中泉地区・現存
西願寺
さいがんじ
西願寺(さいがんじ)は、磐田市中泉にある真宗大谷派の寺院で、山号は弘誓山、本尊は阿弥陀如来です。山門は徳川家康の別荘であった中泉御殿の裏門を移築したものと伝わり、「旧中泉御殿裏門」として磐田市指定有形文化財(建造物)となっています。安土桃山時代の城門建築の面影を今に伝える、中泉の歴史を象徴する寺院です。
別称・関連名称弘誓山西願寺
- 寺院名
- 西願寺
- 地区
- 中泉
- 住所
- 静岡県磐田市中泉254番地の1
- 宗派
- 真宗大谷派
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 西願寺
- 読み方
- さいがんじ
- 地区
- 中泉
- 宗派
- 真宗大谷派
- ご本尊(資料上)
- 阿弥陀如来
- ご本尊の現在の確認状況
- 公開資料で確認済み
- 住所
- 静岡県磐田市中泉254番地の1
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 市指定文化財あり(山門=旧中泉御殿裏門が磐田市指定有形文化財・建造物)
- 最終確認日
- 2026.07.11
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 西願寺
- 宗派
- 真宗大谷派
- 本尊
- 阿弥陀如来
- 創建
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市中泉254番地の1
- 地区
- 中泉
Database 02
沿革
弘誓山西願寺―創建をめぐって
西願寺自体の創建年代や開基については、現時点で公開されている資料からは確認できていません。山号の「弘誓山」は磐田市観光協会の「ありがた歩記 中泉編」で確認でき、弘誓(ぐぜい)とは阿弥陀如来がすべての衆生を救おうと立てた誓願を指す言葉で、真宗寺院にふさわしい山号です。中泉の町は江戸時代を通じて幕府直轄領の陣屋町として栄えており、当寺もその町並みの中で門徒の信仰を支えてきたと考えられますが、由緒の詳細は磐田市誌など郷土資料による今後の調査課題です。なお、静岡県知事所轄の宗教法人名簿では、中泉には真宗大谷派の寺院として満徳寺と西願寺の2か寺が登載されており、陣屋町中泉に真宗門徒の信仰が根付いていたことがうかがえます。
徳川家康の中泉御殿
当寺の山門のもとの持ち主というべき中泉御殿は、徳川家康が浜松城主であった天正12年(1584年)ごろ、現在の磐田駅南の地域に別荘として築いた施設です。磐田市観光協会の御殿遺跡公園の解説によれば、家康は家臣の伊奈忠次に命じて天正12年から15年(1584年から1588年)にかけて御殿を築かせました。御殿は将軍の旅行や外出の際の宿泊・休憩施設として全国に90か所ほど設けられた施設の1つで、中泉御殿の敷地は約1万坪と伝えられ、北側に土塁と水堀を築き、南側は湿地に臨む要害の地でした。家康は鷹狩りを兼ねた休養のためたびたび磐田を訪れたほか、中遠地域の広域行政サイトが載せる昔話によれば、慶長19年(1614年)10月には大坂冬の陣を前に、駿府から到着した使者・板倉重宗らを交えた作戦会議が中泉御殿で開かれました。冬の陣の和議で大坂城の堀の埋め立てが完了した後、元和元年(1615年)3月に大坂方が再び挙兵すると、家康はふたたび中泉御殿で板倉重宗を参謀として夏の陣の作戦を練ったと伝えられます。同資料は、中泉御殿が家康の「国内統括の作戦本部」であったとも表現しており、天下の帰趨を決した大坂の陣の舞台裏に、中泉の御殿が深く関わっていたことを伝えています。
御殿の廃止と門・主殿の移築
中泉御殿は寛文10年(1670年)に廃止されたとされます(現地案内板をもとにした資料では寛文年間の廃止で約30年間の使用とされ、使用期間については資料により記述が異なります)。廃止後、御殿の建物は各所へ移築されました。磐田市観光協会の解説によれば、表門は見付の西光寺へ、裏門は西願寺へ移築され、主殿も西願寺に移されて本堂として使用されました。主殿はその後改築され現存しませんが、裏門は当寺の山門として今も使われ続けています。中遠地域の昔話資料には、主殿と裏門が西願寺に「買収」されたという記述もあり、御殿の解体に際して建物の払い下げを受けた経緯がうかがえます。同資料は書院が常楽寺(堀之内町)などへ分散したことも伝えており、御殿の記憶が中泉の寺々に分かち持たれたことがわかります。なお、中泉御殿に関するまとまった記録は多くありませんが、文政6年(1823年)に儒学者・古賀侗庵が記した「遠州中泉古城の記」があり、「見付宿より左に折れて行くこと数百歩……中泉の古城跡なり」と、御殿跡の面影を伝えています。『日本歴史地名大系』も「遠州中泉古城記」に中泉御殿の記録があることを挙げています。
