ATAWI TEMPLE 地域寺院研究紀要

西願寺と中泉御殿の分散する記憶景観

発掘地・移築建築・寺院・都市空間を結ぶ歴史地理学的研究

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.24
資料検証
公開資料による検証済み

要旨

中泉御殿は現地にまとまった建築群を残さないが、その歴史は発掘遺構、出土品、御殿遺跡公園、絵図・古文書、西願寺の裏門と主殿移築伝承、見付の西光寺表門へ分散して継承される。本論文は、この分散状態を喪失の結果だけでなく、近世建築が地域社会へ再配分され、その後に文化財・観光・教育資源として再統合される過程と捉える。磐田市文化財課の発掘成果は、御殿が1587年頃に秋鹿氏献上地へ造営され、土塁と堀を備え、1670年まで維持されたことを示す。西願寺では裏門が山門として現存し、主殿も本堂へ転用されたと伝えられるが、後者は改築され現存しない。個別地点を直線的な「家康ゆかりの地」として消費するのではなく、旧地・移築先・史料所蔵機関を相互参照することで、建築の移動、記憶の編集、都市化の影響を同時に記述できる。

キーワード:西願寺/中泉御殿/御殿遺跡公園/移築/記憶景観/歴史地理

1 御殿を単一地点ではなく分散資料群として捉える

中泉御殿を訪ねても、近世の御殿建築が旧地に一括して残るわけではない。現地には発掘調査で確認された遺構と出土品の記録、御殿遺跡公園、地名があり、建物の一部と伝わる門は西願寺と西光寺へ移された。この分散は復元を困難にする一方、廃止後に建物が地域内で再利用された社会過程を具体的に示す。

歴史景観は、同時代の建物だけで構成されない。地下遺構、現存建築、移築伝承、石標、案内板、地名、博物館展示、デジタル地図が異なる時代の選択を通じて過去を可視化する。中泉御殿の場合、旧地の発掘成果と寺院の現存門を往復して初めて、施設の規模と建築の具体像を同時に考えられる。

磐田市歴史文書館は、中泉公図、鈴木明登武家文書、古文書、絵図、発掘資料を用いた企画展を実施した。これは御殿研究が単一の由緒書では完結せず、文字資料と考古資料の照合を必要とすることを示す。展示の会期が終了しても、出品目録、解説、画像、所蔵番号を残せば、研究可能性は継続する。

西願寺の山門は、分散資料の中で日常的に使われる現存建築である。門を御殿の模型のように見るのではなく、館から寺院への用途変更と長期間の修理を含む資料として扱う必要がある。現在の位置と外観は移築後の歴史を示し、御殿時代の配置は旧地の絵図・発掘成果から別に復元される。

主殿が西願寺へ移され本堂として用いられたという伝承は、御殿建物の再利用が門に限らなかった可能性を示す。現在の本堂は改築後で旧主殿そのものではないとされるため、現存・非現存の二分法だけでは不十分である。古写真、棟札、転用材、建替え記録が残れば、失われた建物の第2の履歴を追跡できる。

資料ネットワークには時間軸も必要である。造営・利用・廃止・移築・改築・指定・展示という出来事を同じ年表へ置き、各項目へ根拠資料を結び付ける。年月不詳の出来事は前後関係だけを示し、見栄えのために推定年を与えない。これにより、建物の移動と記憶の再編集を混同せず追跡できる。

本論文では、御殿旧地、西願寺、西光寺、歴史文書館、文化財課を1つの資料ネットワークとして扱う。各地点が何を保存し、何を保存しないかを明示し、相互リンク、地図、年代表で補完する。この方法は、1地点の案内板へ過剰な情報と確定性を負わせない。

分散文化財という把握は、将来的な復元建築を直ちに求めるものではない。原位置・原材料・原構法を十分に確認せず新築すれば、推定を実物らしく固定する危険がある。現存門、地下遺構、史料画像をそれぞれの性格のまま結ぶことで、未確定部分を開いた状態に保てる。

