ATAWI TEMPLE 地域寺院研究紀要
庚申塚古墳上に形成された大乗院三仭坊の境内景観
考古資料・2本堂・石段・都市計画整備を時間層として読む
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
本稿は、磐田市中泉の真言宗醍醐派寺院・大乗院三仭坊の境内を、1つの年代に属する寺院建築ではなく、古墳と伝えられる微高地、近世後期と推定される堂宇・石段、1942年の寺院合併、2005年度以降の境内整備が累積した文化的景観として分析する。寺院公式資料は境内が約1550年前の前方後円墳「庚申塚古墳」の後円部に位置し、2005年度の整備時に埴輪片が発見されたと説明する。他方、磐田市教育委員会の文化財一覧にある「庚申塚古墳出土遺物」は所在地を見付と記し、明治期出土の斜縁二神二獣鏡・石釧・車輪石を挙げる。両者が同一古墳に属するかは、公開資料だけでは確定できない。この不一致を隠さず、寺院伝承、行政台帳、現地写真という性格の異なる証拠を分離した。境内に並立する大乗院本堂と三仭坊堂は、2寺1境内という制度史を空間化し、26段の石段と石垣は微高地への上昇を儀礼的な参道へ変換する。さらに庭園、休憩所、護摩道場などの現代的整備は、古さを消したのではなく、参詣・地域利用・維持管理の条件を再編した。結論として、この境内の価値は特定の1棟や1時代だけに還元できず、考古学的基盤、宗教建築、合併の記憶、現代利用が相互に可視化される点にある。
キーワード:大乗院/三仭坊/庚申塚古墳/中泉/寺院建築/文化的景観/磐田市文化財
1 問題設定―境内を年代の混成として読む
寺院の境内を説明するとき、一般には本堂の建立年代、宗派、本尊、文化財の有無が順に列挙される。しかし大乗院三仭坊の場合、その方法だけでは空間の成立を捉えにくい。現在の境内には、大乗院と三仭坊という由来の異なる寺号、2棟の本堂、複数の本尊、微高地へ上る石段、石垣、庭園、休憩所、護摩を行う場所が共存している。しかも寺院は、この微高地を約1550年前の前方後円墳である庚申塚古墳の後円部と説明する。仮に年代推定と墳形が考古学的調査によって確定するなら、境内の基盤は堂宇より1000年以上古い。したがって、ここで問うべきなのは最古の年代だけではない。異なる時期に成立した要素が、どのように重なり、現在の参詣者に1つの境内として経験されるようになったかである。
本稿では文化的景観を、自然環境と人為的構築物の美しい組合せという狭い意味では用いない。地形の選択、建物の配置、動線の形成、信仰実践、維持管理の判断が長期間にわたって蓄積した結果として読む。古墳とされる高まりは考古学的時間、石段と堂宇は建築史的時間、1942年の合併は制度史的時間、2005年度以降の整備は都市計画と現代宗教の時間を示す。それらは互いに置き換わったのではなく、同じ場所に残された。参詣者が石段を上り、2棟を見比べ、庭園を通り、護摩の場へ向かう行為は、複数の時間層を身体的に横断することになる。
証拠の扱いには段階を設ける。現地写真から確認できるのは、撮影時点の形態と配置である。寺院公式資料から確認できるのは、寺院が自ら継承する説明と整備記録である。行政資料から確認できるのは、文化財指定や台帳上の名称、指定日、記載所在地である。これらが一致すれば蓋然性は高まるが、一致しない場合は一方を便宜的に採用してはならない。とくに庚申塚古墳の名称と出土遺物には後述する資料上の不一致がある。本稿はそれを未解決事項として残し、断定の範囲を限定する。これは記述の弱さではなく、将来の発掘報告書、地籍資料、収蔵台帳による検証を可能にするための基礎作業である。
2 庚申塚古墳と出土遺物―同定できること、できないこと
寺院の境内案内は、境内が約1550年前の前方後円墳「庚申塚古墳」の後円部にあり、2005年度の都市計画に伴う境内整備で埴輪片数点が発見されたと記す。この説明は、微高地が偶然の造成土ではなく、古墳時代の遺構を含む可能性を示す重要な一次的記録である。約1550年前を2026年から単純に遡れば5世紀後半となるが、寺院ページの数値は幅をもつ通俗的換算と考えるべきで、築造年代を西暦1年単位で確定するものではない。また、前方後円墳という墳形の根拠、墳丘規模、周溝の有無、埴輪片の器種・年代・保管先は、同ページだけでは確認できない。ゆえに本稿では「寺院が前方後円墳と説明する」「整備時に埴輪片が見つかったと記録する」と表現し、考古学的確定事項とは区別する。
