ATAWI TEMPLE 地域寺院研究紀要

実際寺朱印寺領と鮫島の神明社・天神社

寺領2石・両社領2石・朱印状6通から読む近世村落信仰

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.24
資料検証
追加調査中

要旨

本稿は、近世鮫島村の実際寺に関して『可睡斎史料集』が記す朱印寺領2石と「御朱印両社領2石」、および『日本歴史地名大系』が示す伊勢神明領1石・天神領1石を照合し、寺院と村社の制度的関係を検討する。第5巻の検索情報によれば、実際寺には1649年11月17日付の徳川家光朱印状を含む6通の朱印状が伝来したとされる。寺領2石は村高全体に比べれば小さいが、将軍権力が免許・安堵する固有領として、寺院の継続性と村落内の公的位置を支えた。さらに両社領の朱印を実際寺側が保持したという記録は、近世の神仏関係を示す重要な手掛かりである。ただし現段階では、実際寺を両社の「別当寺」と明記する原文、祭祀分担、社僧、会計、神事運営の詳細を確認していないため、別当的関与を研究仮説として扱う。天神社の1601年朱印伝承、1804年から1818年の再建、1878年の村社列格を時系列化すると、近世の寺社領秩序が明治の神仏分離・社格制度により再編された過程が浮かぶ。朱印状6通を単なる寺宝ではなく、村の宗教資源を配分し記憶する文書群として読む。

キーワード:実際寺/朱印寺領/寺社領/神明社/天神社/神仏習合/鮫島村

1 問題設定―4石を寺院経済だけで読まない

『可睡斎史料集』第1巻の館内限定全文検索結果には、実際寺について「御朱印弐石」「御朱印両社領二石」に相当する記録がある。『日本歴史地名大系』の鮫島村項は、実際寺領2石、伊勢神明領1石、天神領1石を列挙する。2つの資料を重ねると、両社領2石の内訳が各1石だったと理解できる。

ただし寺領2石と社領2石を合わせて「実際寺領4石」と表記すると、権利主体の差が失われる。朱印状を寺が保管したとしても、寺院固有の収益と神社祭祀に充てる収益が会計上同一だったとは限らない。本稿では寺領、神明社領、天神社領を別勘定として考える。

石高は土地面積ではなく、米換算の公定生産力を示す。したがって2石という数値から直ちに田畑の面積、実収量、年収を算出できない。土地の種類、名請人、年貢免除の範囲、荒地化、用水条件、換金作物を確認する必要がある。朱印高と現実収入は区別される。

鮫島村の村高は正保期612石余、元禄期641石余、幕末762石余と記録される。この全体に対して寺領2石は小さい。しかし重要なのは比率だけではなく、幕府朱印によって一般の年貢地と異なる法的扱いを受け、寺院の名と領分が反復して公認された点にある。

朱印寺領は、寺院の日常経営、堂宇修理、法会、住持扶持、境内維持を支える基盤となり得たが、実際寺の支出項目は未確認である。一般論を個別寺院の実態として断定せず、年貢割付、免状、勘定帳、請取状、修理勧化帳が残るかを調べる必要がある。

「朱印」と「除地」も同義ではない。朱印地は将軍朱印状による権利確認を基本とし、除地は検地帳・郷帳上で年貢賦課から除かれた土地を指す場合がある。幕末・明治初年資料に実際寺除地という表現が現れたとしても、近世を通じて同じ法的根拠・範囲だったとは限らない。朱印高、土地筆、年貢免除、領主支配を資料ごとに整理し、用語の差を維持する必要がある。

石高表記も原文の「弐石」「二石」と研究本文の2石を区別する。本文では算用数字へ統一するが、翻刻表では原文表記を保存し、異体字や追記を注記する。表記統一が史料差を消さないよう、原文列と正規化列を併設する。

村高との比率計算には同一時点の値を用い、異なる年代の数字を無説明で割らない。計算式、丸め方、単位を図表脚注に示す。

本稿は、4石を小規模寺院の経済数字として閉じず、寺と2社を結ぶ権利文書の構成として読む。寺領・社領の区別、朱印の発給と更新、保管主体、祭祀運営、明治以降の再編を順に追うことで、実際寺が鮫島村の宗教制度で占めた位置を検証する。

鮫島の集落内に立つ実際寺の寺号標
鮫島の集落内に立つ実際寺の寺号標。所在地の現況を示す資料であり、石標の造立年は銘文調査を経るまで確定しない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