磐田市中泉にある西願寺の入口と境内
西願寺入口の現況。近世御殿に由来する建造物、現代の寺院境内、駅前市街地という異なる時間層が重なる。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

2 発掘調査が示す御殿以前・御殿期・御殿以後

御殿・二之宮遺跡は弥生時代から江戸時代まで営まれた複合遺跡であり、中泉御殿はその最終段階の1つである。御殿だけを強調すると、同じ土地に蓄積した長い居住・行政・交通の歴史を不可視化する。発掘成果を層位ごとに読み、御殿遺構を先行・後続遺構から区別する必要がある。

2003・2004年度の第84次調査について、文化財課は御殿構造と変遷の一部が明らかになったと報告する。「一部」という限定が重要であり、調査区で把握した建物・堀・遺物から敷地全体を過度に復元してはならない。未調査地、攪乱地、調査済み地点を地図上で区別し、推定線へ確度を付すべきである。

文化財課は御殿を1587年頃に建設されたと推定し、秋鹿氏が献上した屋敷地、約1万坪と伝わる敷地、北側を中心とする土塁と堀を挙げる。これらの情報も証拠種別が異なる。建築年代は考古・文献を合わせた推定、敷地規模は伝承、土塁・堀は絵図等による把握であり、1つの確度へ平準化しない。

出土した瓦と陶磁器は、建物の屋根、滞在者の生活、物資流通、廃棄過程を分析する資料である。瓦の文様・胎土・刻印、陶磁器の産地・器種・年代を数量化すれば、造営期と改修期、施設の格式、供給圏を検討できる。展示写真だけでなく発掘調査報告書の遺物表と図版を参照する必要がある。

1670年の廃止後、旧地の一部は別用途へ転換され、建物は移築・解体されたと考えられる。廃止層の遺物、柱抜取穴、整地土、後続建物は、施設解体の工程と旧地利用を示す可能性がある。西願寺への移築時期を絞るには、旧地の解体痕と寺地の再建記録を突き合わせることが有効である。

現在の御殿遺跡公園は、発掘当時の地表をそのまま露出した空間ではない。遺跡を保護し、市民が利用できるよう整備された現代の公園である。案内板や表示は発掘成果を選択的に翻訳する装置であり、見学者は表示された範囲と実際の御殿範囲を同一視しないよう注意する。

発掘地点の名称にも注意を要する。「御殿・二之宮遺跡」は複数時代と広い範囲を含む埋蔵文化財包蔵地の名称であり、そこから出た全遺物が中泉御殿に属するわけではない。遺構番号、層位、出土地点、共伴遺物を確認し、御殿期と判断された資料だけを御殿復元へ用いる必要がある。

発掘成果を西願寺山門へ接続するとき、瓦や堀が門の移築を直接証明すると述べてはならない。発掘資料は旧地の施設と年代を、山門は移築先の建造物を示す。両者を結ぶのは移築を記した文書、部材の年代・仕様、地域伝承である。別種の資料を連鎖させることで初めて、御殿から寺院への移動を論証できる。

旧中泉御殿裏門を説明する西願寺境内の案内表示
旧中泉御殿裏門の現地案内。案内表示は理解の入口であり、年代・移築経緯は行政資料、発掘成果、建築調査記録と照合して読む。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

3 西願寺が受け入れた門と主殿の第2の生涯

西願寺は、御殿の裏門を山門として、主殿を本堂として受け入れたと伝えられる。もし両方が同時期に移されたなら、寺院は単なる部材の保管先ではなく、御殿の建築単位を宗教施設へ再編成した主体である。移築は権力施設の象徴を寺院が接収したという単純な図式ではなく、実用建築の再利用と門徒による維持を伴った。

館の裏門は出入りを制御する施設であり、寺院山門は俗界と境内を画する象徴・実用施設である。両者には境界という機能的共通点があるため、用途転換は比較的成立しやすい。他方、通行者の身分、警備、開閉時間、儀礼的意味は変化した。形式の継続と社会機能の変化を同時に記述する必要がある。