市指定文化財「旧中泉御殿裏門」
山門は切妻造・本瓦葺き・一間一戸の薬医門です。薬医門とは、屋根の中心線より前に本柱を据えた形式の門で、当門には桃山から江戸初期の様式に見合う簡素な彫り物が施されています。安土桃山時代の城門建築の遺構として貴重であることから、平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定有形文化財(建造物)に指定され、磐田市の市指定文化財一覧にも建造物「旧中泉御殿裏門」(中泉)として掲載されています。城郭や御殿の建築が全国的にもほとんど残らない中で、家康ゆかりの御殿の門が寺の山門として日常の中に生き続けていることは、磐田の文化財の中でも特筆される点です。
文化財とともに歩む現在
旧中泉御殿裏門は、磐田市の文化財行政の中でも中泉地区を代表する文化財として位置付けられています。磐田市文化財保存活用地域計画(令和6年9月)では、中泉地区の「中泉御殿・代官関係」の文化財として「旧中泉御殿裏門(西願寺)」が挙げられています。また、いわた文化財だより第235号(令和6年10月発行)には当門の写真が掲載され、同年11月に磐田市文化財課が主催した親子向け見学会「文化の秋!親子文化財めぐり」では、御殿遺跡公園などとともに西願寺がコースに含まれました。檀家の寺であると同時に、地域の歴史学習の場としても親しまれています。 一方、山門のふるさとである中泉御殿の跡地は、現在「御殿遺跡公園」として磐田市の公園に整備され、一般に公開されています。御殿遺跡の一帯は弥生時代から中世にかけて営まれた遺跡で、奈良時代には遠江国府の中心施設が配置されたと推定されており、家康の御殿はその歴史の最後の層にあたります。公園で御殿の跡地を眺め、当寺で現存する裏門を仰ぐことで、失われた御殿の姿を立体的に思い描くことができます。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 阿弥陀如来
- 宗教的意味
- 西願寺は、京都の東本願寺(真宗本廟)を本山とする真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。山号の弘誓山は、阿弥陀如来がすべての衆生を救おうと立てた誓願(弘誓)にちなむもので、寺号の「西願」も西方極楽浄土の阿弥陀仏の本願を思わせる、浄土真宗の教えを体現した名です。家康の御殿の裏門をくぐって阿弥陀堂に参るという当寺ならではの参拝の形に、武家の歴史と門徒の信仰の重なりが表れています。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
旧中泉御殿裏門(西願寺山門)
徳川家康が天正12年(1584年)ごろに築いた中泉御殿の裏門を移築した山門です。切妻造・本瓦葺き・一間一戸の薬医門で、桃山から江戸初期の様式に見合う簡素な彫り物が施されています。安土桃山時代の城門建築の遺構として貴重なことから、平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定有形文化財(建造物)となりました。御殿の表門は見付の西光寺へ移築されており、2つの門が対をなして御殿の記憶を伝えています。いわた文化財だより第235号(令和6年10月)にも写真付きで紹介され、磐田市文化財保存活用地域計画では中泉地区の「中泉御殿・代官関係」を代表する文化財に位置付けられています。今も檀家や参拝者が日常的にくぐる「生きた文化財」である点が、この門の何よりの価値です。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
西願寺のある中泉は、徳川家康の中泉御殿と、江戸時代に幕府直轄領を治めた中泉代官所(陣屋)を核として発展した町です。『日本歴史地名大系』によれば、中泉村は見付宿の南、磐田原台地の南端部に位置し、東海道が村の中央を南北に通って中泉代官陣屋の南で西に折れており、元禄期には「中泉町」とも記される町場となっていました。磐田市観光協会の中泉エリア案内も、中泉が東海道の陣屋町として大いに栄えたことを紹介しています。当寺の山門は、この町の原点である御殿の建物そのものであり、陣屋町中泉の歴史を物語る第一級の証人といえます。
