中泉地区・現存
連福寺
れんぷくじ
連福寺(れんぷくじ)は、磐田市二之宮にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は龍池山、本尊は釈迦牟尼仏です。寺伝では大同2年(807年)に弘法大師空海が開いた弘福密寺に始まり、平清盛の子・平重盛が伽藍を建てて連福寺と改めたと伝わる古刹で、閻魔堂には県内最大級とされる磐田市指定文化財・木造閻魔大王坐像を安置しています。
別称・関連名称龍池山/弘福密寺(旧称と伝わる)
- 寺院名
- 連福寺
- 地区
- 中泉
- 住所
- 静岡県磐田市二之宮1262番地
- 宗派
- 臨済宗妙心寺派
Basic Information
基本情報
- 寺院名
- 連福寺
- 読み方
- れんぷくじ
- 地区
- 中泉
- 宗派
- 臨済宗妙心寺派
- ご本尊(資料上)
- 釈迦牟尼仏
- ご本尊の現在の確認状況
- 公開資料で確認済み
- 住所
- 静岡県磐田市二之宮1262番地
- Googleマップ
- Googleマップで開く
- 寺院公式サイト
- 未確認
- 電話番号
- 未確認(公式情報または寺院へご確認ください)
- 法要・参拝情報
- 未確認(寺院へご確認ください)
- 駐車場情報
- 確認中(台数・利用条件を現地または公式情報で確認中)
- アクセス・交通手段
- 確認中(最寄駅・バス停からの所要時間を調査中)
- 周辺の目印
- 確認中(周辺の目印を現地確認後に追記)
- 文化財・特記事項
- 市指定文化財あり(木造閻魔大王坐像。ほかに連福寺古墳出土三角縁神獣鏡が磐田市所有で市指定)
- 最終確認日
- 2026.07.11
不明な項目は推測せず、確認中として表示しています。法要、参拝、駐車場、電話での連絡は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
法要・お墓参りで故郷へ帰る方へ
法要や墓参りで帰省される方へ
法要や墓参りは、離れて暮らすご家族が故郷へ帰る大切な機会です。 もし時間があれば、実家の外観、庭木、郵便受け、仏壇、重要書類なども確認してみてください。
結論を出す必要はありません。家族で現状を共有することが大切です。
法要・供養、寺院ごとの作法や予定については、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 01
寺院概要
- 山号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 院号
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 寺号
- 連福寺
- 宗派
- 臨済宗妙心寺派
- 本尊
- 釈迦牟尼仏
- 創建
- 寺伝では大同2年(807年)開創と伝わる
- 開山
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 開基
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 所在地
- 静岡県磐田市二之宮1262番地
- 地区
- 中泉
Database 02
沿革
大同2年開創の伝承と弘福密寺
磐田市観光協会の資料によれば、当寺の開創は大同2年(807年)で、弘法大師空海が厄除地蔵の石仏を作って安置し、真言宗弘福密寺としたのが始まりと伝えられます。この厄除地蔵の石仏は、現在も境内の大師堂に安置されています。大同2年は空海が唐から帰国して間もない時期にあたり、開創伝承は史実として確認されたものではありませんが、遠江各地に残る大師伝承の1つとして、当寺が古代にさかのぼる由緒を伝えてきたことを示しています。
平重盛と「重盛の三連寺」
寺伝では、保元元年(1156年)、遠江守であった平清盛の子・平重盛が当寺に伽藍を建て、龍池山連福寺と改称したと伝えられます。重盛は磐田市内に連城寺(新貝)・連福寺(二之宮)・蓮覚寺(竜洋中島)という「連」の字を冠する3か寺を建てたといわれ、「重盛の三連寺」と呼ばれています。連福寺には重盛の供養塔と伝わる石塔が現存しており、平家一門の嫡男として知られた重盛と遠江との縁を伝えています。伽藍建立の年次や重盛の遠江との関わりの詳細については伝承の域を出ませんが、二之宮の連福寺を含む3か寺に「連」の字の寺号がそろって伝えられ、供養塔などの石造物とともに語り継がれてきたこと自体が、この地域の中世の記憶として貴重です。平家滅亡から800年以上を経てなお、寺号と石塔が伝承を支え続けています。