2 1649年家光朱印状と6通の文書群

『可睡斎史料集』第5巻の館内限定全文検索結果は、実際寺関係資料として1649年11月17日付、大猷院すなわち徳川家光の朱印状を示す。慶安2年に当たるこの年紀は、寺社領の公認を考える基準点となる。ただし本文全文と原本画像は公開範囲で確認できていない。

朱印状6通という数量が正確なら、1回限りの授与ではなく、複数代の将軍による更新・継承を示す可能性が高い。しかし各通の発給者、年月日、宛所、村名、石高、文言を一覧化するまでは、6通すべてが同じ寺領と両社領を対象にしたとは断定できない。

朱印状研究では、原本、写、目録記載を区別する。朱印の色・寸法、料紙、折り方、箱書、包紙、裏書、継承時の提出控を記録すれば、文書がいつどのように保管されたかを追える。寺に現存するのか、史料集編纂時に調査されたのか、所在確認が最優先となる。

1649年文書に「先規」や従来領の安堵を示す文言があれば、権利の起源は発給年より古い。逆に、1649年を創始年とするには新規寄進を示す文言が必要である。天神社には1601年に伊奈忠次から1石を受けたという伝承があるため、幕府朱印が先行権利を追認した可能性を検討できる。

6通の連続性は、寺院が文書を世代間で保管し、必要に応じて権利を提示したことを意味する。文書そのものが制度資源であり、紛失・焼失・欠損は経済的権利の説明力に影響した。保管箱、文書目録、写本の存在は寺院アーカイブズの形成史を示す。

将軍代替わりの朱印改めでは、寺社が旧朱印を提出し、新朱印を受ける手続が行われた。実際寺の6通についても、継目裏書、提出控、寺社奉行への願書、可睡斎または十輪寺を介した連絡文書が残る可能性がある。更新手続に本寺・僧録司が関与したなら、朱印寺領研究は前稿の本末制度研究と接続する。ただし一般制度から実際寺の手続を推定するに留め、個別文書で確定する。

6通が連続する将軍代の文書なら、欠けている代の有無も意味を持つ。発給されなかったのか、失われたのか、別所に保管されたのかを区別するため、寺の文書目録だけでなく可睡斎・十輪寺・旧領主家・行政機関の控帳を照合する。

したがって今後は、第5巻該当頁の全文翻刻と原史料目録の照合を行い、6通を1行ずつ表にする。列項目は発給者、年、宛所、対象地、石高、寺領・社領の別、原本・写の別、朱印・黒印、現所蔵である。連続性と断絶を可視化して初めて、朱印寺領の長期推移を論じられる。

真如山の扁額を掲げる実際寺本堂正面
実際寺本堂正面。「真如山」の扁額を確認できる。現在の堂宇を天正期または近世の建物と同一視せず、建築年代・修理履歴は棟札等の調査課題とする。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

3 神明社1石・天神社1石と寺の関与

『日本歴史地名大系』は鮫島村の宗教領として、実際寺領2石のほか伊勢神明領1石、天神領1石を記す。『可睡斎史料集』の「両社領2石」と数値が合致するため、両社を神明社・天神社とみる蓋然性は高い。ただし「両社」の固有名が原文にあるかは全文確認を要する。

寺が両社領の朱印を所持したという記録は、実際寺が神社祭祀と制度上関係したことを示唆する。近世には寺院が神社の祭祀・管理を担う別当関係が広くみられた。しかし、所持だけで別当寺という役職名、独占的支配、祭礼主宰のすべてを証明することはできない。

別当的関与を確定するには、神社棟札、祭礼帳、神主・社僧の署名、修理勧化帳、神前読経、社領年貢の受取記録、明治初年の引渡文書が必要である。実際寺住持が両社の修理や祭礼にどのような責任を負ったかを、役割ごとに明らかにするべきである。

神明社は伊勢神宮系の信仰、天神社は天神信仰を名に持つが、勧請年・祭神・祭日は公開資料だけで確定しない。名称から全国的な信仰内容を推定して地域実態と置き換えず、鮫島の氏子組織、講、祭礼経路、神輿、奉納物を現地資料で確認する。

寺領2石と各社領1石の並置は、村の宗教的資源が1寺2社へ配分された構造を示す。寺が文書保管の中心だったなら、宗派寺院としての機能に加え、村の複数祭祀を文書・土地の面で接続する結節点だった可能性がある。これは村落宗教の複合性を示す仮説である。