中泉の歴史はさらに古く、『日本歴史地名大系』によれば建武元年(1334年)の文書に中泉郷が八幡宮(府八幡宮)領として記されており、中世には八幡宮の門前の郷として歩んでいました。近世の陣屋町を経て、明治22年(1889年)には鉄道が開通して駅が置かれ、中泉は遠州の玄関口として新たな発展を遂げました。府八幡宮の由緒紹介によれば、駅の設置に伴って中泉の市街地が形成されていったとされます。当寺は磐田駅北口から徒歩6分ほどという駅前市街地の中にあり、通勤・通学の人々が行き交う道筋に、御殿の裏門がそのまま山門として立ち続けています。磐田市文化財課の親子文化財めぐりのコースに組み込まれるなど、地域の子どもたちが郷土の歴史に触れる入口としての役割も担っており、檀家の法要の場であると同時に、中泉の歴史を次の世代へ伝える拠点となっています。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9069
- 行政・公的資料磐田市観光協会「西願寺」
真宗大谷派・本尊阿弥陀如来、山門=旧中泉御殿裏門(市指定文化財)、中泉御殿の廃止と表門=西光寺・裏門=西願寺への移築、薬医門の様式を確認
- 民間二次情報静岡県:歴史・観光・見所「西願寺(磐田市)」
現地案内板(磐田市教育委員会文化財課)の全文転記を確認。天正12年(1584)の御殿建築、約30年間の使用、寛文年間の廃止、主殿が本堂として使用後に改築で現存しないこと、平成17年11月21日の市指定を確認
- 行政・公的資料磐田市公式ウェブサイト「市指定文化財」
建造物「旧中泉御殿裏門」(中泉)が市指定文化財一覧に掲載されていることを確認
- 行政・公的資料磐田市観光協会「まちなか歴史と文化の新発見 ありがた歩記 中泉編」(PDF)
山号「弘誓山」の表記、中泉御殿裏門移築の解説を確認(PDF本文を抽出して確認)
- 行政・公的資料いわた文化財だより第235号
令和6年10月1日発行。P4「市指定文化財 旧中泉御殿裏門(西願寺)」の写真キャプションおよび「文化の秋!親子文化財めぐり」(磐田市中泉周辺・西願寺など)の案内。
- 行政・公的資料磐田市文化財保存活用地域計画(令和6年9月)
p.54 中泉地区「旧中泉御殿裏門(西願寺)」
最終更新日 2026.07.19
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保存済み写真
01
この寺院について
西願寺は磐田市中泉254番地の1、JR磐田駅北口から徒歩6分ほどの市街地に所在する真宗大谷派の寺院です。静岡県知事所轄の宗教法人名簿にも真宗大谷派の「西願寺」として登載されています。山号は弘誓山で、磐田市観光協会の寺社案内では、阿弥陀如来を本尊とする真宗大谷派の寺院として紹介されています。
当寺の最大の特色は、境内の入口に立つ山門です。この門は、徳川家康が別荘として使った中泉御殿の裏門を移築したものと伝えられ、平成17年(2005年)11月21日に「旧中泉御殿裏門」として磐田市指定有形文化財(建造物)に指定されました。切妻造・本瓦葺きの薬医門で、桃山から江戸初期の様式に見合う簡素な彫り物が施され、安土桃山時代の城門建築の遺構として貴重とされています。
中泉御殿の廃止後には、裏門だけでなく主殿も当寺に移され、本堂として使用されていたと伝えられます(改築され現存しません)。家康の御殿の建物を受け継いだ寺として、当寺は中泉の町の記憶を建造物の形で今に伝える存在であり、磐田市の文化財行事でもたびたび紹介されています。中泉御殿は関ヶ原の戦いや大坂の陣の時代に家康の拠点となった施設であり、その門を日々くぐって参拝できる寺は全国的にも稀といえます。磐田駅からほど近い立地もあって、檀家の法要はもとより、郷土の歴史をたどる人々にとっての目印にもなっています。
02
歴史と背景
弘誓山西願寺―創建をめぐって