さらに注意を要するのが、磐田市教育委員会の文化財一覧に掲載される「庚申塚古墳出土遺物」である。行政資料はこれを2005年11月21日指定の市指定考古資料とし、明治期に発見された斜縁二神二獣鏡、碧玉製の石釧、車輪石を挙げる。鏡と腕輪形石製品は、被葬者の広域的な交流と社会的地位を考えるうえで重要である。ただし同じ一覧の所在地欄は「見付」となっており、大乗院三仭坊の所在地「中泉」と一致しない。同名古墳、保管場所の記載、旧字名と現町名の差、台帳編集上の分類など複数の可能性があるが、公開資料から理由を特定できない。したがって、これら3点の指定遺物を大乗院境内からの出土品と断定することはできない。
この相違は、地域資料をデジタル化する際に典型的に生じる問題を示す。検索結果では固有名詞が一致すると同一対象に見えるが、文化財台帳の所在地は出土地、所有者所在地、保管地のいずれを示すかが資料ごとに異なる場合がある。必要なのは、市の指定時調書、発掘・立会調査報告、遺物台帳、古墳分布図を相互照合することである。2005年度の埴輪発見と2005年11月の文化財指定が近接することも注目されるが、時間的近さだけで因果関係を導くことはできない。現段階で確実に言えるのは、寺院が境内の古墳性を明示していること、市が同名の古墳出土遺物を指定していること、所在地表記が一致しないことの3点である。
名称の照合には、表記の歴史も考慮しなければならない。「庚申塚」は庚申信仰に関係する塚を指す一般性のある地名であり、固有名が一致しても必ずしも同じ遺跡を意味しない。逆に、同じ遺跡が小字名、通称、調査時の遺跡番号によって別名で記録されることもある。明治期の発見記録が後代の行政区域で整理され、指定文化財の所在地が保管地によって表示された可能性も排除できない。旧版地形図、土地台帳、遺跡地図の改訂履歴、指定申請時の所有者情報まで遡る必要がある。ウェブ上で閲覧できる一覧は調査の入口として有用だが、一覧表の1行だけでは、遺物と出土地の関係を復元できないのである。
それでも古墳上の寺院という視点は有効である。墳丘は後世の人々にとって、周囲より高く、境界が認識され、特別な由来を付与しやすい場所だった。寺院建立が古墳の被葬者祭祀を直接継承したと証明する資料はないが、古い高まりが宗教空間として再解釈された可能性は検討に値する。重要なのは、古墳と寺院を直線的な信仰継承で結ぶことではなく、土地の形態が後代の配置と動線を制約し、同時に聖性の説明資源となった過程を考えることである。
3 2本堂・2本尊―合併史を可視化する建築配置
大乗院三仭坊の境内景観を最も特徴付けるのは、1法人の境内に2つの本堂と2つの本尊が存続する構成である。寺院資料によれば、大乗院本堂は大青面金剛を本尊とし、役行者、理源大師、弘法大師などを祀る。三仭坊堂は三仭坊大権現を本尊とし、不動明王、聖観音などを祀る。両堂は単なる新旧本堂ではない。大乗院と小笠寺三仭坊という異なる寺院系譜が1942年に合併した後も、礼拝対象と建築を一方へ吸収せず、並置した結果である。この配置は、法人制度上の統合と信仰実践上の複数性が必ずしも同じ速度で進まないことを示す。
大乗院の大青面金剛は庚申信仰と結び付き、三仭坊大権現は山岳修験の系譜を負う。密教、修験、庚申、観音、地蔵などの信仰要素が境内に集まるのは、教義的な無秩序ではない。近世寺院は地域住民の祈願、講、年中行事、葬送、厄除けといった複数の需要に応答する場であり、祭祀対象の複数性は社会的機能の広がりを反映する。2本堂はその履歴を建築として保存している。もし合併時に一方を撤去し、本尊を1棟へ集約していれば、管理は簡略化できたかもしれない。しかし現在のような並立を選んだことで、参詣者は2寺の来歴を空間的差異として認識できる。
寺院公式資料は大乗院本堂を約220年前の建築と推定する。2026年を基準にすれば18世紀末から19世紀初頭に相当するが、これは寺院による推定であり、棟札、墨書、建築部材の編年が公開されているわけではない。年代の確定には、小屋組、柱間、軒廻り、彫刻、屋根改修履歴の実測調査と、棟札・過去帳・修理記録の照合が必要である。現地写真は建物の現状を示すが、写真だけから創建年代を決めることはできない。したがって「約220年前と伝える」と記すのが適切である。
2棟の保存は建物単体の維持にとどまらない。祭礼の順序、扉を開く日、本尊への奉仕、堂間の移動、参詣者がどちらを先に拝するかという無形の実践を記録する必要がある。建築調査が平面図と部材年代だけを残しても、使われ方が失われれば合併寺院としての意味は半減する。逆に口承だけでは、改築による形態変化を追跡できない。図面、写真、聞き取り、儀礼記録を同じ年次で収集することが、2本堂の価値を総合的に保存する条件となる。