空間配置も制度関係を判定する材料となる。実際寺、神明社、天神社、旧社地、寺社領筆を地籍図上に復元し、参道・集落道・水路との接続を調べる。近接していても別当関係の証明にはならないが、祭礼動線や管理の実務可能性を検討できる。反対に離れていれば、寺が複数地点の祭祀を文書上統括した可能性が問題となる。地名「天神」は信仰の空間的記憶として慎重に扱う。

社領の名義と祭神の実態が一致したかも検証する。社名は改称・合祀・遷座によって変わり得るため、近代の神社名から朱印状の社を直結しない。棟札、石祠銘、旧社地伝承、神社明細帳を比較し、同一性の根拠を段階表示する。

神社側に伝わる朱印写や由緒書があれば、寺側の記録と語句単位で比較する。片方だけの沈黙を、関係がなかった証明とはしない。

実際寺を単に「神社を支配した寺」と描くと、神職、氏子、村役人、土地耕作者の主体性が消える。むしろ朱印をめぐる権利は複数主体の協働と交渉によって運用されたと考え、祭祀実務、収益管理、修理負担、文書保管を分けて復元する必要がある。

実際寺境内に並ぶ小堂
境内に並ぶ小堂。堂名・本尊・建立年・移設歴は掲示と寺院記録を照合して確定すべきであり、外観だけから近世以来の遺構とは判断しない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

4 天神社の1601年伝承・再建・村社列格

『静岡県磐田郡誌』は、鮫島字天神の天神社について、古老の伝説として1601年2月に伊奈備前守から朱印高1石を受けたと記す。伊奈備前守は伊奈忠次を指すと考えられるが、郡誌自身が伝説と明示しているため、1601年文書の現存を示す記述ではない。

この伝承と1649年家光朱印状を結ぶと、地方支配担当者による初期の給付が、後に将軍朱印で安堵されたという筋書きが成立し得る。しかし両文書の文言・対象地が確認されない段階では仮説である。伝承の年紀が後世の朱印状や棟札から構成された可能性も残る。

郡誌は天神社が文化年間、すなわち1804年から1818年に再建されたとする。再建は、社殿が長期にわたり同じ姿で残ったのではなく、村が資金・材料・労働を再投入したことを示す。棟札が現存すれば、願主、庄屋、工匠、別当または住持の関与を具体化できる。

1878年に村社へ列したという記録は、近世の社領・寺社関係とは異なる国家制度への編入を示す。神仏分離後、神社は寺院から制度上切り離され、社格・氏子区域・神職が再編された。実際寺が保持した可能性のある社領文書が、誰へ引き渡されたかが重要な論点となる。

明治初年の変化を単に「神仏習合が消滅した」と描くべきではない。祭礼、氏子関係、奉納慣行、旧社地、口碑は制度変更後も継続し得る。公的所属の断絶と地域実践の連続を分け、社寺双方の記録と住民記憶を比較する必要がある。

1878年の村社列格は、神社の由緒が同年に始まったことを意味しない。近世以来の信仰対象を新しい行政分類へ置き直した出来事である。社格申請書、神社明細帳、境内図、祭神届、氏子戸数、財産目録が残れば、神仏分離後にどの由緒と資産が選択的に記載されたかが分かる。実際寺や社領朱印への言及が削除・継承・言い換えられたかを比較することが重要である。

文化年間の再建から村社列格まで約60年以上ある。この間の修理、祭礼、神職交代を追えば、神仏分離直前の運営実態が見える。年紀のある灯籠、手水鉢、狛犬、幟、祭具も、文書の空白を補う物質資料として記録する。

物質資料の年紀は造立年、再建年、移設年を区別する。現在地にあることから、造立当初から同じ場所にあったとは判断しない。

天神社の歴史は、1601年の伝承、1649年の朱印記録、文化年間の再建、1878年の村社列格という4つの節点で整理できる。この時系列へ実際寺の住持名、社領管理、祭礼記録を挿入できれば、寺社関係の成立・持続・解体を実証的に追跡できる。

実際寺境内の聖徳太子堂
掲示により聖徳太子堂と確認できる境内小堂。現在の職能信仰を示す資料であり、実際寺の創建期へ遡る施設とはみなさない。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

5 朱印高・村高・実収を結ぶ経済史

鮫島村の公定村高は、正保期612石余、元禄期641石余、幕末762石余へ増加した。数字は新田開発と検地・高入れの結果を反映するが、同じ土地の実収増だけを意味しない。寺領・社領各石高が村高のどこに計上されたかを郷帳・検地帳で確かめる必要がある。