主殿から本堂への転用はさらに大きな意味変更を伴う。政治的滞在・接遇の中心空間が、阿弥陀如来を本尊とする真宗寺院の聞法・法要空間へ変わるには、内陣・外陣、仏壇、余間、参詣動線を整える改造が必要だった可能性がある。旧平面と寺院平面を比較できれば、具体的な転換技法を分析できる。

ただし主殿移築は公開観光資料と地域伝承で知られる一方、現在の本堂は旧主殿ではない。改築年と範囲が分からないため、旧主殿が何年間用いられ、どの程度改造され、なぜ建て替えられたかは未確認である。旧本堂の写真、棟札、寺院什物、門徒家の記録、新聞記事を探索することが優先される。

移築建築を維持するには、寺院と門徒が屋根葺替え、柱修理、建具更新へ継続的に資源を投入したはずである。この維持の履歴は、御殿から与えられた権威よりも長い。寄進者名、工事費、工匠、材木調達を記す普請帳が見つかれば、地域経済と信仰共同体が文化財保存を担った実態を明らかにできる。

現在の境内には本堂、山門、鐘楼、手水舎、石碑、墓域があり、近世御殿の部材だけで構成されてはいない。境内を御殿の残像としてのみ見ると、真宗寺院として積み重ねられた法要、門徒活動、追悼、改築を従属させてしまう。御殿由来の建物は寺院史の1層であり、寺院全体と同義ではない。

寺地での考古学的調査も選択肢となるが、現役の境内を研究目的だけで掘削することはできない。配管工事や修理に伴う立会い記録、地中レーダーなど低侵襲の方法を優先し、墓域と宗教活動へ十分配慮する。旧主殿の礎石や整地層が確認されても、文書・建築資料と照合して年代を判断する。

西願寺における第2の生涯を調べるには、建築調査と宗教社会史の協働が必要である。部材調査が移築の物的範囲を示し、寺院文書が移築・修理の主体を示し、門徒聞取りが近現代の使用を補う。記憶が後世に編集されることを前提に、聞取りの年代と話者を記録する。

弘誓山西願寺の本堂正面
西願寺本堂正面。中泉御殿主殿が移築され本堂に用いられたという伝承があるが、現在の本堂は改築後の建物であり、旧主殿そのものではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

4 御殿跡・西願寺・西光寺を歩く比較研究

中泉御殿の表門は見付の西光寺、裏門は中泉の西願寺へ移築されたと伝えられる。2棟を対として調べることで、御殿の正面と背面、格式差、通行機能、移築後の寺院利用を比較できる。個々の寺院ページが同じ逸話を反復するだけでなく、共通の比較表と地図を備えることが望ましい。

比較項目には、所在地、方位、柱間、軒高、屋根形式、瓦、材種、彫刻、金具、扉、袖塀、礎石、番付、墨書、修理年を含める。指定文化財一覧は西光寺表門を安土桃山時代、市内最大級の薬医門とし、旧中泉御殿裏門を江戸時代初頭とする。年代評価の差が当初の格式差か、後世修理の差かを検討できる。

御殿跡から両寺へ至る現代の徒歩経路は、学習コースとして有用だが、近世の移築経路をそのまま示すものではない。旧道、河川、地割、橋、町場の範囲を歴史地図上で復元し、現代地図へ重ねる必要がある。徒歩コースには現代の安全性、寺院の拝観条件、住宅地の静穏へ配慮する。

3地点を巡ることで、旧地に残るもの、移動したもの、失われたものを比較できる。御殿跡では地形・発掘成果・地名、西願寺では裏門と主殿伝承、西光寺では表門が中心となる。見学者に「本物はどれか」と問わせるのではなく、異なる資料が御殿の異なる側面を伝えることを示す。

デジタル地図では、推定御殿範囲、発掘調査区、堀・土塁、門の推定旧位置、現移築先、史料所蔵機関をレイヤー分けする。確定位置は実線、推定は破線、伝承のみは別色とし、出典と更新日を表示する。この設計により、研究の進展で位置を修正しても、過去の表示を履歴として保存できる。