4 26段の石段と石垣―地形を参道へ変換する装置
寺院は境内へ至る石段を26段とし、石垣とともに約220年前と推定する。石段は高低差を解消する実用品である一方、俗地から堂宇へ進む身体感覚を組織する宗教的装置でもある。平地を歩く場合と異なり、上昇する参詣者は足元へ注意を向け、速度を落とし、視線を段階的に上げる。門、樹木、石垣、堂宇は一度に見えるのではなく、移動に伴って順に現れる。この視覚的展開が、微高地を単なる地形から参道へ変える。
古墳の墳丘が基盤であるなら、石段と石垣は古代地形に対する近世以降の加工である。加工は遺構の破壊という側面をもち得る一方、崩落を防ぎ、参詣を可能にし、結果として高まりを現在まで残した可能性もある。文化財保護では「原形」と「後世の改変」を単純に対立させがちだが、寺院境内では改変そのものが歴史である。問題は改変の有無ではなく、いつ、どの範囲を、どの材料と工法で改変したかを特定できるかである。
約220年前という推定を検証するには、石材の種類、採石地、加工痕、積み方、目地、裏込め、補修材を記録し、周辺の近世石造物と比較する必要がある。階段全体が同時期とは限らず、摩耗や災害によって踏石だけが交換された可能性もある。現在の写真からは段の連続と石垣の存在を確認できるが、基礎構造や修理履歴までは見えない。3次元写真測量を定期的に行えば、石材のずれ、膨らみ、排水による浸食を数値で比較できる。これは景観記録であると同時に、防災と維持管理の資料となる。
参道の保存では利用者の安全も不可欠である。高齢者、子ども、身体に障害のある参詣者にとって26段は明確な障壁になり得る。手すりや迂回路の設置は歴史景観を変えるが、利用を閉ざせば生きた宗教空間としての継続性が弱まる。解決は「何も加えない」ことではなく、古材と新設部を識別可能にし、可逆性を高め、視線軸を妨げない設計を選ぶことである。古墳地形、石段の歴史性、現代のアクセシビリティを同時に検討する必要がある。
5 2005年度以降の整備―保存と現代利用の再編
境内案内によれば、2005年度に都市計画に伴う境内整備が行われ、翌2006年度には庭園が完成した。現在見られる庭園、休憩所、植栽、動線の一部は、この時期の再編を経たものと考えられる。ここで重要なのは、現代整備を歴史的景観の外部に置かないことである。寺院は固定された展示物ではなく、宗教活動、地域行事、参詣、清掃、法務を継続する施設である。排水、休憩、車両動線、安全性、維持費への対応がなければ、古い堂宇も利用できない。現代の整備は景観へ新しい時間層を加える。
一方、2005年度の工事時に埴輪片が見つかったという寺院記録は、整備が地下遺構へ接触したことを示唆する。古墳上とされる境内で造成、配管、植樹、基礎工事を行う場合、工事範囲と深度の記録、文化財担当部局との協議、出土位置の測量が重要になる。埴輪片がどの地点、どの深さ、どの土層から出たかが分かれば、墳丘の範囲や改変履歴を考える手掛かりになる。しかし公開ページにはその詳細がない。今後、工事図面、写真、立会記録、遺物の保管先を確認し、寺院の記憶を検証可能な記録へ接続する必要がある。
庭園と休憩所は、参詣者が滞在する時間を延ばし、境内を礼拝だけでなく交流と観察の場に変える。護摩道場は修験・密教的実践を可視化し、6地蔵、弁天、稲荷、供養地蔵などは複数の祈願と追悼を受け止める。これらを「付加物」として除外すると、現在の寺院が地域社会で果たす役割を見誤る。ただし新しい施設がいつ、誰の発意で、どの行事と結び付いて設けられたかを記録しなければ、10年、20年と経過した後には由来が不明になる。完成年、寄進者、設計者、施工者、使用目的を簡潔に残す銘板やデジタル台帳が有効である。
景観評価には写真の撮影条件も関わる。広角写真は境内の連続性を示すが、建物間の距離を誇張する場合がある。正面写真は意匠を示すが、地形との関係を失う。保存記録では、同じ撮影点、焦点距離、方位、高さ、年月日を設定し、季節ごとに反復することが望ましい。ATAWI TEMPLEの現地写真は2026年時点の状態を伝える資料であり、将来の改修前後を比較する基準になり得る。美観の提示だけでなく、変化を測る資料として写真を位置付けることが重要である。