実際寺領2石は、村高に対して正保期なら約0.33パーセント、幕末なら約0.26パーセントに相当する。両社領を合わせた4石でも約0.65パーセントから0.52パーセントである。ただし、比率の低さは社会的重要性の低さを意味しない。免許された固定領である点が重要である。

石高を現代の貨幣へ直接換算することは避けるべきである。米価、収納率、年貢免除、作柄、耕作者への給分、現物・金納の違いにより価値は変動する。寺院経営を論じるには、朱印高だけでなく檀家収入、葬祭、施入、山林、貸付、修理勧進を含む収支構造を見る。

社領についても、1石が全て神社へ直接納入されたとは限らない。耕作者、名主、収納担当、祭礼費、社殿修理、神職給分の関係を示す帳簿が必要である。実際寺が徴収主体か保管主体か、名義人か管理人かを区別できれば、別当的関与の具体像が得られる。

新田開発によって村高が伸びる中で、朱印高が固定されていたなら、村全体に対する比率は低下する。反対に、新田内に寺社領が追加設定された可能性もある。朱印状の地名、字名、田畑区分を地籍図へ落とし込むことで、宗教領と開発地の空間関係を検証できる。

寺社領を耕した人びとの側から見ることも欠かせない。朱印高の名義が寺社にあっても、日常の耕作は村内百姓や入作者が担った可能性がある。名寄帳、宗門人別帳、田畑質入証文、年貢請取から耕作者を特定し、檀家・氏子・村役人との重なりを調べる。宗教領は寺僧だけの閉じた経済ではなく、耕作者の家計、用水負担、村入用と接続する土地制度だった。

収入推計を行う場合は、上限・下限を示す。朱印高2石をそのまま収納量とせず、作柄、年貢率、必要経費、未進を変数として複数条件を置く。推計値は史料値と視覚的に区別し、現代貨幣換算を主要結論にしない。

寺社領の収入と支出が同じ帳簿に載るなら、勘定科目と筆跡から担当者・会計期間を特定し、後世の合算記載を近世実態へ遡及させない。

この経済史的分析は、朱印を権威の象徴として眺めるだけでなく、土地・水・労働・祭祀を結ぶ制度として捉える。実際寺の2石と両社の各1石は小さな数値だからこそ、村落の限られた資源をどのように継続配分したかを精密に追う手掛かりとなる。

実際寺本堂側面と境内
本堂側面と境内の現況。建物・石造物・植栽の配置は地域景観の基準資料となるが、過去の配置を示すには地籍図・境内図との比較が必要である。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

6 結論―朱印状群を村落宗教の共同文書として読む

本稿が確認したのは、実際寺領2石、神明社領1石、天神社領1石という複数資料の整合、1649年11月17日付家光朱印状と朱印状6通の存在を示す史料集情報、天神社の1601年朱印伝承、文化年間再建、1878年村社列格である。

一方、朱印状6通の全文、各通の発給者・対象、寺社領の所在地、実収、実際寺住持の祭祀権限、神職・氏子との分担、明治期の引渡手続は未確認である。この未確認範囲があるため、実際寺を両社の別当寺と断定せず、別当的関与の可能性と表現する。

新しい見取り図は、4石を1寺の所有高として合算せず、寺院固有領2石と2社の祭祀資源各1石を、実際寺が保管する文書群によって接続された構造として捉える点にある。寺は宗派組織の末寺であると同時に、村内祭祀を文書面で束ねる可能性を持った。

最優先の個別審査は、朱印状原本または高精細画像を6通単位で確認することである。翻刻、寸法、朱印、料紙、包紙、箱書、裏書、損傷、旧整理番号を記録し、『可睡斎史料集』の翻刻と対照する。社名・村名・石高の異同は注記して残す。

次に、神明社・天神社の棟札、祭礼帳、氏子文書、明治初年社寺明細帳、土地台帳を調べる。寺院側史料だけで関係を描かず、神社・自治会・行政資料を対等に組み合わせることで、宗教制度の変更が地域実践へ与えた影響を具体化できる。

公開に際しては、朱印状の高精細画像が防犯・保存・個人情報上の問題を生じないか所蔵者と協議する。全文画像を出せない場合でも、書誌、寸法、年紀、発給者、宛所、石高、保存状態、翻刻の検証責任者を公開できる。読者が原本の存在と解釈を区別できるよう、現物確認済み、史料集翻刻で確認、検索結果のみという閲覧段階を明示する。