西願寺自体の創建年代や開基については、現時点で公開されている資料からは確認できていません。山号の「弘誓山」は磐田市観光協会の「ありがた歩記 中泉編」で確認でき、弘誓(ぐぜい)とは阿弥陀如来がすべての衆生を救おうと立てた誓願を指す言葉で、真宗寺院にふさわしい山号です。中泉の町は江戸時代を通じて幕府直轄領の陣屋町として栄えており、当寺もその町並みの中で門徒の信仰を支えてきたと考えられますが、由緒の詳細は磐田市誌など郷土資料による今後の調査課題です。なお、静岡県知事所轄の宗教法人名簿では、中泉には真宗大谷派の寺院として満徳寺と西願寺の2か寺が登載されており、陣屋町中泉に真宗門徒の信仰が根付いていたことがうかがえます。
徳川家康の中泉御殿
当寺の山門のもとの持ち主というべき中泉御殿は、徳川家康が浜松城主であった天正12年(1584年)ごろ、現在の磐田駅南の地域に別荘として築いた施設です。磐田市観光協会の御殿遺跡公園の解説によれば、家康は家臣の伊奈忠次に命じて天正12年から15年(1584年から1588年)にかけて御殿を築かせました。御殿は将軍の旅行や外出の際の宿泊・休憩施設として全国に90か所ほど設けられた施設の1つで、中泉御殿の敷地は約1万坪と伝えられ、北側に土塁と水堀を築き、南側は湿地に臨む要害の地でした。家康は鷹狩りを兼ねた休養のためたびたび磐田を訪れたほか、中遠地域の広域行政サイトが載せる昔話によれば、慶長19年(1614年)10月には大坂冬の陣を前に、駿府から到着した使者・板倉重宗らを交えた作戦会議が中泉御殿で開かれました。冬の陣の和議で大坂城の堀の埋め立てが完了した後、元和元年(1615年)3月に大坂方が再び挙兵すると、家康はふたたび中泉御殿で板倉重宗を参謀として夏の陣の作戦を練ったと伝えられます。同資料は、中泉御殿が家康の「国内統括の作戦本部」であったとも表現しており、天下の帰趨を決した大坂の陣の舞台裏に、中泉の御殿が深く関わっていたことを伝えています。
御殿の廃止と門・主殿の移築
中泉御殿は寛文10年(1670年)に廃止されたとされます(現地案内板をもとにした資料では寛文年間の廃止で約30年間の使用とされ、使用期間については資料により記述が異なります)。廃止後、御殿の建物は各所へ移築されました。磐田市観光協会の解説によれば、表門は見付の西光寺へ、裏門は西願寺へ移築され、主殿も西願寺に移されて本堂として使用されました。主殿はその後改築され現存しませんが、裏門は当寺の山門として今も使われ続けています。中遠地域の昔話資料には、主殿と裏門が西願寺に「買収」されたという記述もあり、御殿の解体に際して建物の払い下げを受けた経緯がうかがえます。同資料は書院が常楽寺(堀之内町)などへ分散したことも伝えており、御殿の記憶が中泉の寺々に分かち持たれたことがわかります。なお、中泉御殿に関するまとまった記録は多くありませんが、文政6年(1823年)に儒学者・古賀侗庵が記した「遠州中泉古城の記」があり、「見付宿より左に折れて行くこと数百歩……中泉の古城跡なり」と、御殿跡の面影を伝えています。『日本歴史地名大系』も「遠州中泉古城記」に中泉御殿の記録があることを挙げています。
市指定文化財「旧中泉御殿裏門」
山門は切妻造・本瓦葺き・一間一戸の薬医門です。薬医門とは、屋根の中心線より前に本柱を据えた形式の門で、当門には桃山から江戸初期の様式に見合う簡素な彫り物が施されています。安土桃山時代の城門建築の遺構として貴重であることから、平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定有形文化財(建造物)に指定され、磐田市の市指定文化財一覧にも建造物「旧中泉御殿裏門」(中泉)として掲載されています。城郭や御殿の建築が全国的にもほとんど残らない中で、家康ゆかりの御殿の門が寺の山門として日常の中に生き続けていることは、磐田の文化財の中でも特筆される点です。
文化財とともに歩む現在
旧中泉御殿裏門は、磐田市の文化財行政の中でも中泉地区を代表する文化財として位置付けられています。磐田市文化財保存活用地域計画(令和6年9月)では、中泉地区の「中泉御殿・代官関係」の文化財として「旧中泉御殿裏門(西願寺)」が挙げられています。また、いわた文化財だより第235号(令和6年10月発行)には当門の写真が掲載され、同年11月に磐田市文化財課が主催した親子向け見学会「文化の秋!親子文化財めぐり」では、御殿遺跡公園などとともに西願寺がコースに含まれました。檀家の寺であると同時に、地域の歴史学習の場としても親しまれています。 一方、山門のふるさとである中泉御殿の跡地は、現在「御殿遺跡公園」として磐田市の公園に整備され、一般に公開されています。御殿遺跡の一帯は弥生時代から中世にかけて営まれた遺跡で、奈良時代には遠江国府の中心施設が配置されたと推定されており、家康の御殿はその歴史の最後の層にあたります。公園で御殿の跡地を眺め、当寺で現存する裏門を仰ぐことで、失われた御殿の姿を立体的に思い描くことができます。