整備の評価には、完成直後の姿だけでなく、管理の持続性も含める必要がある。庭木は成長して視線と根系を変え、舗装は雨水の流れを変え、休憩所は利用頻度によって補修周期が変わる。古墳とされる微高地では、根の侵入や集中豪雨による表土流出が地下遺構へ影響する可能性がある。植栽図、排水図、補修記録を保存し、堂宇の雨樋から石垣下部まで水の経路を点検すれば、景観維持と遺構保護を同じ管理計画にまとめられる。現代施設を歴史的要素の敵とみなすのではなく、影響を測定し、必要に応じて変更できる仕組みを設けることが現実的な保存である。
6 結論―重層する文化的景観をどう保存するか
大乗院三仭坊の文化的価値は、古墳、古建築、石段、庭園のどれか1つを選べば説明できるものではない。古墳とされる微高地が場所の基盤をつくり、石段と石垣が上昇の動線を整え、2本堂が1942年以前の2寺の記憶を並置し、現代整備が参詣と地域利用を継続させている。各要素の年代と根拠の強さは異なるが、異なるからこそ境内は地域史の長い時間を可視化する。保存の対象は物体の集合だけでなく、それらの配置関係と使われ方である。
個別審査の結果、古墳に関しては断定を限定すべきことが明らかになった。寺院公式資料にある約1550年前、前方後円墳、2005年度の埴輪片発見は、寺院が公開する記録として引用できる。しかし市指定「庚申塚古墳出土遺物」の所在地欄が見付である以上、明治期出土の鏡・石釧・車輪石を中泉の境内遺物として紹介することはできない。この区別を保つことで、読者は確認済み情報と調査課題を混同せずに済む。将来、指定調書などで同一性が確認された場合は、その根拠とともに記述を更新すべきである。
優先すべき調査は5点ある。第1に、古墳の範囲、墳形、築造年代を示す発掘・測量記録の確認。第2に、2005年度出土埴輪の出土地点、器種、保管先の特定。第3に、市指定出土遺物の指定調書と所在地表記の意味の確認。第4に、本堂、石段、石垣の実測と修理履歴の収集。第5に、祭礼、護摩、堂の開扉、地域利用についての聞き取りと映像記録である。この5点を統合すれば、寺院伝承を否定せず、同時に学術的検証へ開かれた境内史を構築できる。
保存方針は、古い状態への一律な復元ではなく、各時期の介入を識別可能にすることに置くべきである。修理では既存部材と新材を記録し、地形改変を伴う工事では地下遺構への影響を事前評価し、行事では動線と建物の使用状況を残す。公開時には「寺伝」「行政指定」「現地確認」「研究上の推論」「未確認」を表示し、情報の確度を読者が判断できるようにする。大乗院三仭坊は、古墳の上に寺院があるという珍しさだけでなく、地域が過去の地形と宗教的記憶を使い直しながら継承した過程を示す。その重層性こそ、今後の調査と保存の中心に据えるべき新たな知見である。
参考文献・資料
- [1] 大乗院三仭坊「境内案内」。 庚申塚古墳、2005年度の埴輪片出土、石段と石垣、本堂推定年代、2本尊と堂宇配置を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
- [2] 磐田市観光協会「大乗院三仭坊 ありがた歩記 中泉編」。 庚申塚古墳上の立地、2本堂・2本尊、愛宕勝軍地蔵菩薩の12年ごとの開帳、中泉地域との関係を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
- [3] 磐田市教育委員会「令和7年度 磐田の教育」。 市指定文化財一覧に「庚申塚古墳出土遺物」を掲載し、指定日を2005年11月21日、時代を古墳時代とする。所在地欄は見付であり、寺院所在地との不一致に注意して使用した。 最終閲覧日:2026-07-24。
- [4] 磐田市教育委員会「磐田の教育(文化財一覧・庚申塚古墳出土遺物解説)」。 明治期に発見された斜縁二神二獣鏡、石釧、車輪石を紹介する。ただし一覧上の所在地は見付であり、中泉の境内出土品と直ちに同定しない。 最終閲覧日:2026-07-24。
- [5] 磐田市「磐田市文化財保存活用地域計画」。 市域の古墳・遺跡・文化財を地理的、歴史的に位置付ける基礎資料として参照した。 最終閲覧日:2026-07-24。
- [6] 大乗院三仭坊「歴史と本尊」。 大乗院・小笠寺の由緒、本尊、当山派修験、山伏吟味役、中泉御殿、修験道禁止後の再興、1942年合併に関する寺伝を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。
- [7] 静岡県「静岡県知事所轄宗教法人名簿」。 真言宗醍醐派の宗教法人大乗院として、磐田市中泉1丁目10番地6に所在する現行法人情報を確認した。 最終閲覧日:2026-07-24。