真言宗から臨済宗妙心寺派へ
弘福密寺として始まったと伝わる当寺は、その後禅宗に転じ、現在は京都の妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派に属しています。改宗の時期や経緯を伝える公開資料は現時点では確認できておらず、磐田市誌など郷土資料による調査が今後の課題です。江戸時代の当寺の寺勢を伝える資料も限られていますが、大正8年(1919年)開創の磐田郡三十三観音霊場で第8番札所とされたことからは、近代の当寺が地域の観音信仰の巡拝路に組み込まれ、近郷の人々の参詣を受けていたことがうかがえます。
閻魔像の遍歴―国分寺から連福寺へ
閻魔堂の木造閻魔大王坐像は、当初から連福寺にあったものではありません。磐田市観光協会の資料によれば、この閻魔像は江戸時代までは国分寺にあり、明治初年に十輪寺へ移された後、明治14年(1881年)に現在の連福寺へ移されました。江戸時代までこの像を安置していた国分寺は、奈良時代の遠江国分寺の法灯を伝える寺院で、当寺からもほど近い中泉の地にあります。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈で多くの寺院が混乱する中、巨大な閻魔像が国分寺から十輪寺、さらに連福寺へと寺から寺へ渡り、最終的に当寺の閻魔堂に落ち着いたという遍歴は、近代の磐田の仏教界の変動を映し出しています。像は鎌倉時代末から室町時代初期の作とされ、忿怒の相で亡者を裁く閻魔王の姿を1.8メートルの巨躯で表した、県内でも屈指の閻魔像です。磐田市の市指定文化財一覧では所有者は連福寺と明記されており、地域の閻魔信仰の中心として当寺が像を守り伝えています。
連福寺古墳と文化財の寺としての現在
当寺の境内近くには、かつて古墳時代前期(約1600年前)の前方後円墳「連福寺古墳」があったと推定されています。墳丘は現存しませんが、かつては全長50メートル以上の高まりがあったとされ、出土した三角縁三神五獣鏡は、近畿地方の大和王権との結び付きをうかがわせる資料として、令和5年(2023年)4月28日に磐田市指定文化財(考古資料・所有者は磐田市)に指定されました。この指定により磐田市の指定文化財は136件となり、鏡は磐田市埋蔵文化財センターで展示されています。また、当寺が所在する二之宮地区一帯は、弥生時代から中世にかけての大規模遺跡である御殿・二之宮遺跡の範囲に含まれており、古代には遠江国府の中心施設が置かれたと推定される、磐田の歴史の核心部にあたります。 平成17年(2005年)11月21日、木造閻魔大王坐像が磐田市指定文化財(彫刻)に指定されました。さらに令和5年(2023年)4月28日には、連福寺古墳出土の三角縁神獣鏡が市指定文化財(考古資料)となり、いわた文化財だより第218号でも「連福寺古墳出土三角縁神獣鏡が市指定文化財に」として紹介されました。磐田市文化財保存活用地域計画でも、中泉地区の文化財として同鏡が位置付けられています。中世の仏像と古墳時代の鏡という時代も性格も異なる2つの文化財が、いずれも「連福寺」の名とともに指定されていることは、当寺とその境内地が長い時間軸で二之宮の歴史を担ってきたことの証といえます。
Database 03
歴代住職
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 04
本尊
- 本尊名
- 釈迦牟尼仏
- 宗教的意味
- 連福寺は、京都の妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊に釈迦牟尼仏を祀ります。真言宗弘福密寺として始まったと伝わる当寺が禅宗の本尊である釈迦牟尼仏を祀る姿には、宗派の変遷の歴史が刻まれています。一方で境内には閻魔堂の閻魔大王坐像や大師堂の厄除地蔵石仏も祀られ、禅と閻魔信仰・大師信仰が重なり合う点が当寺の信仰の特色です。
- 由来
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
- 安置場所
- 調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 05