文化財を巡る観光では、家康の知名度が入口になる一方、断定的な英雄物語へ収束しやすい。御殿建設に関わった秋鹿氏、管理者、工匠、解体・運搬人足、移築を支えた寺院・門徒も説明に含めるべきである。権力者だけでなく建築を動かし維持した人々を可視化することで、地域史が厚くなる。

比較結果は数値と画像を公開し、結論だけを提示しない。例えば柱間が異なる場合、当初の表裏格差、後世の切詰め、測定基準の差という複数解釈があり得る。測点、単位、誤差、撮影方向を示せば、別の研究者が再測定できる。再検証可能性が、伝承を学術研究へ接続する条件となる。

比較研究の成果は各寺の独立性も守らなければならない。西願寺は真宗大谷派寺院、西光寺は別の宗教史を持ち、御殿門だけで寺院全体を代表させられない。共通テーマの解説と個別寺院史をページ上で分け、御殿研究から宗派・本尊・現代活動へ不当な推論を広げないことが必要である。

西願寺境内の松と本堂
西願寺境内の現況。写真は2026年時点の空間構成を記録するもので、近世の堂宇配置をそのまま示す資料ではない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

5 近代都市化と公共史が記憶を再配置する

現在の西願寺はJR磐田駅北口から徒歩圏の市街地にある。鉄道開通、道路整備、住宅・商業地化によって、中泉の空間認識は近世の御殿・陣屋中心から駅中心へ大きく変わった。山門は移動しなかったとしても、周囲の交通と眺望が変化することで、都市景観における意味を変えている。

御殿跡が公園として整備されたことも、記憶の近代的再配置である。私有地や埋蔵文化財を公共空間へ変え、説明板と地名によって過去を共有する一方、公園利用者が必ずしも御殿史を目的に訪れるとは限らない。日常利用と歴史学習が重なること自体が現代の史跡景観を形成する。

2006年の文化財課企画展、2023年の歴史文書館企画展、文化財保存活用地域計画は、行政が発掘・文書・建築を再び結び直す取り組みである。展示は新資料の公開だけでなく、何を「中泉御殿」として提示するかを選択する編集行為である。会期、担当者、出品資料、解説の変化も公共史の履歴として保存すべきである。

西願寺山門が2005年に指定されたことにより、寺院の出入口は市民共有の文化財としても認識されるようになった。ただし指定以前から寺院・門徒が維持してきた歴史を忘れてはならない。行政指定後の物語だけでなく、指定申請の経緯、所有者の意向、修理負担、地域住民の評価を記録する必要がある。

境内の殉国戦士之墓は、近代の追悼が同じ寺地へ付加されたことを示す。御殿裏門、真宗本堂、戦没者碑を単一の連続物語へ接続する根拠はないが、境内が異なる時代の記憶を受け入れる場所であったことは読み取れる。碑文、建立年、建立主体を調べれば、中泉の近代史を補える。

公共史としての解説は、子ども向けに単純化しても、確定と伝承の区別を失ってはならない。「発掘で分かったこと」「文書に書かれたこと」「寺に伝わること」「研究者が推定すること」を記号で分ければ、難しい内容でも証拠の違いを学べる。分からない点を示すことは、次の調査参加への入口となる。

展示とウェブ記事には公開終了後の保存計画も必要である。会場写真、パネル原稿、出品一覧、参考文献、訂正履歴を恒久識別子で残せば、後の研究者が当時の御殿像を検証できる。リンク切れへの備えとして行政機関内の保存版と書誌情報を保持し、閲覧不能を史料消失と誤認しない。

地域住民から寄せられる古写真、家文書、聞取りは重要だが、公開同意、個人情報、所蔵権、撮影年代を確認する。記憶の食い違いを誤りとして排除せず、いつ誰がどう語ったかを記録することで、御殿像が時代ごとに変化した過程そのものを研究対象にできる。

西願寺境内の殉国戦士之墓
境内の殉国戦士之墓。近世御殿の記憶だけでなく、近代の戦没者追悼も境内へ蓄積したことを示す。建立経緯の解明には碑文と地域記録の照合が必要である。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

