、引用頁、確認日を付す。同じ由緒が郡誌、地域記事、寺院ページに反復されても、引用関係があれば独立証拠として重複計上しない。仮説ごとに反証条件を示す。高薗連関説なら、移住家と学園寺法系を結ぶ人名・墓碑・末寺帳が予測される。輪中寺院説なら、検地帳の寺地、堤普請、洪水後修理、過去帳の災害記載が予測される。学校同一説なら、最廣寺住職名を含む借用・学籍・村会記録が予測される。資料が見つからなければ伝承を消すのではなく、確度と範囲を更新する。寺院調査は所有者の許可を得て非接触で行い、本尊・位牌・過去帳・墓碑の信仰上の非公開性と個人情報を守る。石造物は移動させず、文書は料紙、筆跡、印章、奥書、欠損、伝来箱を含めて記録する。公開後に地域・寺院から訂正が寄せられた場合は、旧記述を無言で置換せず、更新理由、出典、日付を残す。さらに、史料の不在を即座に事実の不存在へ読み替えない。寺院文書は火災、洪水、住職交代、寺檀関係の変化によって散逸しやすく、行政文書も保存年限や編纂時の選択を受けるからである。確認できない事項には未確認と資料未見を区別し、前者は関連史料を調べたが確証がない状態、後者は所在を把握しながら閲覧できていない状態として管理する。位置情報は現行住所を地図へ置くだけでなく、旧字、地番、河道、堤防、用水、旧道、集落境界を同一縮尺で重ねる。これにより現在の直線距離を歴史的な交通関係と誤認せず、徒歩経路、渡河点、洪水時の迂回、耕地への接続を復元できる。人物比定では同名僧・同姓住民を区別するため、法名、俗姓、住職在任期、師資関係、墓碑年紀、戸主名を照合し、年代が重ならない人物を同一人にしない。数量資料は石高、面積、戸数、人口の定義と基準年を併記し、村高の増加をそのまま人口増加や寺勢拡大へ換算しない。写真は撮影位置、方位、焦点距離、撮影年月、対象物を記録し、建物の新旧判定を外観だけで行わない。屋根材や外壁の更新と、柱・礎石・平面構成の年代は一致しない場合があるため、修理銘、棟札、建築確認資料、聞き取りを組み合わせる。聞き取りは語り手、実施日、質問、逐語記録、公開範囲を保存し、後世の説明を創建時の同時代記録と同列に扱わない。典拠画像を保存する場合は著作権と公開条件を確認し、公開できない原資料は請求記号と要約のみを示す。ウェブ資料には閲覧日を付し、更新・削除後も論証過程を点検できるよう保存機関の恒久識別子を優先する。こうした層別化により、確定事項、蓋然性の高い推定、検証待ちの仮説を読者が追試できる形で提示する。 結論の新規性は、人の移住と曹洞宗法系の移動を似た物語として結合せず、双方を結ぶ固有人名・墓碑・寺籍を予測する点にある。

著者は大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役)であり、介護事業および不動産事業を運営している。この開示は、地域、墓地、土地・建物に接する事業者としての立場を読者が評価できるようにするためである。本稿は寺院、供養、不動産に関する営業的勧誘を目的とせず、ATAWI TEMPLEによる地域寺院資料の保存と検証を目的とする。論証は著者の肩書ではなく、資料の同定、成立年、引用頁、反証条件によって評価され、事業上の利害を寺院の歴史評価へ混入させない。 結論の新規性は、人の移住と曹洞宗法系の移動を似た物語として結合せず、双方を結ぶ固有人名・墓碑・寺籍を予測する点にある。

最廣寺と松之木島村の形成・検地・学校設置を示す史料年表
松之木島の草分け伝承、1592年の最廣寺開創、近世検地、1884年の学校設置を分離した時間図。「西広寺」と最廣寺の同一性は未確定として表示した。ATAWI TEMPLE作成。

参考文献・資料

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  2. [2] 静岡県磐田郡教育会・国立国会図書館デジタルコレクション「静岡県磐田郡誌 教育編 松ノ木島学校」。 1884年8月に野部学校分校として松ノ木島学校を「西広寺内」へ設置したとの記述を確認。最廣寺との同一性は未確定。 最終閲覧日:2026-07-25。
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  14. [14] ATAWI TEMPLE「最廣寺 寺院詳細」。 現地写真、基本情報、確認済み事項と未確認事項の区分を確認。 最終閲覧日:2026-07-25。
  15. [15] e-Gov法令検索「宗教法人法」。 現行宗教法人登録と近世本末制度を混同しないための制度的基準として参照。 最終閲覧日:2026-07-25。

著者情報

大石浩之。富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役。静岡県磐田市を拠点として介護事業および不動産事業を運営する一方、ATAWI TEMPLEにおいて地域寺院資料の収集・整理・公開に取り組む。本論文は寺院・宗派の公式見解ではなく、表示した資料に基づく著者の研究成果である。

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