寺宝・文化財
木造閻魔大王坐像
鎌倉時代末から室町時代初期の作とされる像高1.8メートルの閻魔大王坐像で、県内最大級の閻魔像とされます。平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定文化財(彫刻)となりました。江戸時代までは国分寺に安置され、明治初年に十輪寺へ、明治14年(1881年)に連福寺へ移されたと伝えられ、現在は境内の閻魔堂に安置されています。
連福寺古墳出土三角縁神獣鏡
推定全長50メートル以上の前方後円墳・連福寺古墳から出土した三角縁三神五獣鏡です。古墳時代前期の資料で、大和王権との結び付きをうかがわせるものとして令和5年(2023年)4月28日に磐田市指定文化財(考古資料)に指定されました。所有者は磐田市で、磐田市埋蔵文化財センターで展示されています。
平重盛供養塔と伝わる石塔
伽藍を建てて連福寺と改めたと伝わる平重盛の供養塔とされる石塔が境内に現存します。「重盛の三連寺」の伝承とともに、平家と遠江の縁を伝える石造物です。形式・年代の詳細は現時点では確認できていません。
大師堂の厄除地蔵石仏
寺伝で弘法大師空海が作って安置したと伝わる厄除地蔵の石仏で、現在も境内の大師堂に祀られています。大同2年(807年)開創の伝承とともに、当寺の始まりを物語る尊像です。
Database 06
年中法要
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 07
墓地情報
調査中(確認できた情報から順次更新します)
一般墓・永代供養墓・納骨堂・樹木葬・合祀墓の有無、檀家条件・宗派条件は、寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
Database 08
檀家地域
調査中(確認できた情報から順次更新します)
Database 09
地域との関係
連福寺のある「二之宮」の地名は、遠江国の二宮とされる式内社・鹿苑神社がこの地に鎮座することに由来します。鹿苑神社は履中天皇4年(403年)勧請と伝わる古社で、元慶年間に遠江国司が国府に近い現在地へ遷座したという由緒をもち、二之宮の一帯が古代遠江の中枢に近い土地であったことを物語ります。実際、当寺周辺の御殿・二之宮遺跡は遠江国府の有力な推定地の1つとされ、後には徳川家康の中泉御殿もこの遺跡の範囲に築かれました。古代の国府、中世の平家伝承、近世の御殿と、二之宮は磐田の歴史の節目が積み重なる土地であり、連福寺はその中で法灯を伝えてきました。磐田市観光協会の中泉エリア案内も、この一帯を「奈良時代には国分寺が建てられ、遠江の中心」であった土地と紹介しており、徳川家康の御殿や代官の住んだ陣屋があったことにも触れています。二之宮の当寺から中泉の市街地にかけては、寺社を巡りながら歴史上の人物の面影をたどれる地域として位置付けられており、当寺はその東の起点にあたります。
中泉地区地域づくり協議会の資料によれば、徳川家康は二之宮にある大池へしばしば鷹狩りに訪れたと伝えられ、二之宮から中泉にかけての一帯は家康ゆかりの伝承が色濃く残る地域です。また、当寺の閻魔像はもとは国分寺にあったものが明治14年(1881年)に当寺へ移されたと伝わり、遠江国分寺跡や中泉の寺々と当寺とが、尊像の移動を通じてもつながっていたことがわかります。「えんまさま」の寺として親しまれてきた当寺は、地獄の裁判官である閻魔王を通じて命や行いを見つめ直す場として、二之宮の人々の暮らしの中に根付いてきました。大正期に磐田郡三十三観音霊場の札所となったことも、当寺が近郷の巡拝の受け皿であったことを示しています。閻魔像と三角縁神獣鏡という2つの市指定文化財に加え、重盛供養塔や厄除地蔵石仏の伝承も含めて、当寺は二之宮の記憶の器として、地域とともに歴史を語り継ぐ役割を担い続けています。
Database 11
出典・更新記録
- 行政・公的資料静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として掲載。参照行: L9096
- 郷土資料磐田 中泉ありがた歩記(磐田市観光協会パンフレット)
龍池山連福寺・臨済宗・本尊釈迦牟尼仏。大同2年(807年)弘法大師開創(弘福密寺)、1156年平重盛による伽藍建立と改称、大師堂の厄除地蔵石仏、県内最大の閻魔大王像、閻魔像の国分寺→十輪寺→明治14年現在地の移転経緯、三連寺と重盛供養塔現存を本文で確認