03
文化財・見どころ
旧中泉御殿裏門(西願寺山門)
徳川家康が天正12年(1584年)ごろに築いた中泉御殿の裏門を移築した山門です。切妻造・本瓦葺き・一間一戸の薬医門で、桃山から江戸初期の様式に見合う簡素な彫り物が施されています。安土桃山時代の城門建築の遺構として貴重なことから、平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定有形文化財(建造物)となりました。御殿の表門は見付の西光寺へ移築されており、2つの門が対をなして御殿の記憶を伝えています。いわた文化財だより第235号(令和6年10月)にも写真付きで紹介され、磐田市文化財保存活用地域計画では中泉地区の「中泉御殿・代官関係」を代表する文化財に位置付けられています。今も檀家や参拝者が日常的にくぐる「生きた文化財」である点が、この門の何よりの価値です。
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宗派と本尊を知る
西願寺は、京都の東本願寺(真宗本廟)を本山とする真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。山号の弘誓山は、阿弥陀如来がすべての衆生を救おうと立てた誓願(弘誓)にちなむもので、寺号の「西願」も西方極楽浄土の阿弥陀仏の本願を思わせる、浄土真宗の教えを体現した名です。家康の御殿の裏門をくぐって阿弥陀堂に参るという当寺ならではの参拝の形に、武家の歴史と門徒の信仰の重なりが表れています。
真宗大谷派とは
真宗大谷派は、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗の一派で、本山は京都市下京区の真宗本廟(東本願寺)です。慶長7年(1602年)、徳川家康から寄進された烏丸七条の地に第12代教如上人が阿弥陀堂・御影堂を建立したことに始まり、「お東さん」の呼び名で親しまれてきました。御影堂には宗祖親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。
阿弥陀如来の本願力による救いをよりどころとする教えは本願寺派と同じ流れですが、東西本願寺の分立は江戸時代初期のことで、以来それぞれの伝統が育まれ、勤行の節まわしや仏壇の荘厳(かざり方)、作法などに大谷派ならではの違いがあります。日常のお勤めでは、親鸞聖人の著した「正信偈」が広く唱えられています。
檀家にとって最も大切な仏事は、親鸞聖人のご命日を縁として営まれる「報恩講」です。位牌ではなく過去帳を用いるのが基本とされる点も浄土真宗に共通する特色で、法要は亡き人を通して教えに出遇う場として大切にされています。
参考: 東本願寺の歴史(真宗大谷派〈東本願寺〉)/東本願寺について(真宗大谷派〈東本願寺〉)/真宗大谷派 東本願寺(真宗教団連合)
阿弥陀如来という仏さま
阿弥陀如来の「阿弥陀」は「量りしれない」という意味で、限りない光(無量光)と限りない命(無量寿)を備えた仏さまであることを表します。西方の極楽浄土の教主で、はるか昔、法蔵菩薩として修行していた時に48の願を立て、なかでも第18願では、念仏する者を必ず浄土に迎え取ると誓われたと経典に説かれています。
この誓いを頼りとして「南無阿弥陀仏」と称えるのがお念仏です。浄土宗や浄土真宗など念仏の教えに立つ宗派では阿弥陀如来を本尊と仰ぎ、仏壇の中央に絵像や木像でお迎えして、朝夕のお勤めで手を合わせます。本尊のお姿は、目に見えない救いのはたらきを、私たちに受け取りやすいよう姿かたちで表したものと受け止められています。
葬儀や年忌法要、お彼岸やお盆など、亡き人を偲ぶ場面で最も身近な仏さまでもあります。亡き人を浄土に迎え取り、残された私たちをも光の中で照らし続けてくださる。そのはたらきへの感謝とともに称えるのがお念仏だと受け止められています。
参考: よくあるご質問(浄土宗 公式サイト)/ご本尊をお迎えする(真宗大谷派・東本願寺 公式サイト)/阿弥陀如来の四十八願について(浄土宗 善想寺)
05
地域とのつながり