最終成果は、6通の朱印状目録、寺社領位置図、天神社年表、関係主体図の4点を本文と連動させる。図表ごとに典拠と不確実性を示せば、別当関係という結論だけを先行させず、読者が同じ材料から再検討できる。

史料の保存場所や閲覧条件が変わる場合に備え、永続的識別子、請求記号、撮影日、画像番号を記録する。更新時には新旧翻刻の差分も公開し、訂正の理由を追跡可能にする。

朱印状群の価値は、将軍の印がある古文書という希少性だけではない。鮫島村が寺院・神社・耕地・祭礼をどう維持し、制度転換に対応したかを復元できる共同記憶装置である。保存、目録化、適切な画像公開を進めれば、実際寺研究は近世村落宗教史の比較事例となる。

真如山の扁額と実際寺の表示がある本堂入口
本堂入口の「真如山」扁額と「実際寺」の表示。現行の山号・寺号を確認する現地資料として用い、扁額の筆者・製作年は未確認とする。撮影:ATAWI TEMPLE、2026年。

参考文献・資料

  1. [1] 曹洞宗宗務庁「実際寺 - 曹洞禅ナビ」。 実際寺を静岡県磐田市鮫島202に所在する曹洞宗寺院として確認した。創建・本尊・本末関係の根拠には用いていない。 最終閲覧日:2026-07-24。
  2. [2] 静岡県「静岡県知事所轄宗教法人名簿」。 磐田市鮫島202の宗教法人実際寺と曹洞宗所属を確認する行政資料として参照した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  3. [3] 国立国会図書館デジタルコレクション/静岡県磐田郡教育会「静岡県磐田郡誌 コマ454」。 1921年刊。実際寺の所在地、山号、本尊、十輪寺末、天正初年の存祝創建伝承、および十輪寺の可睡斎末という記載を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
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  5. [5] 国立国会図書館サーチ/思文閣出版「可睡斎史料集 第4巻 僧録司文書3」。 1996年刊の書誌とデジタル化資料の所在を確認した。実際寺関係記録は館内限定全文検索の結果を手掛かりとし、翻刻全文の再確認を今後の課題とした。 最終閲覧日:2026-07-24。
  6. [6] CiNii Books/思文閣出版「可睡斎史料集 第5巻 僧録司記録1」。 1998年刊。書誌情報と館内限定全文検索結果を併用し、1649年11月17日付家光朱印状、朱印状6通、神明・天神両社領に関する記録の所在を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
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  8. [8] 国立国会図書館デジタルコレクション/静岡県磐田郡教育会「静岡県磐田郡誌 コマ366」。 鮫島字天神の天神社について、1601年に伊奈忠次から朱印高1石を受けたという伝承、1804年から1818年の再建、1878年の村社列格を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  9. [9] 国立国会図書館デジタルコレクション/静岡県磐田郡教育会「静岡県磐田郡誌 コマ111」。 仿僧川が前野・白拍子・草崎・鮫島を経て海へ注ぎ、下流で舟運に利用されたという地理記述を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  10. [10] 磐田市「「世界かんがい施設遺産」寺谷用水」。 寺谷用水が1590年から天竜川左岸の水田へ通水し、現在の受益面積が1504ヘクタールであるという行政説明を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  11. [11] 磐田市教育委員会「いわた文化財だより 第165号」。 寺谷用水が1588年に着工し1590年に完成したとの伝承、寺谷村から浜部村まで約12キロメートルの流路、用水管理と旧絵図を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  12. [12] 磐田市「磐田市文化財保存活用地域計画」。 寺谷用水による新田開発、長野地区の仿僧川流路変更、遠州地方の地域信仰・文化財を広域的に捉える行政上の枠組みを参照した。 最終閲覧日:2026-07-24。
  13. [13] ATAWI TEMPLE「実際寺 寺院詳細」。 2026年撮影の寺号標、本堂、扁額、境内小堂の現況を確認した。歴史事項は外部資料へ遡って照合した。 最終閲覧日:2026-07-24。

著者情報

大石浩之。富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役。静岡県磐田市を拠点として介護事業および不動産事業を運営する一方、ATAWI TEMPLEにおいて地域寺院資料の収集・整理・公開に取り組む。本論文は寺院・宗派の公式見解ではなく、表示した資料に基づく著者の研究成果である。

資料の追加および記載の訂正は、情報提供・訂正窓口で受け付けている。