- 行政・公的資料市指定文化財|磐田市公式ウェブサイト
木造閻魔大王坐像(彫刻・鎌倉〜室町時代・所有者連福寺・平成17年11月21日指定・像高1.8m・県内最大級)と連福寺古墳出土三角縁神獣鏡(考古資料・古墳時代・所有者磐田市・令和5年4月28日指定)をHTML原文で確認
- 民間二次情報平重盛と遠州の三連寺(史跡めぐり解説)
平重盛が磐田市内に三ヶ寺(遠州の三連寺)を建てたという伝承の補足解説を本文で確認
- 民間二次情報ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
第8番=龍池山連福寺(臨済宗妙心寺派・二之宮1262)を確認。寺名・宗派・住所がDBと一致。
- 宗派公式資料臨黄ネット 寺院検索(静岡県磐田市・妙心寺派)
一覧掲載のみ。寺名「連福寺(れんぷくじ)」・住所「二之宮1262」を確認(台帳と一致)。本尊・由緒・行事欄は空欄で、台帳既載の本尊(釈迦牟尼仏)・大同2年開創伝承の裏付けは公式検索からは得られない。
- 行政・公的資料いわた文化財だより第218号
令和5年5月1日発行。P3「連福寺古墳出土三角縁神獣鏡が市指定文化財に」。連福寺古墳の所在・規模と、出土鏡の市指定文化財指定(令和5年4月28日)を記載。
- 行政・公的資料磐田市文化財保存活用地域計画(令和6年9月)
p.37 御厨・田原地区古墳配置図に連福寺古墳を記載、p.54 中泉地区「有形(考古資料)連福寺古墳出土三角縁神獣鏡」、御殿・二之宮遺跡の範囲説明
最終更新日 2026.07.19
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この寺院について
連福寺は磐田市二之宮1262番地に所在する臨済宗妙心寺派の寺院です。静岡県知事所轄の宗教法人名簿にも臨済宗妙心寺派の「連福寺」として登載され、妙心寺派・臨済宗黄檗宗連合各派合議所の寺院検索(臨黄ネット)にも掲載されています。山号は龍池山、本尊は釈迦牟尼仏で、旧称は真言宗の弘福密寺と伝えられます。
当寺の名を広く知らしめているのが、境内の閻魔堂に安置される木造閻魔大王坐像です。鎌倉時代末から室町時代初期の作とされる像高1.8メートルの巨像で、県内最大級の閻魔像として平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定文化財(彫刻)となりました。また、寺名を冠する連福寺古墳から出土した三角縁神獣鏡も令和5年(2023年)に市指定文化財となっており、古代から中世、近世へと積み重なる二之宮の歴史を1か寺で体現するような寺院です。
大正8年(1919年)に開かれた磐田郡三十三観音霊場では第8番札所とされていました。平重盛の供養塔と伝わる石塔や、弘法大師作と伝わる厄除地蔵の石仏など、伝承を今に伝える石造物も境内に残されています。二之宮の地は遠江国二宮・鹿苑神社の鎮座地であり、御殿・二之宮遺跡という古代遠江の中枢と推定される遺跡の範囲にもあたることから、当寺は磐田の古代史・中世史・近代史が交差する場所に立つ寺院として、檀家のみならず郷土史に関心を寄せる人々からも注目されてきました。
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歴史と背景
大同2年開創の伝承と弘福密寺
磐田市観光協会の資料によれば、当寺の開創は大同2年(807年)で、弘法大師空海が厄除地蔵の石仏を作って安置し、真言宗弘福密寺としたのが始まりと伝えられます。この厄除地蔵の石仏は、現在も境内の大師堂に安置されています。大同2年は空海が唐から帰国して間もない時期にあたり、開創伝承は史実として確認されたものではありませんが、遠江各地に残る大師伝承の1つとして、当寺が古代にさかのぼる由緒を伝えてきたことを示しています。
平重盛と「重盛の三連寺」
寺伝では、保元元年(1156年)、遠江守であった平清盛の子・平重盛が当寺に伽藍を建て、龍池山連福寺と改称したと伝えられます。重盛は磐田市内に連城寺(新貝)・連福寺(二之宮)・蓮覚寺(竜洋中島)という「連」の字を冠する3か寺を建てたといわれ、「重盛の三連寺」と呼ばれています。連福寺には重盛の供養塔と伝わる石塔が現存しており、平家一門の嫡男として知られた重盛と遠江との縁を伝えています。伽藍建立の年次や重盛の遠江との関わりの詳細については伝承の域を出ませんが、二之宮の連福寺を含む3か寺に「連」の字の寺号がそろって伝えられ、供養塔などの石造物とともに語り継がれてきたこと自体が、この地域の中世の記憶として貴重です。平家滅亡から800年以上を経てなお、寺号と石塔が伝承を支え続けています。