西願寺のある中泉は、徳川家康の中泉御殿と、江戸時代に幕府直轄領を治めた中泉代官所(陣屋)を核として発展した町です。『日本歴史地名大系』によれば、中泉村は見付宿の南、磐田原台地の南端部に位置し、東海道が村の中央を南北に通って中泉代官陣屋の南で西に折れており、元禄期には「中泉町」とも記される町場となっていました。磐田市観光協会の中泉エリア案内も、中泉が東海道の陣屋町として大いに栄えたことを紹介しています。当寺の山門は、この町の原点である御殿の建物そのものであり、陣屋町中泉の歴史を物語る第一級の証人といえます。
中泉の歴史はさらに古く、『日本歴史地名大系』によれば建武元年(1334年)の文書に中泉郷が八幡宮(府八幡宮)領として記されており、中世には八幡宮の門前の郷として歩んでいました。近世の陣屋町を経て、明治22年(1889年)には鉄道が開通して駅が置かれ、中泉は遠州の玄関口として新たな発展を遂げました。府八幡宮の由緒紹介によれば、駅の設置に伴って中泉の市街地が形成されていったとされます。当寺は磐田駅北口から徒歩6分ほどという駅前市街地の中にあり、通勤・通学の人々が行き交う道筋に、御殿の裏門がそのまま山門として立ち続けています。磐田市文化財課の親子文化財めぐりのコースに組み込まれるなど、地域の子どもたちが郷土の歴史に触れる入口としての役割も担っており、檀家の法要の場であると同時に、中泉の歴史を次の世代へ伝える拠点となっています。
06
年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
山門「旧中泉御殿裏門」は磐田市指定有形文化財です。法要やお墓参りで山門をくぐる際は、門扉や柱を傷めないよう注意してください。車での乗り入れの可否や駐車場所についても、あらかじめ寺院に確認すると安心です。
年間行事の日程・内容は公開資料では確認できていません。報恩講・彼岸会など法要・行事について知りたい場合は、寺院へ直接確認してください。
- 報恩講・彼岸会・盂蘭盆会など真宗寺院の年間行事の有無と日程
- 住職の常駐の有無(観光協会の中泉寺社マップに「無住」の記載がある寺院があるが、どの寺院を指すか判別できていない)
- 永代供養・墓地の取扱いの有無と条件
- 門徒会・護持会など檀家組織の有無とその活動内容
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
07
よくある質問
- 西願寺の読み方と山号は?
-
「さいがんじ」と読みます。山号は弘誓山で、弘誓山西願寺と称します。弘誓とは阿弥陀如来の誓願を指す言葉です。
本文「この寺院について」を読む - 宗派と本尊は?
-
京都の東本願寺(真宗本廟)を本山とする真宗大谷派で、本尊は阿弥陀如来です。
本文「宗派と本尊」を読む - いつ誰が開いたお寺ですか?
-
西願寺自体の創建年代・開基は、現時点で公開されている資料からは確認できていません。中泉御殿の主殿・裏門が移された寛文年間には存在していたと考えられますが、磐田市誌など郷土資料による調査が今後の課題です。
本文「歴史と背景」を読む - 山門はなぜ文化財なのですか?
-
徳川家康の別荘であった中泉御殿の裏門を移築したものと伝わり、安土桃山時代の城門建築の遺構として貴重なためです。平成17年(2005年)11月21日に「旧中泉御殿裏門」として磐田市指定有形文化財(建造物)に指定されました。
本文「文化財・見どころ」を読む - 中泉御殿とはどんな施設ですか?
-
徳川家康が家臣の伊奈忠次に命じ、天正12年から15年(1584年から1588年)ごろに築いた宿泊・休憩用の御殿で、敷地は約1万坪と伝わります。家康は鷹狩りの拠点とし、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と翌年の夏の陣の作戦会議も開かれたと伝えられます。寛文10年(1670年)に廃止され、跡地は現在、御殿遺跡公園として公開されています。
本文「歴史と背景」を読む - 御殿の建物は山門のほかにも残っていますか?
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表門は見付の西光寺へ移築されて現存します。主殿は西願寺に移され本堂として使われましたが、改築されて現存しません。書院は常楽寺などへ分散したと伝えられます。
本文「歴史と背景」を読む - 薬医門とはどんな門ですか?