6 結論―失われた御殿を関係の地図として保存する

中泉御殿は1587年頃に造営されたと推定され、土塁と堀を備え、徳川家の宿泊・休憩と軍事的役割を担い、1670年に廃止された。旧地では発掘遺構と出土品が、移築先では建築が、文書館では絵図・古文書が御殿の異なる側面を伝える。

西願寺は裏門を山門として現存させ、主殿を本堂へ転用したと伝えられる点で、御殿建築の主要な受入先である。主殿は改築され現存しないとされるが、その消滅は研究の終点ではない。古写真、棟札、転用材、普請帳を探索することで、寺院としての使用履歴を復元できる。

見付の西光寺表門を含めると、御殿の正面・背面の門が別々の寺院で宗教施設へ転換された比較研究が成立する。両門の実測と部材分析、旧地絵図との照合は、移築伝承を建築史的に検証するだけでなく、御殿廃止時の資材処分と地域内循環を明らかにする。

本論文の新たな知見は、文化財の分散を不完全な残存状態としてのみ評価しない点にある。分散は、御殿が解体された政治的変化、建築資源が再利用された経済的合理性、寺院が長期維持した宗教社会的基盤、行政が文化財群として再編集した現代的過程を同時に示す。

公開地図では、御殿跡、西願寺、西光寺、歴史文書館、発掘資料の保管場所を結び、各地点で確認できる事項と未確認事項を示すべきである。現代徒歩経路と推定移築経路を分け、寺院の拝観条件、個人所蔵史料、埋蔵文化財の保護へ配慮する。

今後の調査順序は、発掘報告書・指定調書・展示目録の収集、両門の比較実測、寺院文書と地域古写真の探索、歴史地図のGIS化である。各成果には出典、確認日、確度、改訂履歴を付け、伝承が新資料によって更新される過程も保存する。

成果評価では、確定事項が増えた数だけでなく、誤った接続を解消できたかも重視する。旧地の遺物と移築門、御殿主殿と現本堂、近世経路と現代徒歩道を区別することは、一見情報を減らすが、各資料が本当に語る歴史を明確にする。空白の表示は次の調査仮説を生む。

中泉御殿を巨大な復元建築1棟で代表させるより、各所に残る資料を関係の地図として理解する方が、史料の差異と空白を保てる。西願寺はその地図の中心的結節点であり、近世権力施設が地域の信仰空間へ組み替えられた長期史を伝える。

西願寺境内の鐘楼
西願寺鐘楼の現況。寺院が近世以降も宗教施設として更新されてきたことを示すが、各部材の年代判定には実測調査が必要である。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

参考文献・資料

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  4. [4] 磐田市観光協会「まちなか歴史と文化の新発見 ありがた歩記 中泉編」。 弘誓山の山号、中泉御殿裏門と中泉の陣屋町景観に関する地域案内を確認。 最終閲覧日:2026-07-24。
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  10. [10] 磐田市教育委員会文化財課「いわた文化財だより第213号」。 中泉御殿と鷹狩り、関ヶ原・大坂の陣前の滞在、発掘調査成果を扱う企画展概要を確認。 最終閲覧日:2026-07-24。
  11. [11] 磐田市「施設ガイド 御殿遺跡公園」。 中泉御殿跡が現在は市立公園として公開されていることを確認。 最終閲覧日:2026-07-24。
  12. [12] 磐田市観光協会「御殿遺跡公園」。 御殿の造営主体、用途、敷地規模、土塁・水堀、現在の遺跡公園に関する説明を確認。 最終閲覧日:2026-07-24。

著者情報

大石浩之。富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役。静岡県磐田市を拠点として介護事業および不動産事業を運営する一方、ATAWI TEMPLEにおいて地域寺院資料の収集・整理・公開に取り組む。本論文は寺院・宗派の公式見解ではなく、表示した資料に基づく著者の研究成果である。

資料の追加および記載の訂正は、情報提供・訂正窓口で受け付けている。