真言宗から臨済宗妙心寺派へ
弘福密寺として始まったと伝わる当寺は、その後禅宗に転じ、現在は京都の妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派に属しています。改宗の時期や経緯を伝える公開資料は現時点では確認できておらず、磐田市誌など郷土資料による調査が今後の課題です。江戸時代の当寺の寺勢を伝える資料も限られていますが、大正8年(1919年)開創の磐田郡三十三観音霊場で第8番札所とされたことからは、近代の当寺が地域の観音信仰の巡拝路に組み込まれ、近郷の人々の参詣を受けていたことがうかがえます。
閻魔像の遍歴―国分寺から連福寺へ
閻魔堂の木造閻魔大王坐像は、当初から連福寺にあったものではありません。磐田市観光協会の資料によれば、この閻魔像は江戸時代までは国分寺にあり、明治初年に十輪寺へ移された後、明治14年(1881年)に現在の連福寺へ移されました。江戸時代までこの像を安置していた国分寺は、奈良時代の遠江国分寺の法灯を伝える寺院で、当寺からもほど近い中泉の地にあります。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈で多くの寺院が混乱する中、巨大な閻魔像が国分寺から十輪寺、さらに連福寺へと寺から寺へ渡り、最終的に当寺の閻魔堂に落ち着いたという遍歴は、近代の磐田の仏教界の変動を映し出しています。像は鎌倉時代末から室町時代初期の作とされ、忿怒の相で亡者を裁く閻魔王の姿を1.8メートルの巨躯で表した、県内でも屈指の閻魔像です。磐田市の市指定文化財一覧では所有者は連福寺と明記されており、地域の閻魔信仰の中心として当寺が像を守り伝えています。
連福寺古墳と文化財の寺としての現在
当寺の境内近くには、かつて古墳時代前期(約1600年前)の前方後円墳「連福寺古墳」があったと推定されています。墳丘は現存しませんが、かつては全長50メートル以上の高まりがあったとされ、出土した三角縁三神五獣鏡は、近畿地方の大和王権との結び付きをうかがわせる資料として、令和5年(2023年)4月28日に磐田市指定文化財(考古資料・所有者は磐田市)に指定されました。この指定により磐田市の指定文化財は136件となり、鏡は磐田市埋蔵文化財センターで展示されています。また、当寺が所在する二之宮地区一帯は、弥生時代から中世にかけての大規模遺跡である御殿・二之宮遺跡の範囲に含まれており、古代には遠江国府の中心施設が置かれたと推定される、磐田の歴史の核心部にあたります。 平成17年(2005年)11月21日、木造閻魔大王坐像が磐田市指定文化財(彫刻)に指定されました。さらに令和5年(2023年)4月28日には、連福寺古墳出土の三角縁神獣鏡が市指定文化財(考古資料)となり、いわた文化財だより第218号でも「連福寺古墳出土三角縁神獣鏡が市指定文化財に」として紹介されました。磐田市文化財保存活用地域計画でも、中泉地区の文化財として同鏡が位置付けられています。中世の仏像と古墳時代の鏡という時代も性格も異なる2つの文化財が、いずれも「連福寺」の名とともに指定されていることは、当寺とその境内地が長い時間軸で二之宮の歴史を担ってきたことの証といえます。
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文化財・見どころ
木造閻魔大王坐像
鎌倉時代末から室町時代初期の作とされる像高1.8メートルの閻魔大王坐像で、県内最大級の閻魔像とされます。平成17年(2005年)11月21日に磐田市指定文化財(彫刻)となりました。江戸時代までは国分寺に安置され、明治初年に十輪寺へ、明治14年(1881年)に連福寺へ移されたと伝えられ、現在は境内の閻魔堂に安置されています。
連福寺古墳出土三角縁神獣鏡
推定全長50メートル以上の前方後円墳・連福寺古墳から出土した三角縁三神五獣鏡です。古墳時代前期の資料で、大和王権との結び付きをうかがわせるものとして令和5年(2023年)4月28日に磐田市指定文化財(考古資料)に指定されました。所有者は磐田市で、磐田市埋蔵文化財センターで展示されています。