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屋根の中心線より前に本柱を据えた形式の門です。西願寺山門は切妻造・本瓦葺き・一間一戸の薬医門で、桃山から江戸初期の様式に見合う簡素な彫り物が施されています。
本文「文化財・見どころ」を読む - 見学のイベントなどはありますか?
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令和6年(2024年)11月には磐田市文化財課主催の親子向け見学会「文化の秋!親子文化財めぐり」のコースに、御殿遺跡公園などとともに西願寺が含まれました。開催の有無・内容は年によって異なるため、最新の情報は磐田市の文化財関係の広報(いわた文化財だより等)で確認してください。
本文「地域とのつながり」を読む
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写真で見る境内
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出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として「真宗大谷派 西願寺 磐田市中泉254番地の1」の掲載を確認。参照行: L9069。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 行政・公的資料 磐田市観光協会「西願寺」
真宗大谷派・本尊阿弥陀如来、山門=旧中泉御殿裏門(市指定文化財)、寛文10年(1670年)の御殿廃止と表門=西光寺・裏門=西願寺への移築、薬医門の様式、磐田駅北口から徒歩約6分を確認
- 民間二次情報 静岡県:歴史・観光・見所「西願寺(磐田市)」
現地案内板(磐田市教育委員会文化財課)の全文転記を確認。天正12年(1584年)の御殿建築、約30年間の使用、寛文年間の廃止、主殿が本堂として使用後に改築で現存しないこと、平成17年11月21日の市指定を確認
- 行政・公的資料 磐田市公式ウェブサイト「市指定文化財」
建造物「旧中泉御殿裏門」(中泉)が市指定文化財一覧に掲載されていることを確認
- 行政・公的資料 磐田市観光協会「まちなか歴史と文化の新発見 ありがた歩記 中泉編」(PDF)
山号「弘誓山」の表記、中泉御殿裏門移築の解説、中泉が東海道の陣屋町として栄えたとする総説を確認(PDF本文を抽出して確認)
- 行政・公的資料 いわた文化財だより第235号
令和6年10月1日発行。P4「市指定文化財 旧中泉御殿裏門(西願寺)」の写真キャプションおよび「文化の秋!親子文化財めぐり」(磐田市中泉周辺・西願寺など)の案内を確認
- 行政・公的資料 磐田市文化財保存活用地域計画(令和6年9月)
p.54 中泉地区「中泉御殿・代官関係」の項に「旧中泉御殿裏門(西願寺)」と記載されていることを確認
- 地域資料 中遠昔ばなし 第134話「中泉御殿と家康」(中遠地域の広域行政サイト)
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣前の作戦会議(板倉重宗ら)、夏の陣の作戦、御殿廃止後に主殿及び裏門が西願寺に買収され書院が常楽寺等へ分散したこと、御殿の一部に陣屋が設けられたことを確認(『磐田むかしばなし』からの再話)
- 行政・公的資料 磐田市観光協会「御殿遺跡公園」
家康が家臣の伊奈忠次に命じ天正12年から15年(1584年から1588年)に御殿を築いたこと、御殿が全国に90か所ほど設けられた宿泊・休憩施設であること、敷地約1万坪・土塁と水堀の要害の地であったことを確認
- 行政・公的資料 磐田市公式ウェブサイト「施設ガイド 御殿遺跡公園」
御殿遺跡公園が市の公園として整備・公開されていることを確認(中泉御殿の跡地の現況として使用)
- 民間二次情報 コトバンク「中泉村」(日本歴史地名大系)
中泉村が見付宿の南・磐田原台地南端部に位置すること、東海道が村の中央を南北に通り中泉代官陣屋の南で西に折れること、元禄期に「中泉町」とも記されたこと、「遠州中泉古城記」に中泉御殿の記録があることを確認
- 神社公式情報 府八幡宮 公式サイト
明治22年(1889年)の鉄道開通と駅設置に伴い中泉の市街地が形成されたとする記述を確認(中泉の近代の地域文脈として使用)
For Families
このお寺が菩提寺のご家族へ
菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
- お墓の場所
- 墓地の区画
- 次回の法要
- 仏壇の場所
- 位牌の有無
- お寺からの連絡を受ける人
- お寺の連絡先
- 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
- 実家の名義
- 実家を今後誰が管理するか
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