平重盛供養塔と伝わる石塔
伽藍を建てて連福寺と改めたと伝わる平重盛の供養塔とされる石塔が境内に現存します。「重盛の三連寺」の伝承とともに、平家と遠江の縁を伝える石造物です。形式・年代の詳細は現時点では確認できていません。
大師堂の厄除地蔵石仏
寺伝で弘法大師空海が作って安置したと伝わる厄除地蔵の石仏で、現在も境内の大師堂に祀られています。大同2年(807年)開創の伝承とともに、当寺の始まりを物語る尊像です。
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宗派と本尊を知る
連福寺は、京都の妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊に釈迦牟尼仏を祀ります。真言宗弘福密寺として始まったと伝わる当寺が禅宗の本尊である釈迦牟尼仏を祀る姿には、宗派の変遷の歴史が刻まれています。一方で境内には閻魔堂の閻魔大王坐像や大師堂の厄除地蔵石仏も祀られ、禅と閻魔信仰・大師信仰が重なり合う点が当寺の信仰の特色です。
臨済宗妙心寺派とは
臨済宗妙心寺派は、坐禅によって自らの本性に目覚めることを目指す臨済宗の一派で、大本山は京都市右京区花園の妙心寺です。建武4年(1337年)、花園法皇が離宮を禅寺に改めることを発願し、関山慧玄禅師を開山に迎えて開創されました。「正法山妙心寺」の寺名は、開山に先立ち宗峰妙超禅師によって名づけられたものです。末寺はおよそ3400か寺を数え、臨済宗では最大の宗派です。ご本尊として釈迦牟尼仏を安置する寺院が多いのも臨済宗の特徴です。
修行の中心は坐禅で、師から与えられる問い(公案)に取り組みながら自己を見つめ、日々の作務や生活そのものを修行とする禅風が特色です。生活の中で心を調えることが、そのまま禅の実践につながると説かれます。
檀家の法要では「般若心経」や「観音経」などが読誦され、葬儀では導師が故人を仏の世界へ導く引導の作法に禅宗らしさが表れます。菩提寺で坐禅会が開かれることも多く、暮らしの中で禅に親しむ機会が身近にある宗派です。
釈迦如来という仏さま
釈迦如来は、およそ2500年前にインドで実在した仏教の開祖、お釈迦さま(釈迦牟尼仏)を仏として表したものです。ルンビニーの園で誕生し、29歳で出家、6年の苦行ののち菩提樹の下の坐禅で悟りを開き、80歳でクシナガラの地において入滅したと伝えられています。
誕生の際に唱えたと伝わる「天上天下唯我独尊」の言葉は、誰もがかけがえのない命を生きているという人間尊重の心を表すと受け止められています。坐禅の教えを受け継ぐ曹洞宗をはじめ、禅宗の寺院では釈迦牟尼仏を本尊と仰ぎます。誕生を祝う4月8日の降誕会(花まつり)には誕生仏に甘茶を注ぎ、悟りを開いた12月8日の成道会、入滅の日である2月15日の涅槃会と合わせて、三仏忌として特に大切に営まれてきました。
花まつりは子どもの健やかな成長を願う行事として地域の寺院でも親しまれています。本尊のお釈迦さまに手を合わせることは、すべての命が尊いというその教えに立ち返り、自らの生き方を見つめ直すことでもあります。
05
地域とのつながり
連福寺のある「二之宮」の地名は、遠江国の二宮とされる式内社・鹿苑神社がこの地に鎮座することに由来します。鹿苑神社は履中天皇4年(403年)勧請と伝わる古社で、元慶年間に遠江国司が国府に近い現在地へ遷座したという由緒をもち、二之宮の一帯が古代遠江の中枢に近い土地であったことを物語ります。実際、当寺周辺の御殿・二之宮遺跡は遠江国府の有力な推定地の1つとされ、後には徳川家康の中泉御殿もこの遺跡の範囲に築かれました。古代の国府、中世の平家伝承、近世の御殿と、二之宮は磐田の歴史の節目が積み重なる土地であり、連福寺はその中で法灯を伝えてきました。磐田市観光協会の中泉エリア案内も、この一帯を「奈良時代には国分寺が建てられ、遠江の中心」であった土地と紹介しており、徳川家康の御殿や代官の住んだ陣屋があったことにも触れています。二之宮の当寺から中泉の市街地にかけては、寺社を巡りながら歴史上の人物の面影をたどれる地域として位置付けられており、当寺はその東の起点にあたります。
中泉地区地域づくり協議会の資料によれば、徳川家康は二之宮にある大池へしばしば鷹狩りに訪れたと伝えられ、二之宮から中泉にかけての一帯は家康ゆかりの伝承が色濃く残る地域です。また、当寺の閻魔像はもとは国分寺にあったものが明治14年(1881年)に当寺へ移されたと伝わり、遠江国分寺跡や中泉の寺々と当寺とが、尊像の移動を通じてもつながっていたことがわかります。「えんまさま」の寺として親しまれてきた当寺は、地獄の裁判官である閻魔王を通じて命や行いを見つめ直す場として、二之宮の人々の暮らしの中に根付いてきました。大正期に磐田郡三十三観音霊場の札所となったことも、当寺が近郷の巡拝の受け皿であったことを示しています。閻魔像と三角縁神獣鏡という2つの市指定文化財に加え、重盛供養塔や厄除地蔵石仏の伝承も含めて、当寺は二之宮の記憶の器として、地域とともに歴史を語り継ぐ役割を担い続けています。
06
年中行事・参拝の手引き
参拝・法要で訪れる方へ
閻魔堂の木造閻魔大王坐像は磐田市指定文化財です。法要やお墓参りで訪れる際は、堂宇や像を傷めないよう配慮してください。境内には平重盛供養塔と伝わる石塔などの古い石造物もあるため、丁寧に扱ってください。
年間行事の日程・内容は公開資料では確認できていません。法要・行事について知りたい場合は、寺院へ直接確認してください。
- 施餓鬼会・彼岸会・閻魔堂の縁日など年間行事の有無と日程
- 閻魔堂・閻魔像の公開(御開帳)の有無
- 永代供養・墓地の取扱いの有無と条件
- 護持会など檀家組織の有無・活動内容
行事の日程・受付は年により変わることがあります。最新の情報は寺院の公式情報または寺院へ直接ご確認ください。
07
よくある質問
- 連福寺の読み方と山号は?
-
「れんぷくじ」と読みます。山号は龍池山で、正式には龍池山連福寺と称します。旧称は真言宗の弘福密寺と伝えられます。
本文「この寺院について」を読む - 宗派と本尊は?
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京都の妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派で、本尊は釈迦牟尼仏です。もとは真言宗弘福密寺と伝わり、後に禅宗へ改宗したとされますが、改宗の時期・経緯は現時点では確認できていません。
本文「宗派と本尊」を読む - いつ誰が開いたお寺ですか?
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寺伝では、大同2年(807年)に弘法大師空海が厄除地蔵の石仏を作って安置し、真言宗弘福密寺として開いたのが始まりと伝えられます。その後、保元元年(1156年)に平重盛が伽藍を建てて連福寺と改称したと伝わります。
本文「歴史と背景」を読む - 「重盛の三連寺」とは何ですか?
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平重盛が磐田市内に建てたと伝わる、連城寺(新貝)・連福寺(二之宮)・蓮覚寺(竜洋中島)という「連」の字を冠する3か寺の呼び名です。連福寺には重盛の供養塔と伝わる石塔が現存しています。
本文「歴史と背景」を読む - 閻魔像はどんな像ですか?
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鎌倉時代末から室町時代初期の作とされる像高1.8メートルの木造閻魔大王坐像で、県内最大級とされます。平成17年(2005年)に磐田市指定文化財(彫刻)となり、境内の閻魔堂に安置されています。
本文「文化財・見どころ」を読む - 閻魔像はもともと連福寺にあったのですか?
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いいえ。江戸時代までは国分寺にあり、明治初年に十輪寺へ移された後、明治14年(1881年)に連福寺へ移されたと伝えられています。
本文「歴史と背景」を読む - 連福寺古墳とはどんな古墳ですか?
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当寺の名を冠する古墳時代前期の前方後円墳で、全長50メートル以上と推定されます。墳丘は現存しませんが、出土した三角縁神獣鏡が令和5年(2023年)に磐田市指定文化財となり、磐田市埋蔵文化財センターで展示されています。
本文「文化財・見どころ」を読む - 札所になっていますか?
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大正8年(1919年)に開かれた磐田郡三十三観音霊場の第8番札所とされていました。この霊場は歴史的霊場で、寺名・宗派・住所は霊場資料の記載と一致することが確認されています。
本文「この寺院について」を読む
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写真で見る境内
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出典・参考資料
- 行政・公的資料 静岡県知事所轄宗教法人名簿(令和5年3月31日現在)
磐田市内の宗教法人として「臨済宗妙心寺派 連福寺 磐田市二之宮1262番地」の掲載を確認。参照行: L9096。県サイト改編により2026年5月時点のアーカイブ版を参照
- 郷土資料 磐田 中泉ありがた歩記(磐田市観光協会パンフレット)
龍池山連福寺・臨済宗・本尊釈迦牟尼仏、大同2年(807年)弘法大師開創(弘福密寺)、1156年平重盛による伽藍建立と改称、大師堂の厄除地蔵石仏、県内最大の閻魔大王像、閻魔像の国分寺→十輪寺→明治14年現在地の移転経緯、三連寺と重盛供養塔現存を本文で確認
- 行政・公的資料 市指定文化財|磐田市公式ウェブサイト
木造閻魔大王坐像(彫刻・鎌倉~室町時代・所有者連福寺・平成17年11月21日指定・像高1.8m・県内最大級)と連福寺古墳出土三角縁神獣鏡(考古資料・古墳時代・所有者磐田市・令和5年4月28日指定)をHTML原文で確認
- 民間二次情報 平重盛と遠州の三連寺(史跡めぐり解説)
平重盛が磐田市内に三ヶ寺(遠州の三連寺)を建てたという伝承の補足解説を本文で確認
- 民間二次情報 ニッポンの霊場 磐田郡三十三観音霊場
大正8年開創の磐田郡三十三観音霊場第8番=龍池山連福寺(臨済宗妙心寺派・二之宮1262)を確認。寺名・宗派・住所がDBと一致
- 宗派公式資料 臨黄ネット 寺院検索(静岡県磐田市・妙心寺派)
一覧掲載のみ。寺名「連福寺(れんぷくじ)」・住所「二之宮1262」を確認(台帳と一致)。本尊・由緒・行事欄は空欄で、本尊(釈迦牟尼仏)・大同2年開創伝承の裏付けは公式検索からは得られない
- 行政・公的資料 いわた文化財だより第218号
令和5年5月1日発行。P3「連福寺古墳出土三角縁神獣鏡が市指定文化財に」。古墳時代前期(約1600年前)・全長50m以上の推定・墳丘非現存・大和王権との結び付き・指定で市指定文化財136件・磐田市埋蔵文化財センターでの展示を確認
- 行政・公的資料 磐田市文化財保存活用地域計画(令和6年9月)
p.37 御厨・田原地区古墳配置図に連福寺古墳を記載、p.54 中泉地区「有形(考古資料)連福寺古墳出土三角縁神獣鏡」、御殿・二之宮遺跡の範囲説明を確認
- 民間二次情報 静岡県:歴史・観光・見所「鹿苑神社(磐田市)」
現地案内板(由緒)をもとにした解説。鹿苑神社が遠江国二宮・式内社で履中天皇4年(403年)勧請と伝わること、元慶年間の遷座伝承、御殿・二之宮遺跡が遠江国府の有力推定地の1つであることを確認(二之宮の地名文脈として使用)
- 地域資料 磐田市中泉地区地域づくり協議会「秋鹿邸/中泉公園」
徳川家康が磐田市二之宮にある大池へしばしば鷹狩りに訪れたという記述を確認(二之宮の地域文脈として使用)
- 行政・公的資料 磐田市観光協会「御殿遺跡公園」
御殿遺跡が弥生時代から中世に営まれ、奈良時代には遠江国府の中心施設が配置されたと推定されること、天正12年から15年(1584年から1588年)の中泉御殿造営を確認(二之宮・御殿一帯の歴史文脈として使用)
- 民間二次情報 コトバンク「中泉村」(日本歴史地名大系)
中泉村の現在地名に中泉・国府台・今之浦・見付が含まれること、中泉御殿・中泉代官陣屋の存在を確認(地区の歴史文脈として使用)
For Families
このお寺が菩提寺のご家族へ
菩提寺の名前や場所が確認できたら、それだけで終わりではありません。
法要やお墓について、家族の中で誰が情報を持っているのかも確認しておくと、将来困ることが少なくなります。親が元気なうちに、次のことを家族で確認しておくことをおすすめします。
- お墓の場所
- 墓地の区画
- 次回の法要
- 仏壇の場所
- 位牌の有無
- お寺からの連絡を受ける人
- お寺の連絡先
- 墓や仏壇を将来誰が引き継ぐか
- 実家の名義
- 実家を今後誰が管理するか
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